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Oct.
2005
Yellow

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/ 13 Oct. 2005 (Thu.) 「これが日記かよ」

笠木さんを心配する相馬。

ブログの記事にした「URLメモ[10/13]」は、ばらばらな3つの話題のどれかひとつでも引っかかるかなあと思い「母さんが読んでもわかる話」のカテゴリに含めてみたものの、結局どれもが「わかるかなあ、これ」という文章になってしまった。
そのなかにある「漫画喫茶に2カ月居座り容疑、男を逮捕」 (新規ウィンドウ) という asahi.com のニュースへのリンクで、記事の引用の間に挟んでいるのは、これ、落語「居残り佐平次」の一節。勘定を催促しに来た店(遊廓)の若い衆にむかって佐平次が言うセリフの一部です。速記本等を写したのではなく記憶をたよりに書いたものなので正確なものじゃありません。『志ん朝落語—榎本版』 (新規ウィンドウ) のなかで榎本滋民が細かく書いている梗概をもとに、古今亭志ん朝はたしかこんな感じじゃなかったかといくつか付け足し、短めに再構成したが、つい最近川島雄三の『幕末太陽傳』 (新規ウィンドウ) を見返したばかりなのであるいは口調にフランキー堺の佐平次が混じっているかもしれない。
で、気になるので家にある志ん朝のCDを聞き、該当箇所を文字に起こしてみると次のような具合だったことを報告しておく。

帰ってったあの三人、友達あたしの、三人、いたろ? あれがね、たいへんに遊び好きでね、ウン、遊びをして裏を返さないのは客の恥、エエ?馴染みを付けさせないのは花魁の腕がにぶいぐらいのことは心得ている連中だよ、ねえ。ゆんべ飲んでて、兄貴このうち裏ァ返さなくちゃいけねえねって、あたりめえだよ、じゃ日ィ改めて来ようじゃねえかって俺がそう言ったら、それじゃあだめだ、ああ、間の空かねえうちに、ねえ、馴染みがずうっとあるうちに、ウン、ゆんべの今夜でもって、ひとつ今夜裏ァ返そうじゃねえか、そのかわりねえ、俺たちゃあ商売があるからいったん帰るよ、帰るけれども、事切れンなっちゃあいけねえから兄貴すまねえけれどもここでもってつないでてくれねえかって、こう言われて、アタシゃあいまつなぎにかかってんだよ。ねえ?ウン。いま何時?エエ?三時…三時半?あそ、これが四時になる、五時、六時…、あたりが小暗くなってくるだろ?ねえ? そうするってえと方々の店でもって下足札を撒いたり、ねえ? 羽目を叩いたり、ちゅうちゅう鼠鳴きやなんかがはじまるよ。ねえ? そうすると、坂の上から三台の車が、カラカラカラカラカラカラカラーッと下ってきて、このうちの前でぴたりと止まるてえやつだ。ねえ? 車の象っ鼻をとーんと付くってえと、すっと降りてくんのがゆんべの三人だ。こういう遊びを君に見せたいよ。ねえ、エエ? ゆんべ縞を着ていた者は今度ァ無地ンなる、無地を着ていた者はかすりという具合に、がらりと服装(なり)を変えるんだ。おうっ!ゆんべはすまなかった世話ンなったな、エエ?おんなじ芸者呼んどくれってんで、わーってんでどんちゃん騒ぎをして、みんなに祝儀をツァーっと渡らして、じゃあ帰ろうじゃねえかってんで四人(よったり)でスーッと帰ろうとこういう寸法なんだが、惜しいね、それがイヤなら…、勘定して帰る。

ところで話(噺)は変わるが、『志ん朝落語榎本版』の「子別れ」の項で榎本は、志ん朝が「金槌」という設定で演じているのを聞きとがめている。

 しかし、玄翁でなく、金槌にしているのは、承知しがたい。志ん生・圓生・志ん朝とも、金槌にしているのだが、それもそのはずで、あるとき志ん生が圓生に、うちの師匠(先代志ん生)も金槌でやっていたし、金槌のほうがよくはないかと助言し、圓生も玄翁では女がもつには大きすぎる気もしたので、助言をとり入れて改めたのだそうである。

 ところが、『圓生全集』の『子別れ』輪講で、飯島友治氏も指摘しているとおり、かすがいを打ち込むには、金槌では力が足りない。子どものいうことだから、そう厳密でなくてもという向きもあるだろうが、門前の小僧、大工のせがれである。「子はかすがい」の落ちを尊重するのなら、玄翁で行くべきだろう。

 輪講では、飯島氏の指摘のすぐあとに、今はもう玄翁と金槌の区別も、一般人にはわからないからという声が出て、せっかくの指摘がほうむられているが、圓生の力量で、玄翁と金槌の区別をわからせるくらいのことが、できないはずはあるまい(これすごいけどね、言いぐさが──引用者)

として、「志ん朝には今後、玄翁に戻してもらいたい」と注文をつけている(原稿の連載は昭和54年11月〜昭和59年5月)のだが、先日聞く機会のあった音源(小さん〜志ん朝のリレー落語による「子別れ」上・下で、たぶん「花王名人劇場」からの音源)では、はたしてこうした指摘を受けてなのか、志ん朝はきちんと「玄翁」の設定で演じているのであった。

って、これが日記かよ。
まあ、あとで読み返したときに、どうやらこの時期相馬のなかでは「落語」だったらしいという記録にはなるか。

本日の参照画像
(2005年10月14日 12:21)

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/ 11 Oct. 2005 (Tue.) 「iChatしかやっていないかのようだが」

夜また上山君とビデオチャットをしていると、メンバーリストウィンドウの永澤が「オンライン」表示にかわった。時間からいって「帰ってきた」のかと思ったが、夜勤明けで午後から寝ていて、いましがた起きたのだという。そこでまず「上山←→永澤」間でのビデオチャットを試してもらうと、案の定ふつうにつながるそうで、先日来書いている「私以外のメンバーと次兄のところとでビデオチャットができない」問題は、いよいよ次兄の側のルーターに起因している公算が高くなる。
それでオーディオチャットに切り替え、上山、永澤と私とを結んで3元長電話。カメラを意識しなくていいオーディオチャットを永澤がひどく気に入った様子。音声のみでやるほうがどこか集中する感覚があるのもたしかだ。やっていることは長電話なのだが、大きくちがうことは受話器がないということで、それ、ものすごくラクなのだった。

(2005年10月12日 12:58)

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/ 9 Oct. 2005 (Sun.) 「厄介なことになってきた」

荒川夫妻が三連休で旅行に出かけていて、今夜は長野の永澤 (新規ウィンドウ) 宅におじゃまするのだということで、永澤のマシンとうちとをつなぎ、荒川にビデオチャットを体験させる。体験させて、荒川のMac購入意欲を掻き立てておこうという胆。
永澤のマシン(G4)はデュアルの1.25GHzで、複数ビデオチャットをするにも申し分なく、「ホスト役」も務められる。そこでまた次兄宅に声をかけ、きのうできなかった複数ビデオチャットを試すも、またもや永澤のところと次兄宅とが接続できない。うーん。厄介なことになった。兄は「iChat AV: 対応するネットワークルータ」 (新規ウィンドウ) という情報を見つけてきて、自分のところで使用しているルータのファイアウォール設定が原因ではないかと推測する。(そもそもいまどきのルータであればファイアウォールの設定を変える必要がない場合が多いが、型が古いせいかそれに該当せず、さらには型が古いため設定を変えようにも変えられない?という状況。)
ではなぜ私のところとだけは何事もなく接続できているのかということになるわけですが、唯一思いつくほかのメンバーとの違いは私だけ「.Mac」のアカウントで iChat にログインしているということで、兄も含めほかのメンバーはみな「AIM」アカウントだ。「AIMアカウント同士の場合にはファイアウォールの設定でどこどこのポートが開いていないと」といった組み合わせの問題があるのだろうか。あるいは単に「そのルータが悪かった」としか説明できないような、微に入って特定不能な何かの要因か。よくわからないのだけれど。
うーん。

(2005年10月11日 15:04)

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/ 8 Oct. 2005 (Sat.) 「複数ビデオチャットの壁」

7日(金)の日記をアップしたあと家を出て、巣鴨へ。妻の親戚で最近子供が生まれた家があり、そのお宅へ伺った。一時間ほどおじゃまして辞す。
巣鴨に来るのはおそらくはじめてだ。帰りにはとげぬき地蔵尊に足を向けてみる。とりたてて特筆すべきことがあったかといえば何もなく、地蔵尊はなんだか狭かった。小さい時分に足を運んだ場所に大人になってから行き「なんだこんなものか」と感じる、その「こんなもの」といった広さしかないと書けば、しかし小さい時分に寄ったこともないものをおかしな言い草だが、なぜかもっと広い空間を思い描いていたのはどこかまた別の、浅草の浅草寺とか、そのへんのイメージとごっちゃになっているだけのことか。雨が降ったり止んだりの天気で、雨のせいかじとっとした蒸し暑さのようなものが肌から感じられもしたものの、それもむろんもう夏の暑さではなく、世の中はいつのまにやら秋である。境内の近くにはかき氷屋の屋台が出ていて、はたして売れるのだろうかと心配させられる。いや、売る気があるのだろうかといぶかりたくなる佇まいですらあって、こうした季節物は引き際を図るのがむずかしいといったことがあるいはあるのだろうか、ひょっとして図りかねてずるずるとこのまま、涼しい顔で冬と春をやり過ごし、また夏が来て何食わぬ顔で繁盛を見せる、そうしたかき氷屋もあるかもしれないと、ありもしない夢想を誘われるのは巣鴨ゆえか。

ついに大阪の上山君 (新規ウィンドウ) 宅でiChatの準備が整ったのは夜だ。電話で説明し、チャットにログインするのに必要なAIMのアカウントを取得してもらい、それでまず私とつながるのを確認したあと、では三者でのビデオチャットを試そうと茨城の次兄宅に声をかける。
が、思わぬ壁が立ちはだかったというのはマシンスペックの問題で、たんにそのへんの情報についてよくよく確認していなかっただけなのだが、複数ビデオチャットとなるとやはりちょっと並々ならぬ処理をしなければならないらしく、参加するには最低、

1 GHz G4、デュアル 800 MHz G4、G5 全機種

でないといけないらしい。上山君のPowerBookはシングルの 800 MHz ぐらいで、「なんだよ、あとちょっとじゃないか」と上山君は少しく納得のいかない様子だが、もう一歩のところで参加できない(iChatの側がCPU速度を自動判別して「できない」と判断してしまうのでどうにも工夫の余地がない)。さらに、複数ビデオチャットを開始する「ホスト役」を務めるにはもっと高スペックが必要で、

デュアル 1 GHz G4、G5 全機種

が最低条件だ。うちのマシンではいま12インチのPowerBook G4が最速で、シングルの 1.33 GHz だから、ホスト役は務められないのだった。
「商売がうまいよなあ、アップルは」と上山君。なんだ、買う気かよマシンを。そういえば OS X になってこのかた(あるいはアップルが「強く」なってこのかた?)、CPUのアップグレードカードというものをとんと見かけない。
障害はそれだけではなく、上山君のところと次兄宅とでビデオチャット(1対1)を試してみるとなぜか接続できない。これはちょっと原因がわからない。
結局、三者でしばらく複数オーディチャット(音声のみのやりとりで、この場合必要スペックは低く最大10人まで同時にいける)をしていた。上山君はまだそれほどビデオチャットのほうを堪能していないからあれだが、オーディチャットはオーディオチャットで充分に楽しいことが判明。チャットというと往年のテキストチャットから来るせかせかしたイメージがどうしてもあるけれど、これはそうしたことはない。知った者同士でやっているということがそもそも大きいが、じつにだらだらしたものである。チャットがつながった状態にしておいて各人(各家庭)はもっぱらそれぞれに思い思いのことをし、ときたまその会話が iChat から流れてくるのに反応して……といった側面が楽しく、テクノロジーの進歩というやつが如実なかたちで立ち現れる。まあつまり通話代ゼロの3元電話ですね。

(2005年10月11日 13:25)

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/ 7 Oct. 2005 (Fri.) 「馬生の口ぶり」

iSight仲間はぞくぞくと。4日(火)に次兄(そうまあきら)から「iChat環境できました」とメールがあり、その夜、テストをかねて話す。次兄夫婦は茨城の実家から道を一本隔てた向かい側に住まっている。iSightの導入はむろん私が母に買い与え遠距離で顔を見せ合いはじめたのに触発されたかたちだが、義姉(みえさん)がこのたび妊娠し、その経過報告などを名古屋で暮らす自分の母親にする手だてとして、こちらも母親に「iChatというものがあってね」ともちかけたらしい。次兄宅には猫が2匹。こちらにも2匹いて、するとカメラはだいたいお互いの猫に向けておけばいいからラクだ。
古今亭志ん朝『世の中ついでに生きてたい』(河出書房新社)と、榎本滋民『志ん朝落語—榎本版』(ぴあ)を買う。対談集である『世の中ついでに生きてたい』のほうは読了。収められているうちのいくつかは雑誌掲載時にすでに読んでいるものである。中村勘九郎(現・勘三郎──ところでいま「かんくろう」は「間苦労」でさんざんだったが、「勘三郎」は一発変換だ。そうしたものだろうか大名跡というやつは──)との対談もあるので、無類の勘九郎ファンとして知られる「ラストソングス」の上村君に教えてあげるのもいいかもしれない。あるいは勘九郎側で編纂された対談集のほうにすでに収められていて読んでいたりするのか。
それにしても私はやっぱり「美濃部一家」(志ん生、馬生、志ん朝)のファンなのだな。

馬生 (志ん生は)人情ばなしをやっても笑わせなければダメだといってましたね。確実に笑わせるところを一カ所残してましたよ。これには感心しましたね。『牡丹灯籠』をやったって一カ所笑わせるんですから。『牡丹灯籠』は笑わせるものじゃないでしょう、怪談だから。

 というのは志ん生のエピソードとしてむろん面白いが、同時に、口ぶりがいかにも馬生らしくてそこも楽しい。

あー、時間なくなっちゃった。これからちょっと出掛けてきます。ではまた。

(2005年10月 8日 12:11)

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/ 3 Oct. 2005 (Mon.) 「ここでこうしてバーチャルに上山君を待つ」

再度状況を説明すると私のまわりではいまビデオチャット(iSight + iChat AV)が流行の兆しを見せている。おそらく次にこの輪に加わるだろうというのが大阪在住の上山君 (新規ウィンドウ) だが、そのことについてはずいぶん「やろうよ」という働きかけをつづけてきたのだった。上山君はすでに PowerBook ユーザーであり、ビデオチャットに使うカメラは私が2つ持っていたうちの1つをあげた。あとはその PowerBook の OS を最新の「10.4(Tigegr)」にアップグレードすればよいのだが、何かに付け「足るを知りがち」な上山君が重い腰をあげるのには時間がかかり、折りからの(私のなかでは第2次にあたる)ビデオチャットブームを受けてようやくその最新OSをアップルストアで注文したと上山君が日記に書いたのが先月末のことだ。

ただ、うちはクレジットカードというやつを持っておらず、コンビニ決済にしたので実際に手に入れるにはもうちょっと時間がかかりそうです。もうちょっと待ってね。(9月29日付けの上山君の日記より)

それではたして Tiger は届いたのかどうなのか、夜、上山君にまた電話をかけた。コンビニ決済の場合、まずアップルから振込用紙を郵送してもらわねばならず、なんだかんだと時間がかかることは知っていて、おそらくまだ届いていないだろうとは思っていたものの、ついつい電話してしまった私はずいぶん子供のようなことになっている。しかしこれだけ催促の電話をかけ、しつこく誘っておいていざ上山君側の環境が整ったという段になり、私のほうで「ブーム」が去っていたりした日には会わす顔もないのではないかと、やや危惧しているのが私だが、とはいえ、もとより「会って会話が弾む」というような間柄ではないのが私と友人たちであり、弾む場合だってあるが、会っていてお互いぼんやりするということも当然あるのであり、その「会話の空白」を許容してしまうのがリアルな空間なのだとすれば、ここで問題なのはむしろ「ブーム」のほうであり、そのブームがもたらす「はしゃぎ」のほうであると書いて牽制しておきたいというのは、だって、ビデオチャットは飽きるからだ。自信があるが、ぜったいに飽きるね私は。
まあ、つまるところ道具(身体の延長としての道具)というか、ごく日常的なものとしてのビデオチャット空間が近い将来そこに成立し、カメラを意識せずぼんやりできる場が成熟したときのことをいまは夢想するのであり、そこへと至るためにこそ私は、(最大4台のカメラをつなげられる)iChat AV の複数同時チャットをはやく試したいのだった。

ひきつづきここで、ブログのほうに載せた「谷岡ヤスジ展 〜ニッポンの〈アサー!〉と丸い地平線〜」 (新規ウィンドウ) の話題に絡め、私の谷岡ヤスジ体験のもとにある「ヤスジのドナンセンチュ」と、それが連載されていた『オール讀物』とを亡父の思い出とともに語るつもりでいたのだったが、前段が思っていたよりも長くなってしまったのでそれはまた今度。
夜、風呂からあがると携帯にメールの着信があって、それは笠木さん (新規ウィンドウ) から一斉送信された『ラブストリームス・ノートブック』 (新規ウィンドウ) の案内だった。勝手バナーまで作っておいてなんだが、自分たちのチケットをまだ予約していなかったのでこの機を逃さずメールで予約を済ませる。土曜の夜の回にしたのは、どうしてももう一度観たくなってしまったときのために日曜の回を残しておくという意味合いが含まれるが、そのように書いてしまって日曜の回に行かなければ「ああそうでしたか」ということになり不必要に気まずくなりはしないかと思うもののそれはそれ、笠木さんには「次回公演のときには私にサイトを作らせろ」とつづけてメールを出しておく。そういえば長野在住の永澤 (新規ウィンドウ) は、おとといビデオチャットをした折り、今度もまた「オールツー」の舞台を観に行けそうもないことをしきりに残念がっていた。夜勤明けに一路車で東京を目指し、日曜の回に飛び込むことも物理的には無理ではないが、そんなことをすると当然ながら肝心の客席でずっと寝ているという失態をやらかす恐れがあって現実的ではないとのこと。まあ無理はしないことだよ。

(2005年10月 5日 02:35)

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/ 1 Oct. 2005 (Sat.) 「吉祥如意」

「0 1/2計画」 (新規ウィンドウ) のからみで兄にたのまれていた仕事を始めようかと考えてたものの、思わずぼんやり過ごしてしまった。何もない土曜の昼下がりである。妻は友達とあそぶために昼から出掛け、夜まで帰ってこない。長野の永澤 (新規ウィンドウ) と「iChat」をする。
こんな感じ(図1の大きいほうの顔が永澤、小さいのが私)。

飛行機馬鹿として知られる永澤は自身のパソコンモニタにカメラを向け、「iPhoto」(Mac標準のデジカメ写真管理ソフト)の画面を映して松本空港で撮影したという連続写真を自慢する(図2、図3)。ああそうですか。ことによると来年職場が変わり、長野を離れるかもしれないそうで、するとこの「空港が近くにある環境」とお別れしなければならないためそのことを嘆く永澤だ。知るかよ。
ところで「iChat」中、ずっと鈴の音のようなハウリングが起きていて、それは永澤の側でとくにうるさく鳴っている様子だ。スピーカーの音量を上げるとハウリングもひどくなるので永澤は音量を下げてごまかすが、するとこちらからの声も小さくなって聞き取りにくくなり、聞こうとしてスピーカーの音量を上げるとハウリングが……と、ほとんどやりとりができなくて笑った。永澤のほうはアップルの Pro Speaker をつなげていて、それと iSight とがハウリングを起こしているんだろうとずっと思っていたが、最後になり、私のほうも PowerBook に Pro Speaker をつなげてみて症状を確認しようとしたところピタッとハウリングが止んだ。なんだ、こっちの問題かよ。
それで思い当たったが、このとき私は PowerBook を外部モニタに接続していて、それでこのように PowerBook は閉じた状態で使用していた(図4)。どうやらこの状態で、内蔵スピーカから音を出していたのが「鈴の音」の原因ということのようだ。
妻が出掛けて居ないので、夜はごく近くの、しかし一度も入ったことのなかった中華定食屋に行ってみる。「本日の定食」(肉ニラ炒め定食)を注文したのち店内を眺めていると、入り口脇の壁に嵌められた縦長の、なんというのか中国っぽい木札(だったかな)が目に入り、そこには「吉祥如意」の字が彫られてあった。「吉祥が意の如し」なのだからめでたい言葉なのだが、ちょっとにやけてしまったのは、それ、途方もなくめでたいからだ。めでたいなあ、「吉祥如意」。リズムもいいよ、「吉祥如意」。どこか植木等的というか、「俺もないけど心配すんな」的な心地よさがあり、一方で谷啓の顔が浮かぶようでもある。いいなあ、「吉祥如意」。

(2005年10月 3日 15:07)

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