/ 8 May. 2008 (Thu.) 「フクロウの概念」
■そういえば、友人の上山君が自身のサイトで私に呼び掛けてくれていたのだった。4月13日付の文章だからもうずいぶん経つのだが、上山君の知り合いが漫画の単行本を出したという話の流れで、
京都の友達Sさんの漫画「しろくまカフェ」がついに単行本になったのでアマゾンで購入。といっても3週間待ちみたい。みんなでガシガシ注文してアマゾンに在庫を持たせよう。ていうか知り合いが単行本出すって普通に凄いなあ。ここに本名出すのが微妙にでもはばかられる人は初めてだ。
とあったあとに、こう呼び掛けられてしまった。
Sさんには「知的だけどポイントのずれた会話を繰り広げる双子のフクロウ」のネタを書いてくれと頼まれているのだが、>相馬君、どう? [※強調は引用者]
俺かよ。むつかしいことを言うなあ。コンセプトが明確なぶん、ちょっと厄介じゃないか。
■でまあ、『しろくまカフェ』も読まずに、ひとまず下のようなものを書くには書いたのだったが、これ、おそらく求められているものとちがうんじゃないかと思え──というか、お題からずいぶん逸脱している気がし──、却下。別のを考えるとしよう。
- 弟
- 兄さん、ぼく…
- 兄
- どうした?
- 弟
- ここ数ヶ月ぐらいずっと考えていたことがあって…
- 兄
- うん。
- 弟
- ようやくその答えというか、まとまりかけてるんだけど…
- 兄
- そうやっておまえは哲学者だからなあ、昔から。
- 弟
- ぼくたちのことなんだ。
- 兄
- 将来か?
- 弟
- じゃなくて、ぼくたちの存在というか…
- 兄
- 存在?
- 弟
- 言ってみればフクロウじゃないかと思って。
- 兄
- ……「フクロウ」?
- 弟
- フクロウ。
- 兄
- 何だそれ。
- 弟
- 何だって言われると説明がむずかしいけど、考えたんだ。
- 兄
- おまえがか。
- 弟
- うん。ぼくたちを言い表す言葉なんだ。
- 兄
- 名前か?
- 弟
- いや、名前じゃなくて、新しい概念装置というかな。
- 兄
- 名前じゃないのか。
- 弟
- もっとこう、とても大きな概念なんだ。
- 兄
- 「友愛」みたいなものか?
- 弟
- そうだね、そういうものに近いね。
- 兄
- じゃあ、そうなんじゃないか? フクロウ。おれたち。
- 弟
- そうかなあ。
- 兄
- 考えたんだろ?
- 弟
- 兄さんと話して、もっとさ、鍛えたいんだ、この概念を。
- 兄
- もっといい名前ってことか。
- 弟
- じゃなくて、まだこう漠然としてるから。
- 兄
- 漢字は?
- 弟
- 漢字?
- 兄
- それ、漢字で書けるのか?
- 弟
- 考えてなかったけど、とくに。
- 兄
- 書けたほうがいいだろ、漢字で。
- 弟
- ……。「袋」でいいんじゃないかな、とりあえず。ものを入れるフクロの「袋」。
- 兄
- 最後の「ウ」はどうするんだ。
- 弟
- いや、ほんとは呼び方なんてどうでもよくてさ。
- 兄
- どうでもいいのかよ。
- 弟
- どうでもいいっていうとあれだけど、その、中身だよ、言葉の。
- 兄
- ……。
- 弟
- 定義っていうかさ。
- 兄
- ……。
- 弟
- ……。
- 兄
- やっぱりもっといい名前がいいな。
関連記事
/ 7 May. 2008 (Wed.) 「カウンターと中和」
■硫化水素の作り方はこちら。といったやり方はやや露悪趣味が勝るかたちで美しくないかもしれないが、ともかく必要なのは──そしておそらくじっさいに有効なのは──国家による規制よりも、民間による「カウンター」と「中和」である。
■「GIGAZINE」がまとめた「硫化水素で自殺するための情報をネット上から削除するべきか否か?」という記事は非常に目配りよく各方面の声を配置している印象で参考になる。そこにある「ウェブ魚拓」のきっぱりとした態度表明にも感服するが、加えて、自殺対策支援センターライフリンク(NPO法人)の代表が示している、以下の対策にもただうなずかされるばかりだ。前掲の記事が引用している箇所とまったく同じだが、ここにも引いておこう。そこに挙げられている「ネットでの対策」が「削除」でないことは注目に値する。
考えられるのは、緊急避難的な対策と根本的な問題に迫るための長期的な対策だろう。
緊急避難的な対策については、大きく2点。
ひとつは、報道の仕方をあらためること。WHOの「自殺報道ガイドライン」[※リンクは引用者]を参考にして、自殺対策に資するような報道に変えていくことである。もうひとつは、ネットでの対策。「自殺」「硫化水素」と検索したときに、相談窓口のHPが先に検索されるような仕掛けにすること。加えて、2ちゃんや自殺掲示板などに、相談窓口のHPアドレスをカウンター的に打ち込んでいくこと。そうやって、自殺の方向に向かう情報ばかりが集まっている状態を、生きる方向に向かう情報を増やしていくことで「中和」させるべきだろう。
また長期的な対策も、2点。
ひとつは、教育の中で「悩みを打ち明ける訓練」「死にたいという気持ちになったときそれを伝える訓練」をすること。
自殺予防教育というと、すぐに「命の大切さを教えよう」ということになりがちなのだが、子どもたちだって「命が大切なこと」くらいはすでに分かっているわけで、問題はその「大切な命」を守れなくなってきたときに助けを求める方法を教えてあげることなのだと私は思う。またもうひとつは、「生きるに値する魅力的な社会にしていく」ということだ。そのためにも、社会がもっと「死から学ぶ」ための仕組みを整えるべきだろう。当事者の声が施策に反映されるような仕組みを作っていく必要があるのだと思う。
ライフリンク代表日記:「坑道のカナリア」の声を聞け 〜「硫化水素自殺」報道に思うこと〜
「『自殺』『硫化水素』と検索したときに、相談窓口のHPが先に検索されるような仕掛け」は、むろん検索サイトの側で対応してしまうことのほうが話は早いだろうが、一方で、たとえば冒頭のようなリンクを個々人がそのサイトに張ることでも、「硫化水素」で検索した場合の当該ページ(もしくは別の、自殺志望者に読ませたいと思うページ)の順位を上げることは可能だろう。もちろん、素直に「硫化水素自殺を考えているあなたへ」とリンクを張るのでもかまわないし、効果は同等かそれ以上だと思う。
■そしてまた別のカウンターとして、私が用意したいと夢見るのは「ひどく時間のかかる硫化水素の作り方」である。「作り方」というか「作り方を記した(とされる)読み物」で、主人公の男は四十二歳で硫化水素による自殺を遂げることになるのだけれど、そこでは自死へと至る男の一生が語られる。途中何度も語り手によって確認されるように、目的はあくまで男が用いたとされる画期的な硫化水素の生成法を説明することにあるはずなのだが、しかしその欠くべからざる前段として語りはあくまで男の生涯に寄り添おうとし、ときにその記憶のひだにまで拘泥したかと思えば、ときに思わぬ脱線を見せる。読み進むうちに奇妙なことが起こるのは、どうも、いま語っている当の語り手こそがその男なのではないかと思える言及が現れはじめるからで、とすると、男は自殺しなかったのだろうかという疑念が沸くことになって読者は混乱するが、そのさなか、三十六歳になった男が上海へと旅立つところで唐突に第一部の幕は閉じられてしまう。そしてつづく第二部、同じ語り手によってこれまた唐突に語られはじめるのは、男の母親の物語なのだった。
■「なのだった」じゃないよ。
■コメディライターの須田泰成さんから電話をもらう。5月21日(水)に新宿ロフトプラスワンで「モンティ・パイソン・ナイト」なるイベントがあるそうで、よかったら来てくださいとわざわざ。ありがたい。台本集を翻訳した『空飛ぶモンティ・パイソン 第1シリーズ』でお世話になったイースト・プレスの編集者の方はその後、私のブログ(ここ[=Yellow]かな、ここだとは思うけど)を読んでくれてもいるそうで、かつまた「面白がっているらしい」とは須田さんからの伝聞である。だとすればこれもありがたい。
■4月26日付の「贅沢をする」でただただ自慢させてもらった細野晴臣&ワールドシャイネスのライブ(@Billboard Live TOKYO)だが、そこでの音源から2曲、「Pom Pom 蒸気」と「はらいそ」が iTunes Music Store限定でリリースされている。
■そしてビルマ(ミャンマー)だ。たいへんなことになっているのだった。死者数がすでに2万を越え、推計100万という数のひとが家を失ったサイクロン被害へのユニセフ緊急募金はこちらからどうぞ(クレジットカードによるインターネット募金も可能)。Save Burma!
関連記事
/ 6 May. 2008 (Tue.) 「今日こそ手短に」
■これを書いているいま現在、「コメディカル」での検索結果で「コメディカルという思想」は62位(Google)だ。さらに「コメディカル 意味」という組み合わせでは7位(同)に出てくる。たいへん申し訳ない。
■お忙しいのだろう、5月2日付の更新で止まっている宮沢(章夫)さんの「富士日記 2.1」ではいま、行くと毎日デビッド・バーンに出迎えられているが、この「Once In A Lifetime」のビデオクリップは私にとって(世代的におかしな話なのだが)非常に慣れ親しんだもののひとつである。よく見てた、これ。「ベストヒットUSA」か何かを録画したものだと思うが(録画したのはもちろん私ではなく兄)、ベータのビデオテープに収められたそれが実家にあって、これ、青少年にとってはやっぱり強烈だからよく覚えているし、自発的に繰り返し見ていた。いまでも、トーキング・ヘッズで一曲だけ選べと言われたら「Once In A Lifetime」を選んでしまうんじゃないかと思うのだが、それは多分にこのビデオクリップの記憶のせいでもある。ついでに書くと、宮沢さんが構成・出演していたフジの深夜番組「FM-TV」(これもまたそのベータライブラリに収められている)の「犬の言いなり」というコーナーのなかでも、このPVじゃなくてライブ映像のそれだが、「Once In A Lifetime」が流れた(=洋楽通として知られるパピヨン犬のボンジョビ君に選ばれた)ことがあったはずだ。だからなんだよという話ながら。
■これもアクセス解析から知ったが、「人力検索はてな」のすでに終了した質問で「あなたが、『センスが良い』と感じられる、あまり有名でないサイトをご紹介下さい。」というものがあり、その回答としてうちのweb-conte.comを挙げてくれた方があったようだ。なにより、回答欄に添えられた
日記(Yellow)の文章も好きです。
というコメントが泣かせる。そう回答してくれたmuranetさん、ありがとう。今日のこの日記はあなたに捧げる。muranetさんさえ信じてくれたなら私は空を飛ぶことだって、湖の水を飲み干すことだってできるけれど、いまはこれがせいいっぱいだ。よくわからないけど。
■連休はとくにこれといったこともなく過ぎた。いわば「Golden Year」を過ごす猫たちの、寝るさまなど見ていた。以前買った『呪術化するモダニティ』(小田亮さんの編著)をぱらぱらと拾い読みする。もっぱら妻がプレイしているWiiだが、唯一共同して進めていた『ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス』は、あともう最後のダンジョンに入ってラスボスと戦うだけという状態のまま放置され、かれこれ一年以上経つのだった。ふと思い立ってそのつづきをやる。最後のダンジョンはわりとあっさりしたボリュームで、ラスボス戦にてこずったもののほどなくクリアし、で、そのあと、妻がまたアタマからやりはじめてしまったのだった。
関連記事
/ 3 May. 2008 (Sat.) 「手短に、のつもりが小田亮さんのブログ炎上の件で長くなってしまったよ」
■あいたたた。ラストソングスの出演するライブイベントがあったらしい。わりと近場(東小金井)でやっていたというのに、告知を目にしたときにはもう終わっていたのだった。だからネットサーフィンにおける定期巡回ってやつは大事なのだが、どうもね、怠ってしまうときがある。もう半日早くなあ、気づいていれば行けていたのに。昼間は友人の荒川夫妻につきあい、シティボーイズの舞台『オペレッタ ロータスとピエーレ』を観に天王洲アイルまで行っていた。
■それにしても、前回分の日記「コメディカルという思想」はくだらなかった。でもまあ渾身。いっしょうけんめい書いたよ俺は。さっそくY君からコメントがあり、どうやら怒っているふうでもないのでほっとする。Y君のコメントがこれ。
Comedic pharmacology
テキストでは無理だったけど,
講義では目指したいね.
かつて,T教授の講義を通じて(読んで)
理系の私が文学を面白いと感じられたように.
Y君の私的言語を一応解説しておくと、この「T教授」というのは筒井康隆の小説『文学部唯野教授』のこと。で、前回少し触れたY君の新しい職場というのがつまりとある大学で、ここ二年ばかりY君は救急医療の現場に身を置いていたのだが以前の研究職にもどることになり、准教授というやつになって二、三の講義を受けもっているのだった。で、そのY君とは夜、iChatで長ビデオチャットをする。
■ここ数日、アクセス解析を見ていると「小田亮」で検索してうちに来る人が目につき、何かと思ったら、小田さんのブログ(の一記事)がいわゆる「炎上」をしていたのだった。で、うちにはたとえば「小田亮さんのブログがすごいのだ」といった記事があり、それが参照(?)されたようだ。
■炎上の舞台となったのは「正義と倫理のあいだについて」と題された記事。ただ、今回のその「飛び火」的な炎上は記事の主題(同一平面上に対立するものとして「正義(=裁き)」と「倫理(=慈愛)」とを捉えるべきではなく、両者がそれぞれ異なる「水準」において成立していることにこそ注目すべきであり、また水準の異なる両者は同時に存在可能であって、われわれはそのあいだを往還できる/している、といったような話)とほとんど関係のない位相で展開されている。火種はというと、青山学院大学准教授の瀬尾佳美さんという人。この人が自身のブログで行ったとされる「問題発言」の数々が2ちゃんねるやらブログやらで取り上げられ、非難の集中砲火を浴びているらしいのだが、そのさいに用いられる言説の一典型を取り上げて、小田さんはこのように分析する。
先の光市母子殺害事件の判決に関して、瀬尾佳美さんが自身のブログで、「最低でも永山基準くらいをラインにしてほしい。永山事件の死者は4人。この事件は1.5人だ」といったことを書いたことが問題になりました(私はそのブログを直接読んでいません)。それを非難する人たちは、どうやら「子供の命を0.5人と数えている」ことを問題視しているようですが、とすれば、子供を1人と数えれば、非難しなかったということなのでしょう。つまり、その非難は、固有性・比較不可能性をもつ死者を数えて比較すること自体に向けられてはいないわけです。正義=裁きにおいては、そのように数えて比較することが当たり前のことであり、その意味では「0.5人」という数えることも(当否については意見があるでしょうが)、「正義」(=公正さ)にとってはなんら奇妙なことではないのです。しかし、「倫理」にとっては、「子供を1人」と数えようと、正義のためには不可欠な、数えて比較すること自体がそもそもふさわしくないのです。ようするに、瀬尾さんに対する非難は、正義と倫理を混同してしまっているわけです。
部分引用は誤解を招きやすいので念のため付言しておけば、小田さんは瀬尾さんの主張それ自体を擁護しているわけではない。そうではなく、「正義」と「倫理」という異なる水準のものが混同されて語られがちであるということの一例として、ここでは瀬尾批判の言説のあり方が取り上げられ、批判が加えられているのである(だから、じっさいには逆に「瀬尾批判の側を論理的により鍛えようとしている」とも言える)。そして、今回この記事で瀬尾批判の言説が例として引かれたのは、主題からやや脱線するかたちでひきつづき言及される、次の出来事があったためだろう。
この騒ぎに関して起きたもっとも奇妙な出来事は、瀬尾さんの所属する青山学院大学の伊藤定良学長が「当該教員の記述は適切でなく、また関係者のみなさまに多大なご迷惑をおかけしたことはまことに遺憾であり、ここに深くお詫び申し上げます。今後このようなことが繰り返されることのないよう努めてまいります」と謝罪したことです。大学に非難の電話が殺到したからということらしいのですが、学長の見解をホームページに載せるのであれば、「当該教員の見解は大学の見解ではなく、また学長個人としてはそのような見解は不適切だと思うが、たとえそれが大学の見解と異なっていようと、教員個人が意見を表明する機会を青山学院大学は保証するものである」ぐらいのことを載せてほしいものですよね、なにせいちおう大学なんだから。もちろん、大学や学長とは異なる見解の表明でも本学は擁護するなんてことを載せたら抗議の電話を鳴り止ませることはできないかもしれないけども、よりによってそれを「多大な迷惑をかけた」(ここでも「迷惑」が理由になっています!)、「今後このようなことが繰り返されることのないよう」だとは(所属する教員に社会通念に反することを二度と述べさせないってこと? それって研究するなってことか)。
でまあ、これらの文章(のさらに一部?)が、もとの文脈から切り離されるかたちで(瀬尾発言をその内容面から擁護するものとして)2ちゃんねるなどに貼られ、それに煽られた大量の(おそらくは記事本文さえ参照していないと思われるような)ためにする罵倒/挑発コメントが押し寄せて、騒ぎになっていたということのようだ。騒ぎを外側から(かつ事後的に)眺めるだけの身としては、この機会に、何人かでも小田さんの言説(主題のほうね)に触れ有意義な示唆を受ける人があればと悠長なことを思うのだったが、当事者とすればそれどころではない数日間だったのだろう。
■小田さんの管理ポリシーにより、大半の(中身のない/議論する気のない)コメントは削除されたあとだが、残っている多少なりとも議論をもちかけようとするコメントのいくつかを見るに、それらはつまるところ、「言わんとするところもわからないではないが、でも、今回の瀬尾ばっかりは擁護できない/許せないでしょ?」という土俵に持ち込むことによって小田さんの(ひいては万人の)合意を得ようとしているように見える。たしかに、上で扱われている発言のほかにも、瀬尾さんという人は過去のブログ記事において「ちょっとどうなのか」というたぐいの発言を数多く重ねているらしく、その発言の趣味の程度においていわば「勝敗は決している」とさえ言えるのだけれど、だとすればなおのこと、その「試合結果」を連呼することにそれ以上の意味はないように思えるのだし、たとえば小田さんのように、そこで発生した言説空間に対して批判的検討を加えることのほうが、より「前へ進もうとする」行為になるだろう。そしてまた、「これこれこういう点に絞れば正しい/悪いでしょ?」というほぼ万人にとって否定しづらい一点にまで問題を微分し、その「正しさ/悪さ」を足がかりに、問題全体に対するある一定の態度/合意をこれまた万人に対して迫るという時代の「空気」が、なんともあぶなっかしいものとしてここにも発生しているのを見たのだった。
関連記事
/ 1 May. 2008 (Thu.) 「コメディカルという思想」
■このサイト、キーワードによっては検索結果の上位にきたり、中堅どころに顔を見せたりして、どうもそれなりのロボット評価的なポテンシャルをもっているようでもあるから、しばらくのち、あるいは「コメディカル」で検索したときにこのページが上位に昇るようなことがあるかもしれず、そうして訪れた方にはいまのうちに謝っておこうと思うが、申し訳ない、あなたがここへ来たのは無駄足である。
■いや、お詫びの意味を込めてまず先に「コメディカル」の正しい意味を書いておくが、この和製英語が指し示すのは「co-(共同の)medical」であり、「医師でない医療スタッフ」の総称として用いられる。そこにはたとえば看護師、ソーシャルワーカー、心理士、薬剤師、放射線技師、さらに新しい分野で遺伝カウンセラー、臨床試験コーディネーター、音楽療法士といったさまざまな職種が含まれ、医療の専門細分化と、そして「患者中心の医療」を実現するために導入されるチーム医療制とによってその存在が注目/重視されるようになったものである。同様の意味を指す言葉に「パラメディカル」があるが、「para-」という接頭辞が「補助的な」というニュアンスを含んでしまうことから、(日本においては)「コメディカル」のほうが好んで使われる傾向にあるという。
■って、そこまで書けばこれ、わりと有用なページじゃないか。
■さて、いま私がもっとも注目する概念こそが「コメディカル」だ。「コメディ」と「メディカル」から成るこの造語の意味するところは、滑稽な医療である。
■コメディカルの魅力へと踏み入っていく前に、まず私の友人にひさびさの登場を願おうと思ったのだったが──というのも彼に登場してもらわないことにはなぜ唐突にコメディカルなのか、そのことを説明できないからだが──、最近ネットへの露出についてやけに慎重になっている彼はその近況についてここに具体名を書かれるのを嫌がっていて、だから、ほとんど無意味ではあるものの彼の名前だけ今回はY君としておこう。Y君はこの春から職場を変えたのである。職場が変わるという話は二月ぐらいに聞いていたのだったが、そのころはまだ一部関係者に対して内密に事を運んでいたりもして、で、くれぐれもネットには書いてくれるなと釘を刺されていた。で、きょう、ふとY君を思い出し、そういえばもう新しい職場に移って一ヶ月が経たんとしているわけで、もうその方面の話も解禁だろうかと思って念のためY君にメールで確認したのがいけなかった。具体名は出すなと言われてしまい、まったく書きにくいったらありゃしない。勝手にがんがん書いてしまえばよかったと悔やむ。で、ある種の具体名を出さないのは無理なので──というか、以下で触れるようなことはみなすでにネット上に情報が公開されているものばかりで、Y君の名前で検索すれば簡単にそれらのページが引っかかってもくることだから──、それで逆にY君の名前のほうを(このドキュメント上では)ぼやかすことにする。
■というわけで、Y君のその新しい職場の公式サイトへ行き、探すとY君のプロフィールの載ったページもあるので読んだのだけど、そこにあった過去の業績のうち、目にとまったのが(というか日本語のものがそれだけだったわけだけど)『コメディカルのための薬理学』という本(分担執筆)で、そのうち、Y君は「循環器系疾患に対する薬物」という項を共同で担当しているのだった。
■いや、Y君、どうもありがとう。君の出番はここまで。あとはY君とまったく関係のない、私の文章である。
■いやあ、でね、じつに気に入ってしまったわけですよ、この「コメディカル」という言葉が。思わずにんまりとするような、じつに軽妙な響きをもっています。「滑稽な医療」と日本語にすることで失われるのは、その軽妙さに他なりません。
■これ、想像ですけどね、相撲でいう「しょっきり」のようなものじゃないかと思うわけです。医者がふたりいて、おそらく場所は手術室なのだけれど、もうそれぞれが間違ったことしかしない。相手のじゃまをしたりとかね。で、「しょっきり」が観客に対して相撲の反則(やってはいけないこと)を解説するためのものであるように、「コメディカル」もまた、その軽妙な笑いにくるむかたちで、医療におけるやってはいけないことを伝えるという、そうした面があるのじゃないかと思います。知りませんけど。
■コメディカルがむずかしいのは、その軽妙さを保つためになるべく動作のみで進行していかなくてはいけないところです。そこで設定としてたとえば、マスクをしているためにしゃべりにくいといった状況が逆手にとられ、うまく取り入れられているのではないかとも想像します。そしてなにより、「しょっきり」に影響を受けて出発したコメディカルにとっての最初の難関は、「医者はべつに対戦しない」ということにあります。この点は厄介です。何とかふたりの医者をいがみ合わせたいけれど、そこへいかにスムーズに、短時間でもっていくかがコメディカル作家にとっては問題となるでしょう。
■そう考えるとやはり、最初からふたりの医者が揃っているのではなく、そこにはまず医者Aがいて、もう手術開始の時間だというのに医者Bが来ない、といったところからはじめるべきかもしれません。手術室には医者Aと、麻酔を受けて眠っている患者、何人かの看護師、それと行司がいます。手術の身支度をととのえて待っている医者Aはすでにイライラしていて、腕時計の文字盤を指で叩くような大げさなジェスチャーをし、「高田先生は?」とそばの看護師に訊くでしょう。で、そこへ医者Bがやってくるというふうにして、たいがいのコメディカルは幕を開けるのだと思います。知りませんけど。
■ま、ここまで来るとですね、『コメディカルのための薬理学』のその中身があらためて気になってくるところでして、おそらく、そこにはコメディカル作家や、あるいはコメディカル俳優にとっての実践的ヒントとなるようなさまざまな知見が収められているのではないかと、ほんと知りませんけど、そう思います。