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Oct.
2006
Yellow

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/ 29 Oct. 2006 (Sun.) 「夢に現れたのは、セーラー服姿の南波さんだった」

先週は何だかやけにサイトを更新していたが、週末になったらふっつりと途切れてしまったのはやっぱり気が抜けるせいだろうか。あれを読んで、これをやって、といろいろ考えていたことのほとんどを果たさないまま週末が終わる。まったくだめだった。
きのうは「東京コンテンツマーケット」に出展している「0 1/2計画」の撤収を手伝いに、六本木ヒルズに行く。行って知ったのだけどいま六本木ヒルズ(と渋谷)では東京国際映画祭が開かれているのだった。今日ちょうど終わったはずだが、そのクロージング作品が『犬神家の一族』である(ということをオーロラビジョンで知った)。オフィシャルサイトで予告篇を見たかぎりの印象だけれど、どうやら「あのまんま」というか、自身の旧作にかなり忠実に撮っているっぽい。予告篇のなかでは、奥菜恵の「面白いことしてるわねえ」が出色の「あのまんま」ぶりである。ちなみに妻は、那須ホテルの女中を演じるのが深田恭子であるということに合点がいかない様子。金田一耕助を石坂浩二がやるというのであれば、女中も坂口良子で問題ないのではないかという意見。まあね。
兄(そうまあきら)の、次回以降の作品について少し話が出る。そのひとつが「西遊記」をモチーフとしたじつにくだらない企画なのだが、声の出演として、ラストソングスに参加してもらうというのはどうかという案が出た。実現すれば、かなり面白いものになると思われる。
それから家で、レンタルしてきた薬師丸ひろ子主演、相米慎二監督の『セーラー服と機関銃』(81年)を見たのだが、そうしたら今日、夢にセーラー服を着た南波さんが現れたのだった。何なんでしょうか、それはいったい。

(2006年10月30日 18:22)

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/ 27 Oct. 2006 (Fri.) 「11月5日付の日記を募集します」

というわけで(前回の日記参照)、じゃあ何をしたらいいのかと考えるものの、そうそう画期的なアイデアが出てくるものでもない。そこでここはひとつ手垢のついた企画だけれど、「日記を募集する」という、いったいそれの何が面白いのだかよくわからない遊びからはじめてみたい。「多者の交換日記」のときは、投稿してくれた人の日記を私が書いて交換したのだが、今回はまったくの一方的な「日記の贈与」を受ける。書いて送ってもらった文章を、そのまま11月5日付の日記としてこの「Yellow」に載せる。
もちろん、そのことに対してこのように言及している日記が前後にある以上、その日記は完全には他の文章と同化されない──つまり、「ほんとうは相馬が書いたものではない」という了解のもとに読まれるわけだが、しかし前提を考えるならネットの虚構性のほうがさらに懐は深いわけで、それがほんとうに読者から寄せられた文章なのか、そうと装った相馬の文章なのかというのは、原理的には判断不可能である。
といった能書きを垂れたところで、この企画のいったい何が面白いのかということに関しては依然答えようがないのだが、しかしまちがいなく、それによってこのページは豊かになるはずだと私は確信する。
仮に複数の日記が寄せられた場合にどう扱うかというのは考えておかなければならない。複数のなかから、もっとも「11月5日」的だと思われるものをひとつ選ぶという方法がまずあり、あるいは、複数寄せられた日記をカットアップして、私がひとつにまとめるという手もあるだろう。うーん、そのいずれを取るかは日記が来てみないとわからないな。そもそもひとつも来ないという場合のことを考えて淋しい気分になっておかなければならないが、しかしまあそんなこともあるまい。だいたい永澤が送ってこないはずがないじゃないか。上山君にも期待している。忙しいさなかにもかかわらず二個も送ってくるにちがいない笠木さんには頭が下がる思いだ。もちろん、呼びかけていないみなさまにもふるってご参加いただきたい。
協力していただけるという奇特な方はこちらのメールフォームへどうぞ。

(2006年10月28日 01:22)

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/ 24 Oct. 2006 (Tue.) 「来し方いづくなるらん」

ごくごく久しぶりに、永澤がブログを更新していた。あいかわらず忙しくしているらしいが、こまかい近況はわからない。何度も日記のなかに登場させているから、ひょっとしてその名前だけはある程度浸透しているだろうかとも思うが、あらためて書くと永澤は私の友人だ。高校の同級であり、大学以降はずっと地理的に離れて暮らしているものの、二、三年前までは距離のわりに繁く会っていた印象がある。いまは長野県に住まっているはずだ。救急病院に勤めていて、これはこれで曜日のない、特殊な忙しさのなかに身を置いているらしいと、私が把握しているのはそれぐらいのことで、最近どうしているのか、こまかなことはよく知らない。市川崑がセルフリメイクする『犬神家の一族』(12月ロードショー)を楽しみにしているだろうことは想像に難くないものの。
「和製ブラックジャックさんへの10の質問」を読み返していた。2003年に作られた「Yellow」内のコンテンツだ。これも何度か説明している気がするが、そもそものはじめに私が作ったサイトは「Superman Red」(現「Red」)で、そこにははじめの数年間、日記に代表されるような「個人的なコンテンツ」が存在しなかった。当時、私は「個人ホームページ」というやつが大嫌いだった。
ここでいう「個人ホームページ」については、若干、語用上の説明が必要だろう。むろん、「法人」に対しての「個人」が運営するサイト一般のことを指すのがもっとも広義におけるそれなのだが、インターネット黎明期にほど近い当時、企業の手になるサイトがそれほど多く見られず、見渡せばたいがいが(広義の)個人ホームページだったこともあって、そのなかで特に「個人ホームページ」と呼ぶときにはもう少し異なったニュアンスが指し示されていた(ように思う)。
つまり、ウェブという新しいメディアを手にした者たちのなかには二種類の人間がいたのであり、(って、べつに何種類でもいいわけだが、仮に単純化して二種類とすれば)それは、発信すべき何かを持っていた人と、そうでなかった人である。「何か」の質はこのさい問われない。クルマ好きは「クルマについてのホームページ」を作ったのだし、サッカー好きは「サッカーについてのホームページ」を作った。自分の住んでいる街についての情報を発信した者もいたし、誰か有名人のファンサイトをこしらえる者もいたそのなかに、「何か」を思いつかなかった者たちがいたのであって、彼らが微苦笑をするようにして選び取ったのが「『私』についてのホームページ」だった。彼らの十中八九は、まずサイトにこう記した。「とりあえず、日記でも載せようと思います」。──ここに登場したものこそが、私の言う狭義の「個人ホームページ」である(と、ひとまず思っていただきたい)。
若さから来るものだろうか、私はその「個人ホームページ」的なるものが大嫌いだったのである。ところが、あるときからそれに魅力を感じるようになる。「Red」のなかで「コーナーの日記」と題した日記のコーナーを開始し、その後、「個人ホームページ」的なるものの可能性を探るための実験室「個人ホームページのために」のなかで、「相馬の日記」を投稿してもらい、投稿してくれたその人の日記を私が書くという──つまり署名を交換する交換日記であるところの──「他者の交換日記」という遊びをおこなった。そうして次に、この「Yellow」(当時は「Superman Yellow」)を別サイトとして立ち上げることになる。
いまは(そのかたちでは)残っていないが、初期の「Yellow」の体裁はいまとだいぶ異なり、トップページを左右に二等分して、左が私の日記、右が掲示板になっていた。掲示板に集まる主に私の友人たちとやりとりするなかから日々の文章を紡ぐ、それこそ「永澤」という固有名詞を(あまり説明もなく)連呼するようなそうしたコミュニティーを、「公共」とされる場のなかに置いてみることがいったいどういうことなのかを探る──どこまでいっても話は抽象的で申し訳ないけれども──、私のなかで当時「Yellow」はそうした遊びの試みだった。その遊びのなかで生まれたひとつが──話はやっと戻ってきた──「和製ブラックジャックさんへの10の質問」である。
あの頃よりももう少し頭の良くなったいま、またそうした遊びがしたいとも思うのである。

(2006年10月26日 05:00)

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/ 23 Oct. 2006 (Mon.) 「どんどんハゲていく」

タイトルは本文と関係なし。
そういえば、「日記読みました。」と南波さんからメールがあったのだった。お役御免になったうちのPower Mac G4の引き取り先(売り払い先)として南波さんのところはどうかと勝手なことを書いた9日付の日記のことである。南波さんはいま、『エンジョイ』の稽古のまっただなかにいる。だから、南波さんはとても南波さんらしく「ちょっと、パソコンのことが考えられないのです」と言い、そして「もしも、もしも、『エンジョイ』が終わった段階で、まだそのマシンが相馬さんちに残っていましたら、またその時にご相談させて下さい」と書いてくれた。
9日付の日記をアップしてほどなく、「私欲しいかも」とメールをくれたのは思いがけず笠木さんだった。で、そっちの交渉はいま途中でとまっている。自身が手を挙げつつ、笠木さんもまた「なんばさんのダメMac問題もあるからね」と、私と同じ問題意識を共有する者である。ここはひとつ、南波さんを待つとしようかなあ。もうひとり名前を挙げていた荒川のことはまあどうでもいい。自分でMacBookでも買えってんだこのやろう。

(2006年10月24日 11:08)

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/ 22 Oct. 2006 (Sun.) 「誰が鵺を弔うのか」

さらに上村君の役について考える。いや、それで何かアドバイスをしようというのではなく、たんに考えるのが楽しくなってしまったから考える。
リーディング公演の際のポストトークで観客から出た感想のひとつに、「劇中の多重な対比構造」について言及するものがあり、そこで指摘されたことのひとつが「記憶を無くしていく男と、どんどん記録していく男」の対比だ。上村君のなかではある程度この解釈が引っかかっているようで、「そういう関係性のようなものがうまく舞台に出現しているか」ということを心配していた。で、そもそも、このふたりはそうした対立関係のなかにあるのだろうかというのが私の引っかかり。というのも、上村君演じる自称「映像作家」が覗くカメラのファインダは、いまを「記録」するのではなく「消費」するように見えるからだ。言い換えれば、カメラを向けることでしか彼はいまを消費できない。記録それ自体が目的なのではなく、記録することでいまを「過去(/歴史?)」へと変換することが目的なのである。だからこそ彼がこだわるのは「旅の思い出」でなければならない。一方、「黒ずくめの男」が無くしていくのは何度も強調されるように新しい、日常的な記憶であり、男の歴史性をいまへとつなげる身体である。いまと切り離されて「歴史」になろうとするあの遠い時間はけっして彼のなかで消えることがない。その意味で、むしろふたりは奇妙な相似形をなしているとも見ることができる。
「新宿」もなくなり、「あの時代」が歴史になろうとするときに、鵺は現れた。

旅の僧が熊野から都への途中、摂津の国蘆屋の里に着く。川崎の御堂で一泊すると、所の者の言うとおり、異様な風体の舟人が空舟(うつおぶね)に乗ってあらわれる。それは、近衛の院の御代に源の頼政の矢に射られて命を失った鵺の亡魂であった。その時の有様を語った後、また空舟に乗って夜の波間に消える(中入)。僧の弔いに鵺そのものの姿で再びあらわれた亡魂は、供養に感謝した後、退治された時の模様、それによって頼政が名を上げたことを語り、空舟に押し入れられて淀川に流され、暗黒の世界、冥途の闇路にある身を、はるかかなたから照らしたまえと願って、海中に消えていく。

 というのは、小学館の『新編日本古典文学全集 謡曲集 (2)』にある「鵺」の梗概(「内容」の項)だが、ここで鵺が、頼政による鵺退治の場面を前段では退治する頼政の視点から語り、その後、鵺自身の視点から語り直しているということが興味深い。鵺が成仏するためには、「正史」の語りに対抗する(『1968年』的に言えば)「偽史」の語りがなくてはならなかった。
ところで、「黒ずくめの男」と「演出家」の邂逅は、それを謡曲「鵺」の構造のなかで考えたとき、奇妙なねじれをはらむものであることに気がつく。当然のごとく、劇のメインキャラクターであるこのふたりは能でいう「シテ(鵺)」と「ワキ(旅の僧)」であるかのように見える。しかし、「黒ずくめの男」が「鵺」であるのはまちがいないとしても、では、「演出家」は「旅の僧」なのだろうか。「黒ずくめの男」を(劇中の言葉で言えば)裏切り、そののち世界的に名を馳せることになった演出家は、まさしく「頼政」ではないのか。ここでは「鵺」と「頼政」が出会っている。頼政は鵺を弔うのではなく、鵺とともにある(だからこそ、ラストシーンに書き加えられたあの設定があるのだろう)。
では、「旅の僧」は誰か。誰が「鵺」を弔うのか。それは、いまの身体から「あの時代の言葉」を発し、劇中劇を演じる若い俳優たちでなければならないだろう。だからこそあの劇中劇は、(黒ずくめの男に「ちがう!」と否定されつつもなお)魅力的であるのだ。

(2006年10月23日 12:40)

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/ 21 Oct. 2006 (Sat.) 「いきなり『通し』を観る」

三軒茶屋へ。街は大道芸のフェスティバルのようなもので賑わっていたが、目的はそれではなく。
14時から18時すぎぐらいまで、『鵺/NUE』の稽古を見学させてもらう。シアタートラムの地下4階、稽古場A。稽古場に着いてから知ったのだが、まったく想定外なことにこの日は稽古のアタマから「通し」だという。いきなり「通し」を観ることになってしまった。
1時間50分ほどの舞台。演出席にいる宮沢さんを見るのも久しぶりだ。若松さんと上杉さんの「こども」ぶりが楽しい。台本も読んでいないし、これまでの稽古の過程を知らないからわからないが、若松さんはこれ、かなり自由に振る舞っているように見える。
休憩をはさんでダメ出し、ということになる予定だったが、いつしか衣裳のフィッティングがはじまってそれがだいぶかかった。フィッティングをしている地下4階のフロアは入り口がごった返しているので、地下3階に上がり、上からその様子を眺める。宮沢さんが日記に書いている「祝祭感」は、中川安奈さんがしばっていた長い髪をほどいたところで頂点に達した。宮沢さんをはじめ周りは、「あ、図に乗っている、図に乗ってる」とその様を評して口にし、楽しがっている。中川さんはさらにまた別の、劇中劇で着るワンピースがかわいらしく、それを身に纏ってしまったがためにもう「ルンルン」である。その様子を上からニカニカしながら見ていたら中川さんと目が合い、「笑ってるんでしょう?」と言って中川さんは笑った。
18時ぐらいまでフィッティングがかかり、それで食事休憩に入る。「通し」のダメ出しは休憩明けということになって、ここはひとつせっかくなので久しぶりに宮沢さんのダメ出しを聞きたかったところではあったが時間切れ、私はここで退出した。
出演者のひとり上村君は、まあこの人の場合会えばだいたいいつもそのように口にしている気もするけれど、日々いっぱいいっぱいでやってますよと言い、何か気づいたところがあったら言ってくださいと頼んでくる。なにしろもうかなりかたちになった段階の「通し」をいきなり観ただけに、ともかくすんなり「受容」してしまっていた私だが、それで、あらためて舞台の印象をたぐり寄せ、何か引っかかりとなるようなこまかい感想を言ってあげようと考える。
ひとつがテープチェンジのシーンだ。ここで上村君演じる男が新しいDVテープを丁寧に取り扱ってカメラに装着するのは、それはそれでテープにたいするフェティッシュなものを感じさせていいが、よく考えると、撮り終わったテープ(まさに「お宝映像」が収まったテープ)のほうに、もっと神経が行っていてもいいのではないか。たとえば、(観客から見えるかどうかは別として)しっかりテープのツメを折ることを忘れない、といったようなそうした意識のありようである。また、思い返してみると、男の背負っているバッグがどうにも軽いような気がし、そこに、そのときの新旧2本のテープだけではなく、それまでに撮り溜めた何本ものテープがあると感じられるかどうかというのは大事なのではないかといったようなこと。そうか、考えていてようやくわかったんだけど、男がひとり残って後発の便にしたのは、たんに若い女優が後発の便になったからという理由によるものかもしれないわけか。

(2006年10月23日 02:38)

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/ 20 Oct. 2006 (Fri.) 「のろけてくれよう」

リ・バンチョン『スターリニズムとは何だったのか—1917-1939.』(現代思潮新社)。結局のところ、私は戸田ツトムの装幀に惹かれたのかもしれない。

黒澤明『どですかでん』(1970年)。日記の後半部がまるでわからないという方はこの映画を参照。

10日付けのごくごく短い日記を、書いてアップしていなかった。買ったと書いているうちの一冊は絓秀実さんの『1968年』(ちくま新書)。これ、「新書」じゃないよ。一読後、よくわからない部分を引きずりつつ、今度はリ・バンチョン『スターリニズムとは何だったのか—1917-1939.』(現代思潮新社)を読む。表紙の名前がカタカナ表記だものだから購入時にはついそうと意識せずにいたが、韓国の学者による歴史研究書である。訳者の解説するところによれば、『スターリニズムとは何だったのか』といういささかキャッチーな邦題は内容を汲み取ったうえでの意訳で、原題は『レーニンからスターリニズムへ—1917-1939.』というもっと抑制のきいたものらしい。スターリンはもちろんのこととして、レーニンやトロツキーといった人たちの記述に関しても、いっさいの幻想から逃れ、淡々と事の経過を描写していく。その後に起こったほとんどのことは、すでにレーニンのなかに準備されていたというのが著者の描く基本線なのだが、まあ、あたりまえだが専門書は初心者にはやさしくない。こちとら根本的な基礎知識がだいぶ不足しているからなかなか頭に入らない。
ところで『1968年』というか日本に話を戻すと、ごくごく単純な感想として、どうしてこうこの人たちは長い名前を付けたうえで略したがるのか、ということがある。たとえばよく知られたように「ベトナムに平和を!市民連合」はごくあたりまえに「ベ平連」と略される。考えてみれば「ソビエト社会主義共和国連邦」の「ソ連」だって似たようなルールのうえにあるわけだが、そこで思いつくのは「アメリカ合衆国」を「ア合」と略することで、「ア合」と略したとたん何だか急に共産主義的な響きがするから不思議だ。

夫婦でauなので、妻との短いやりとりにはCメール(ドコモでいうショートメール、ですか?)を使うことが多い。平日はもっぱら、「今日は何時頃(に帰るの)ですか?」「時〜時ぐらい目標です」といった具合である。
夜、先に会社に出た妻からCメールが入ったのは、乗っていた中央線が立川を目前にして立ち往生したためだ。ふたたび走り出したのち、ほどなくしてまた止まる。

また止まっちゃったよ。もう!今国分寺。前に走ってる特急のドアの連続不具合だって。

 そこで私は仕事の手をとめ、次のように返す。

整備のやつ、なっちゃねえなあ!まあしゃーねえんだ、こいつも古いからな。

 妻。

電車ばかだ。立川着きそう。相馬さんはまだなの?

 私。

そろそろ帰り支度はじめられる。9時までには出るでしょう。それよりも門の色のことだけれども。

 で、正直なところ、次のような返信が来るとは予期していなかったのだった。

うん。いいと思うよ。賛成だよ。

本日の参照画像
(2006年10月21日 23:28)

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