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Jan.
2005
Yellow

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/ 28 Jan. 2005 (Fri.) 「京都公演・初日」

噂のでかいプロジェクター。
噂の「蛸安」。

デジカメとパソコンをつなぐUSBのケーブルは、劇場の2階席、座っている椅子の後ろに落ちていた。この日、それを見つける。それでようやく前日に撮った写真を取り込み、日記を更新しようと思うがなかなか筆がのらない。毎夜、ホテルのベッドで布団をかぶり、PowerBookをひろげてさあ更新しようという体勢には入るものの、結局寝てしまうのだった。
で、この日取り込んだ写真は2枚。
1枚目(左欄の写真上)が、京都用に借りなおしたプロジェクターである。舞台全体(スリット)に当てる映像のほうに使う。写真で伝わるかどうかわからないが、ものすごくでかい。でかさにはわけがあって、東京公演で使っていたものよりも光量が多い。数字の上では2倍で、耳慣れない単位だが東京で使っていたものが「3,500ルーメン」、こっちは「7,000ルーメン」である。というふうに、「そりゃあ7,000じゃねえ、でかくもなるよ」とその大きさに説得力を感じていたわれわれだったが、きのう京都入りしたニブロールの高橋さんは見るなり、「でけえ」と言い、「型が古いのかな」と一刀両断に口にした。それはともかくとして、たしかに「7,000」は断然明るく、スリットの映像は東京公演のときよりもくっきり映ることになる。白がより白く映るため、白の多い映像で見比べるとスクリーン側(東京と同じ3,500ルーメン)の白が汚くさえ感じられるのだった。なお、写真で左端に半身だけ写り込んでいるのは作業中の浅野君である(日記上でも実際の会話でもこれまで「浅野さん」と書き、呼んできた私なのだが──年齢で言うと浅野君のほうが年下なのだが、前作『トーキョー・ボディ』から参加されているという点で「先輩」のイメージが拭えなかった──、ここに至ってようやく「『さん』でもないだろう」という関係性を感じていて、いまさらだが「浅野君」に表記を改めさせていただく)。
そして、2枚目(写真下)が例の「蛸安」。詳しくは(ってそんなに詳しくも書いてないけど)きのう分の日記を参照。

13時すぎからリハーサル(通し)で、19時から京都公演・初日の本番。終わって、舞台裏にある広いスペースを使い初日乾杯があった。

本日の参照画像
(2005年2月 1日 18:33)

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/ 27 Jan. 2005 (Thu.) 「祇園は遠いと思う」

そのやたらでかいプロジェクターの写真をはじめ、いくつか撮ったものはあるのだったが、それがアップできないというのはデジカメとパソコンをつなぐケーブルがどこかに行ってしまったからだ。見当たらない。
昼すぎに役者さんたちが到着する。春秋座では役者全員でひとつの楽屋ということになり、そこに宮沢さんやわれわれの席もあって、やろうと思えば稽古もできようという広いスペースなのだが、寒い。といって、私はほとんど楽屋にはいない。荷物であるリュックも機材(パソコンなど)の持ち運び用のものなので2階席の映像ブースまでもって持っていってしまうから、着いてまず楽屋には入るものの、一番上に着てきたダウンを脱いでそれを椅子の背凭れに掛けるだけのことだ。あとはもっぱら2階席か、舞台裏のこれもまた広い休憩スペース、そこからさらに外に出た喫煙所にいる。
16時から「場当たり」。セット自体の大きさはまったく同じだが、異なるのはトラムと比べてそれが舞台ツラ(最前面)から3尺奥まった位置に立てられているということで、つまり手前の演技エリアが若干広くなる。また、それにともなって舞台上の装置はそれぞれ手前に出て、トラムのときよりセット(スリット)から離れた位置になる。といって、基本的にはさほど要領が変わるわけではなく、動きの確認は順調に進行。あとは声。劇場が広くなるので、うしろむきで発するセリフなど若干意識して声を出さないと聞こえづらいところがあり、しかしまた声を張ると残響が大きくて、役者さんたちはそっちの感覚を掴むことのほうにより苦労している印象。
夜、カメラの鈴木謙一さんが部屋に来て、「なんか祇園に行くらしいけど、行く?」というのでフロントまで降りると、岸さんや鈴木将一郎君らがいて、フロントの人と相談をしている。話を聞くとどうやら、ふたりは劇場からホテルに戻るタクシーのなかで運転手さんに「祇園は(ホテルから)歩いて五分ぐらいですよ」という嘘の情報を掴まされたらしく、「いや、歩くと二十五分ぐらいかかりますよ」とフロントの人に説明を受けている。みなそこまで遠出をするつもりではなかったので祇園はあきらめ、で、フロントに置かれていた「ホテル周辺のお食事マップ」の中からあらためて選びなおしたのは「蛸安」というたこ焼き屋である。脈絡は何もない。岸さん、将一郎君、謙一さん、私の四人で食べに行く。

(2005年2月 1日 18:33)

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/ 26 Jan. 2005 (Wed.) 「京都に来ております」

春秋座。25日に撮影。写っている提灯は『トーキョー/不在/ハムレット』の公演時には取り外される。

楽日から中1日おいて、25日に前乗りで京都入りし、今日が仕込み初日。朝9時から劇場に入って作業を開始する。京都用に新規に借りたプロジェクターも届いたのだが、まさかこれではあるまいなというやけにでかいハードケースがそれだった。でかいよ。トラムで使っていたやつの4倍はある。
春秋座には2階席があるが、今回2階にはお客さんをまったく入れず、その最前列に映像ブースを作ってわれわれはそこで操作をすることになる。で、そこに陣取っていると自然に舞台上で進行する仕込みも一望するかたちになるが、はじめ、平面の床にリノリウムを敷いただけの状態では「はたしてこれ、埋まるのでしょうか」と感じられた空間が、しかしスリットが立ち、幕が吊られするうちに埋まってくるのは不思議といえば不思議で、また、平面にその領域が区切られただけのときには「こんなに狭いところで全部やっていたのか」と驚かされもした演技空間が、立体的にセットが立つことによりぐっと広く感じられる。春秋座の広さに合わせて間口を拡げるといったこともことさらせず、基本的には東京で使ったセットがそのまま、広い舞台の真ん中にぽつんと存在するという具合なのだが、これはこれで面白く、何というか「成立している」と感じ、途中経過を見ているとなおさら「成立してしまう」ことの不思議さを感じもし、逆に言えば「成立させてしまう」舞台監督さんらの〈想像力〉といったものに驚かされる。

そういえば楽日の翌朝家に戻り──あるいは一度寝て、起きたあとだったか──、メールをチェックすると長兄夫婦から感想が送られてきていた。茨城の実家に住む長兄夫婦は21日に観に来てくれた。プレ公演も映画も一切観ておらず、今回はじめて物語に接することになるふたりだったが、「いたく感動しました」「おもしろかった」とそれぞれのメールのタイトルにはあって、うれしい内容。うれしいのでごっそり引用してしまうと、まず兄はこのように書いてくれたのだった。

いやあ、おもしろかったです。火事を見つめる夏郎治のアップが「鬼の龍造」とぴったり重なって、新宮の路地がいま、ここ(北関東、私)にあることに思いが至ったとき、涙が止まらなくなり、いつしか中上健次の「不在」を考えていました。我が家でも「加藤」は大評判です。ではまた。

 そして、兄嫁からはこのようなメール(改行ママ)。

とてもおもしろかったよ。
はじめから全てがスーッと入ってきて、
頭をひねる所はひとつもありませんでした。
すべての場面の意図が心地よく受け取れました。

芝居が始まる前にパンフをざっと見たとき、
相関図の「上司」だけがなぜか目に止まり、
(ああ、そういう人も出てくるのか)
と思っていたので、
あの人がうちわをパタパタさせながら来たときに、
「これかー。」
てな感じで、大笑いでした。

一つ個人的には、
最後のろうそくの場面で菜都美が帰ろうとしたとき、
「帰るんですか?」と聞かれて、
「だって」って云ったとき。
あそこで終わるのもいいかな。と思いました。
もう前の詩人の場面で涙は流れていますから

あ、そうだ、楽日に客席で京都の観光パンフレットをひろげていたと書いた吉沼からは昼間にメールがあり、「(京都公演に)かなり心が傾いており、パック旅行の価格など調べていた」が、やっぱり予算の関係でやめにしたとの説明で、なるほどそうだったかと思うまもなく、さらに夜になって届いたメールではあっさりとその前言が撤回された。奥さんが「やっぱり行きたい」と言い出したそうだ。結局、来るという。
というわけで、京都公演をお楽しみに。

本日の参照画像
(2005年1月27日 12:11)

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/ 23 Jan. 2005 (Sun.) 「終わった気がしない」

打ち上げは朝の4時に、その店がその時間で閉まってしまうので終わり、むろんまだ電車は走っていないのでそれまで残っていた人の多くはデニーズに流れて始発までの時間をすごし、それで「ではまた京都で」と別れた。
まったく終わった気がしないというのは、まあ京都公演(2ステージ)が残っているのであたりまえといえばあたりまえだが、はたしていざその京都公演が終わったとして終わった気がするものなのか、するのかもしれず、おそらくそれはじわじわと襲ってくるだろうと想像はするものの、どうなるかまったくわからないというのはやはりまだ「終わっていない」からだと堂々めぐりをしつつ、どこか祝祭的でありながら、しかし確実に〈地続き〉な京都公演という時間のことを考える。
そしてしかし、無事、東京公演は終わりました。ご来場いただいたみなさん、ありがとうございました。

いつものように12時すぎに前日のだめ出しがはじまる。それまで舞台上で約1時間のストレッチをしていた役者さんらがそのまま集まり、宮沢さんが客席の前から2列目の中央に座って、私はその右脇、同じ列の端のほうに腰を下ろす。「だめ出し」と呼ばれる時間ではあるものの、ここ数日来舞台はすっかり安定し、個々の演技に対する細かいだめはほとんど何もない状態がつづいて、ただ「いかに集中力を切らさず、いかに自身のなかでの(やることに対する)鮮度を保つか」といった注意点だけがくり返し言われてきた。そしてこれもまたその文脈のなかにあって、「いまここを大事にする」ということ以上の意味はもたないのかもしれないが、開口、「京都はあるけれども、それはべつとして、まあいわば今日に照準を合わせてこの1年やってきたわけで」と宮沢さんは言葉にする。どうやらついに、その感慨深い時間を迎えてしまったらしいという空気の訪れ。ぽつりぽつりと宮沢さんは言葉を継いでいく。くり返し語られてきた現在の演劇状況に対する違和にはじまり、漠然とながら感じつつある、「1年かけてやってきた」ということの意義(のうちの、いくつかの顕れ)について、本番前のだめ出しとしてはいつもより長い、20分ほどの時間がそこに流れた。
今日の楽日の公演には、知り合いでは妻と、吉沼夫妻が観に来てくれ、「あ、来ているな」というのは調光室のガラス越しに確認していたが、見れば吉沼はなぜか京都の観光パンフレットを手にしている。一見、当日パンフに挟まれた折り込みチラシを手に取っているかのようだが、そこにはひどく賑やかな「京都」の文字と大型バスの写真がおどっていてそれとはちがうとわかり、開演前の客席にただひとり「物見遊山的なる気配」をただよわせた男が座っているのであって、ひどく気が和む。
説明すると、今回の舞台のカーテンコールはこれも生中継カメラを使ってひとりひとりのバストショットをスクリーンに映すのだが、その際、それにあわせて役者の名前をひとりずつ映像にかぶせているのが私で、その私にとっては最後の最後に「楽日問題」とも言うべきものが控えていて緊張を強いられていたというのも、楽日は特別に「最後に宮沢さんも出る(かもしれない)」ということがあるからで、なにしろ厄介なのはその「かもしれない」というところであり、出ると決まっていれば(またその出方が決まっていれば)そのように用意しておけばいいだけの話なのだったが、よく知られるように宮沢さんは照れ屋だ。事前に「出ますか?」「どういうふうに出ますか?」「大河内さんと並んで出ますか? それともひとりで映りますか?」と様子を探っても──あるいは探ると逆に──、「俺、出るのやめようかなあ」と急に言葉を濁し、結局そのときになってみないとどうなるかわからないということになって、私は可能性の高いいくつかのパターンを想定し、テロップを何種類か用意してそのときを待つことになる。まず、宮沢さんだけが出る場合とそれに加え演出協力の矢内原美邦さんも出る場合が考えられ、それぞれひとりずつカメラに映ったとき用に個別のテロップと、ふたりが並んで同時に映る場合に出せる両者を並べたテロップ──そしてその並び順が逆だった場合のテロップ──、そして宮沢さんひとりだったときに大河内さんと並んだ場合のもの。表示領域の都合で名前を並べられるのは2人までなので、もし大河内さんも入れ3人が並んだ場合は以上のものの組み合わせを使い、途中で切り替えて対応することにする。で、結局、最終的にその3人が並ぶパターンになったわけだが、カーテンコールがはじまるや、となりにいる浅野さんと調光室に居合わせた小浜さんがスリット奥の様子を脇で逐一実況するのであり──「宮沢さん出てきた」「あ、宮沢さん帰っちゃった」「あ、美邦を連れてきた」「どうするんだ」「宮沢さんが左、宮沢さんが左」「入れ替わった、宮沢さんが右」「どっちにするんだ」「早く決めろ」「あ、3人だ、3人になった」──、その声にも当然気を取られつつ、しかしとりあえず目下の役者さんらのテロップ操作に間違いがないようにと私は必死になっていた。カーテンコール終了直後、「相馬さんに拍手!」と浅野さんが声を掛け、調光室で私はふたりのあたたかい祝福を受けながら、東京公演を無事終えたのだった。
打ち上げでは出演者とスタッフに大入り袋と『be found dead』のDVDが配られ、それが宮沢さんの手からひとりひとりに渡されたが、DVDの入った袋にはそれに加え、例の(?)宮沢さんから個々に宛てて書かれた手書きのメッセージが入っているという趣向で、配り終え、ひと仕事を終えた宮沢さんは座ってあたりを眺めるのであり、メッセージを読んで目頭を熱くする者、また滂沱する者の続出するありさまを見遣ってはあたかも「成果をたしかめる」というふうに、いたずら好きの子どものような顔で役者たちの様子を目に収めていたのだったが、そうして成果をたしかめるふうにする宮沢さんの目元もまた、どこか泣き出しそうなあやうさをただよわせているように私には見えたのだった。
で、私はといえば、そのメッセージを速読するように一読し、そこに仕掛けられたいたずらっ子による「私への作戦」をなるほどと読み取ったようなつもりでそそくさとまた袋に戻したのだったが、公平さを期して書くならば、朝の中央線各駅停車の座席でふたたびメッセージカードを袋から取り出して読み、また読んで、何度も読み返していたことを最後に付け加えておきたい。

(2005年1月26日 01:39)

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/ 22 Jan. 2005 (Sat.) 「秘密について」

調光室の映像ブースはこんなことになっている。
スリット内、カメラのあるあたりから見た風景。

とにかく──そしてさしあたり──、書き急ぐこと。あるいは長さ。「推敲しない意志」といったようなもの。いまはもう東京公演・楽日の朝である。途中まで書いた「21日付け」の分の日記が手元にはあるが、それをいまさら完成させてアップしているような場合でもない。ちなみに途中まで書いたそれはこういったものである。

1/21(金)
咳は治るようで治らない。薬局で買ったのはその名も「鎮咳去痰薬」というたのもしいかぎりの薬だが、飲んだり飲まなかったりしているのがいけないのかこれというほどには効き目がない。調光室での私は以前よりもぐっと静かになった(咳き込む数が減った)が、逆に夜、家のベッドのなかで咳き込んで苦しむことが多い。今週はずっと妻が忙しくしていて、会社での残業がつづき、家事に手が回らない一週間だったが、ここにいたってついに劇場よりも家のほうが埃っぽく、猫の毛などもあって環境が悪くなっているのかもしれない。まったく猫のやつめ。2匹もいやがって。
それで私は昼間、髪を切りに行く。「アンフルラージュ」という美容室の銀座店。そこの遠藤さんという女性に妻はずっと担当してもらっていて、ここ数回、私も遠藤さんに切ってもらっている。去年までは六本木のお店にいたその遠藤さんだが、新しくオープンした銀座店に異動になった。「お疲れですか?」と遠藤さんに指摘されたのは頭皮が乾燥しているということで、しかしそれはいまにはじまったことではなく、こまめにシャンプーをし、ことさら不潔にしていなくてもフケ(のようなもの?)がすぐに出やすいという厄介な頭だ。カットのみで2時すぎに終わり、近くのドトールに入ってそこで日記を更新する。これも今回の舞台にあたって私財を投入したもののひとつだが──あるいはそういう言い訳のもとに単なる私欲を完遂しただけのことだが──、稽古場でのネットワーク環境を確保するために去年の暮れ、「Air H"」を導入した私なのだった。

ところで、今日の左欄に載せたうちの1枚目は映像ブース(調光室)を撮った写真だが、そこには写っていない、その写真のすぐ左側にあたる部分にこそ、宮沢さんが21日付けの「不在日記」に「それは秘密だ」と書いた「ニブロールの高橋くんの絶妙なテクニック」が隠されている。

つまり、舞台全面を覆うように投射される映像があるが、しかし、その映像が、舞台中央にある、小さなスクリーンに写り込まず、そのスクリーンの映像に影響しないのはなぜかという意味だったのだ。それは秘密だ。どーんと舞台前面、スリットに投射される映像は、なぜ、その手前に吊されているスクリーンには干渉しないか。そこにはニブロールの高橋くんの絶妙なテクニックがあるのだった。

 といってまあ、その文章の調子が匂わせるように、ことはそれほどたいした話ではない。非常にちまちまとした手作業がそれを可能にしているのであり、その手作業を実際にやったのは浅野さんである。仕込みの日、調光室に現れた高橋さんはそれを見、「あ、もうやってくれちゃったんだ」と口にした。実のところ、開演前や終演後、明るいときに客席から後ろ上方を振り返れば、どうやっているのかはすぐばれるのだった。
と、ここまで書いたところですでに楽日の幕の開くその1時間前になろうとしている。時間切れ。ではまた。

本日の参照画像
(2005年1月23日 13:31)

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/ 20 Jan. 2005 (Thu.) 「そろそろ京都のことを考える」

だから何だというわけでもないが、楽屋である。

公演が終わって、となりでいっしょに映像出しをしている浅野さんは「あと4回か」とつぶやいた。今夜のステージはひどく出来がよかったのではないかと、劇の序盤からすでにどこかその予感があったがそう思った。あと4回。むろん「あと4回か」とつぶやく浅野さんはしかし、京都公演のことを忘れているわけではない。京都の会場である春秋座はやたら広いことで知られ──そもそも歌舞伎の上演用に設計された劇場なのでそれが当たり前の「広さ」なのだが──、セットはトラムで使っているものをそのままもっていくものの、スリット部分に投射するプロジェクターはいまのものでは距離が届かず、京都用にべつのをレンタルすることになっていて、それやこれやのトラムとの環境の違いから生じるあれやこれやに対していま映像チームのなかでもっとも心配し、事前に考えてくれているのが浅野さんである。
あと、京都へは、手で持っていく荷物がひどく多いことになりそうで、PowerBookやハードディスク、ハンディカムなど映像出しの作業にかなり私物を投入していることもあるが、それではたと気がついたのは、まあその「着替え」とか、そういう「旅」にあたっての一般的な必需品たちのことをまったく考えていなかったことだ。私は25日に京都に入るが、用意してくれているホテルには4泊する。同部屋の浅野さんさえ許してくれるのであればまあ、着替えなくてもいいかとも思うのだったが、そんなことを書けばおそらく妻が許してくれまい。

本日の参照画像
(2005年1月20日 23:59)

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/ 19 Jan. 2005 (Wed.) 「知識人は朝日を読む」

それで私は昼間、「Pink」のページをいじっていた。「Pink」の更新の主担当は妻(スタート時は結婚前だったが)であり、その更新は去年の8月を最後にすっかりとまっていて、で、「いじる」といっても内容の追加は何もないのだけれど、これまで a-News というフリーのCGIプログラムを使っていたそれを「HOME」と同様の MovableType を使ったブログに移行しようとは前から考えていたことで、思い立ち、その作業──実直なまでの手作業──をこつこつとはじめたのだった。それで移行は済んだが、妻が夜早々に──といっても2時近かったが──寝てしまい、今度からどう投稿すればいいかという手順の説明ができなかったためまだ妻は更新できない。
今日付の朝日新聞の夕刊には『トーキョー/不在/ハムレット』の劇評が掲載された。これで明日以降の動員(当日券)が目に見えて増えるとすればやはり朝日はばかにできないという話だが、と同時にもう少し早く載せていてくれたらとも思うのはけっして日々満席とは呼べない状況だからだ。ぴあ等での取り扱い分は早い段階で予定枚数を終了していたらしいが、直接扱っている分のチケットがまだ売れ残っていて、楽日だけは混雑が予想されなんとも言えないものの、少なくともそれ以外の回はまだまだ余裕がある。そもそも『トーキョー・ボディ』のときより(東京公演分だけで)4ステージも多いということに制作の永井さん自身が気がついたのがついこないだのことで、するとまあ単純計算で収容人数が800人分ぐらいは多いということになり、それほど急激に見に来る人の増えるような芝居(あるいは集団)ではないとすれば、お客さんの少ない日があったとしても当たり前か、とある日の楽屋では宮沢さんが納得するように口にしていた。で、その「朝日効果」、あるといいのだがと思いつつ、関係ないけれども以前まだ大学に在籍していたころ、ゼミ担であった石原千秋が冗談めかした口ぶりで「明治以来、知識人が読むのは『朝日』と相場が決まってるから」と発言していたのを思い出す。むろん知識人家庭であるわが家も朝日をとっているのでその劇評を見せると、妻は一読し、「うん、この説明はわかりやすい」となんだかえらそうなのだった。
丹生谷貴志『三島由紀夫とフーコー〈不在〉の思考』(青土社)を読了。昨年の暮れに手をつけて、たびたび中断をくり返しながら読んでいたもので理解も途切れ途切れだし、そもそもスピノザだのフーコーだのといった基本文献をこちらは押さえていないので、面白いと感じつつもその「面白さの予感」めいた部分にしか触れていないようなもどかしさがあって、そりゃ「まずスピノザを読めよ」という話だろうが、そうだな、読むかスピノザをと重い腰を上げさせられそうになるほどにどこかごつごつとした、ある意味「書き急いでいる」と感じるような強い意志を、とくに書き下ろしである序章と終章には感じたのだった。前回、ひどく面白いと読み進めつつも忙しさに紛れ中断したままになってしまっていた『女と男と帝国』の再読からまずははじめようと思う次第。

(2005年1月19日 23:59)

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/ 16 Jan. 2005 (Sun.) 「中日」

ところで、公演記録のページに私の名前がないことで有名な『トーキョー/不在/ハムレット』公式ブックレットは1部1,000円(税込み)、会場でのみ好評発売中。

きのうからひきつづき、今日も昼夜2回公演である。出掛けに咳止めの薬を買っていこうと思っていたが時間がなかった。本番中、調光室で私はいまかなりゲホンゲホン言っていて、となりにいる浅野さんらに迷惑をかけているのではないかと心配だ。のど飴はまったく効かなかった。
昼の回には私の母が、その親戚・知人などを呼び、大挙して押し寄せた。義姉のみえさんによれば母は、いっしょに行くことになっているその知人らにことあるごと、「難解らしいから」と牽制していたそうで、それはまだしも、そう言っておけば間違いないとばかりに「面白くないのよ」と説明していたという。その母はしかし、「覚悟していたほどにはべつにむずかしくもなく、だいぶ筋も理解できた」と言い、そしてラストでは泣いたという。「あんめえぞうすまれや」(劇中に出てくるせりふ)の「まれや」が、あそうか「マリア(様)」のことかと途中で気がついたそうで、すると微細な(?)差異を超えて、「あんめえぞうすまれや」は「南無阿弥陀仏」と等しく母のなかでは響いたのかもしれない。観劇後、「自分なりに理解したつもりで連れの人たちに説明したりしたんだけど、間違えてたらいけないと思って」と、「あんめえぞうすまれや」の理解がそれでいいのかや、病院のシーンに出てくる2人がなぜ記憶喪失になっているかなど、翌日電話で私に確認してきた母なのだった。
母が感動していたそのころ、私は初日以来もっともおしっこを我慢していた。冒頭近くですでに尿意をもよおしていて、それでずっと我慢していたが、実際には私が安全確実にトイレに行けると思われる箇所は少なくとも中盤に1箇所だけあり、そこで行こうと前半では思っていたものの、しかし可能性などほとんどゼロに近いような何か「不測の事態」──例えば戻ってこようとしたときになぜかドアにカギがかかっている、おしっこが20分出つづける、等──が頭をよぎり、どうしても席を立つことができなくて結局我慢することにしてしまったのだった。

本日の参照画像
(2005年1月16日 23:59)

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