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Feb.
2018
Yellow

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/ 28 Feb. 2018 (Wed.) 「ハリツメは世界を愛するため、所有しないことを選択する」

ロビン。2016年10月。

北千住の BUoYでジエン社『物の所有を学ぶ庭』を観た。以下はその感想にあたるものだが、いま心がそぞろなのでさほどのまとまりは期待できず、思い浮かんだことの羅列に終わるのではないかという危惧をはじめに表明しておく。

二元論ではなく、二項対立

「所有」というずばりのテーマに行く前にまず触れておきたいのは、劇中に現れるさまざまな〈対立〉についてだ。たとえばそれは、街/森、教師/生徒、多数/小数、熱いお茶/冷めたお茶、手前/奥、大人/子ども、生/死、……といったものたちだが、そこにあるのはつまるところ、「自/他」についての二元論だろうか。否、というのが舞台からもたらされる予感と期待である。なぜといって、要は「二元論じゃ面白くないから」なのだけど、なぜ面白くないかといえば、二元論は「一」を隠し持っているからだ。
究極的には「内/外」を分けるところの二元論は、じつのところ「内」による一元論なのであり、そして「外」を抑圧・排除することで、「内」と「外」とは二者択一であり、その中間はないのだと錯覚させるのが強者たる「内」の作戦である。そうした二元論的な思考の枠組みにたいして劇中ではたとえば鈴守が、「どこまでを奥とするかですけど」「どこまでを大人とするかですが」といったセリフによって、じっさいにはただ無限のグラデーションが拡がっているだけなのだということを端的に指摘してみせるのだし、加えて、舞台空間である「庭」そのものもまた、「街」でもなく、かといって「森」でもない、いわば両者の緩衝地帯のような、中間的な場所として設定されていることを同時に想起してもいいだろう。また、二元論においてはあらかじめ、内/外に分割されるべき〈全体〉が想定されるが、庭を起点として拡がる劇中の〈世界〉はひどく輪郭を定めがたい、伸縮自在なものとしてこちらの脳裏に想像される。
劇中にちりばめられたさまざまな二項の対立は、だから、けっして二元論を形成するものとしてではなく、言葉の本来の意味(構造主義的な意味)での二項対立として──すなわち〈二〉そのものとして──そこに運動しているのだと見なすべきである。二項対立は、何かを二分するのではなく、いわば手当たり次第に何かと何かを結びつける。対立とは、むしろ接合のことでもある。ジエン社の特徴のひとつであるとされる「同時多発の会話」は、その複数の会話がまったく隣り合って行われることにより、かえってそれらがべつの階層(/時間/空間)に存在していることを際立たせる手法であるわけだが、その手法がおのずと、接合と対立とを呼び込むのである。
付け加えれば、もちろん観終わった人にはよくおわかりのとおり、先に挙げた二項たちのほとんどは劇の進行にともなってその位置を転倒させられている。森の拡大と街(居住区)の縮小によって「多数派」だった「私たち」はいつしか「少数派」になってしまうのだし、また終盤、教師と生徒だったハリツメと鈴守の関係も逆転して、「私(ハリツメ)が教えてたように、テキスト使って、紙に書かせて」鈴守はハリツメに教えはじめる。

彼らはどこにいるのか

これも覚え書きのようなもので、舞台上の彼らが「どこにいるのか」を問うのだが、おもに参照されるのは場所ではなく時間だ。
幾層もの時間が折り畳まれたように見える本作で、まず明確に語られるのは「七年」という時間の見晴らしである。「七年前。父が死んで。だから私、エムオカ君と別れたんだよね」とクルツは言い、父の持ち家の一部だった庭からいま彼らのいる〈庭〉が出現する、その起源に関わる出来事であるかのように彼女の父親の死は語られる。また、終幕にさいして街から帰還したチロルが、街に「先生(ハリツメ)がいなかったのはなぜ」かと問い、どうやらハリツメが街(=現実界?)においてはすでに〈死んでいる〉らしいことが端的に暴露される場面においても、やはりそこに「七年前」という時間の楔が打たれる。

チロル
「ハリツメ先生は行方不明だって」
ハリツメ
「ええ」
チロル
「七年も前からずっと、もういないって」
ハリツメ
……地元がなくなっちゃったから。マイナンバーもないし」(台本、p.54)

 奇しくも(?)3月11日に千秋楽を迎える本作において、当然ながら「七年前」という言葉は直接的に 2011年に結び付く(「ホウシ」「森」「地元がなくなった」といった言葉や状況が、震災とその後の原発事故を想起させもする)わけだが、そのように措定してみるとき、では、舞台上の〈いま〉は、はたして 2018年という現在時なのだろうかという疑問も同時に湧いてくる。
というのは、たとえば「マイナンバー」が代表的であるように、劇中のモノ・コトたちの多くは 2018年っぽいものでありつつも、そこからのズレを孕んだものになっているからだ。具体的にどういう制度であるかは明かされることがないものの、登場人物たちのセリフの端々に現れる「マイナンバー」はどうも、われわれの知っているそれとはちがう(より「進んだ」? より「理念的な」?)規定と運用がなされる制度であるらしく聞こえる。この〈現実とのズレ〉をどう解釈するかが、おそらく彼らのいる場所を想像する手がかりとなるだろう。
ズレによって醸し出されるのは、たとえば〈近未来〉感のようなものだが(ヒトが住めないという「森」への言及が、『風の谷のナウシカ』における「腐海」のイメージを呼び込むのもまた、〈終末的近未来〉感に一役買っているだろうか)、しかし、物語内現在の〈いま〉をたんに未来に繰り延べれば、いっぽうで 2011年に打たれたはずの「七年前」という楔が意味をなさなくなってしまう。また、これを〈パラレルワールド〉的な、ありえたかもしれないもうひとつの 2018年として捉えるのも、どうも何かちがうような気がする。
そう考えたときにあらためて参照されるのが、戯曲の冒頭にあるこのト書きだ。

現在の日本。だけどちょっとだけ違う。
私たちではない人々が、現在を二時間だけ見つめて、頭の中で思い出しているときに浮かぶような、そんな世界。思い出の中だけにあって、もう実在はしていない。(p.2)

 最初にこの説明を読んだときには、当日パンフにあった、あのやたらと詳細な、けれど物語本編にとくに反映されるわけでもない設定群が記された「登場人物紹介」と同種の、作家・山本健介がついつい発揮してしまう〈饒舌さ〉の一環としてだけ受け取ったのだったが、しかし、ズレをめぐる上記の問いを経て立ち戻ってみると、なるほどそうかとも思わせられるところがある。つまり、舞台上にある現実とのズレは、記憶違いがもたらすズレであり、記憶のあいまいさに起因するズレだという可能性だ。
物語内で語られるのはまごうことなきわれわれの 2018年であり、「七年前」が指すのも 2011年だが、舞台上の〈いま〉──彼らのいる〈庭〉──から見れば、その時間ははるか遠くの過去にあたる。鈴守の年齢設定である 270歳をここにあてはめ、たとえば 250年後の未来に〈庭〉は浮かんでいるのだと考えて、もろもろのツジツマを合わせることもことによると可能かもしれない。250年後のその未来においては、もはやすべてが決着しているのかもしれず、「街」と「森」との拮抗関係ももうなくて、世界にはただ〈庭〉のみが広がっている──役者の出ハケにかんするト書きにおいて、「いつの間にか」現れ、「どこかへ」去るという時空のあいまいさが強調されるのもそのためである──のかもしれない。
すべてが終わった地点としての〈いま〉と、そこにおいて保持された記憶としての〈いま〉。死んでいるらしいことがはっきりと示唆されるハリツメだけでなく、「森の奥にいったら死ぬ」とされながらもいっこうに死ぬ様子のないエムオカ、ヤノベ、当麻など、ひょっとすると〈全員すでに死んでいる〉のではないかという感触を舞台から得るのも、そのような場の成り立ちのせいだと言えるだろう。そして、そのふたつの〈いま〉──舞台内現在と物語内現在?──が、さらに互いに侵食し合うのだとすれば、いよいよことは厄介なのである。

他者から出発する所有

テーマが「所有」だということで、予習として読んだのは立岩真也『私的所有論[第2版]』(生活書院)だ。解説・索引を除いても 850ページ超ある大部の文庫で、まだ全部読みきったわけではないものの、これ、すごく面白い。「第4章 他者」のそのヤマ場など感動的ですらある。
まあその、盥いっぱいに張った水をこぼさぬよう、ゆっくりゆっくり運ぶような本だからやっぱりその「長さ」が必要ではあり、ちょっとこうかいつまんで説明するというのは土台無理があると思って以下を読んでもらいたいが、そこで立岩が扱う「私的所有」は、同時に「自己決定」ともほぼ同義のもので、それは端的には「私が私の働きの結果を私のものにする」、「自分が制御するものは自分のものである」という原理である。自己の「所有権」と「処分権」と「決定権」とがおのずとオーバーラップするその原理に、立岩は徹底的に、体系的に検討を加えていくのだが、たとえば、序盤のほうでなされる素朴な(そして重要な)指摘はこのようなものだ。

これは、①〔 aの生産〕ゆえに②〔 aの取得〕という図式である。①を一つの事実としよう。自分の精神が自分のものである。これはまあよいとしよう。その精神が肉体を制御し、肉体が外界を制御する。これも──自由意志があるかないかといったかたい話をしない限りは──事実といえば事実である。だが、問題は①と②のつながりである。その制御されるもの、生産されるものがどうしてその人のものになるのか。
 この「ゆえに」が根拠づけられない。なぜ①「ゆえに」②なのかと問われる時に、返す言葉がないのである。これは事実ではなく、そうなるべきである、そうなるのが正しい、という一つの規範命題、一つの主張である。そして、ここにその理由が示されているわけではない。つまり、「自分が制御するものは自分のものである」という主張は、それ以上遡れない信念としてある。そこで行き止まりになっている。言われていることは、結局のところ、「自分の作ったものを自分のものにしたい」ということなのである。
「第2章 私的所有の無根拠と根拠」『私的所有論[第2版]』、p.81-82、太字強調は引用者。

 この指摘と似た響きのセリフは、『物の所有を学ぶ庭』のなかでも聞くことができる。

エムオカ
「世の中がどう思おうが、私のものは私の物って言う事か?」
仁王
「ジャイアンですね」(p.49)
ヤノベ
「これは私の物! って強く言うだけじゃダメなのかな」(p.50)

で、この「自己決定」を出発点として打ち立てられる「私的所有」にたいし、それが押し広げられていったときに出くわすさまざまな「それはちがうのではないか」というケース(生命倫理的な問題等々)を拾い上げ、丹念に検討していくその作業の果てに(本の構成的には半ばで)、立岩が「こうなのではないか」と見いだすのがつまり、「自己」ではなく、「他者」を出発点とする所有である。それについては、やはり長くなるが、どうにもこれ以上切り詰めようのない、この感動的な文章をちょっとお読みいただけたらと思う。

先に見た私的所有を正当化しようとする言説は、あるものがある人が作り出し制御するものであることによって、そのものがその人のものであると言おうとする。しかし、例えば身体は、その者によって作られるものではなく、制御されつくせるものでもない。そして実はそのようなものこそが、その者から移動させることに最も抵抗のあるものなのである。
 だから私の答は単純なものである。自己による制御から出発する発想を裏返し、逆に考えたらどうだろうか。
 〔略〕
 私が制御できないもの、精確には私が制御しないものを、「他者」と言うとしよう。その他者は私との違いによって規定される存在ではない。それはただ私ではないもの、私が制御しないものとして在る。私達はこのような意味での他者性を奪ってはならないと考えているのではないか。
 Aの存在は、Aが作り出したものだけではなく、Aが身体aのもとにあるということ、等々である。その人が作り出し制御するものではなく、その人のもとに在るもの、その人が在ることを、奪うことはしない、奪ってはならないと考えているのではないか。他者が他者として、つまり自分ではない者として生きている時に、その生命、その者のもとにあるものは尊重されなければならない。それは、その者が生命を「持つ」から、生命を意識し制御するからではない。
 もっと積極的に言えば、人は、決定しないこと、制御しないことを肯定したいのだ。人は、他者が存在することを認めたいのだと、他者をできる限り決定しない方が私にとってよいのだという感覚を持っているのだと考えたらどうか。自己が制御しないことに積極的な価値を認める、あるいは私達の価値によって測ることをしないことに積極的な価値を認める、そのような部分が私達にあると思う。自己は結局のところ自己の中でしか生きていけない。しかし、その自己がその自己であることを断念する。単に私の及ぶ範囲を断念するのではない。それは別言すれば、他者を「他者」として存在させるということである。自己によって制御不可能であるゆえに、私達は世界、他者を享受するのではないか。私に制御できないから他者があるのではない。制御できてもなお制御しないものとしての他者がある。世界が私によって完全に制御可能である時、私は私を世界全体へ延長させていったのであり、世界は私と等しくなる。すべてが私の意のままになる。例えば臓器を受け取って助かった者にとって、具体的に失った者は一人でも、それで済んだのは一人で足りたからであり、可能的には全てのものが自分の生のためにある存在である。観念の中で作為された行為としての意味だけが維持され、私の欲望が直接に実現されていくこの過程に他者、他者による否定の契機が弱くなる。このような私としての世界を私達は好ましいものと思わないということではないか。
 そこでは私は私にしか会わない。だからその世界は退屈な世界である。私の価値や欲望はその時々には切実なものであっても、それなりのものでしかない。そういうものによって世界が充満しているのだったら、うんざりしてしまう。〔……「第4章 他者」『私的所有論[第2版]』、p.189-192、太字強調は引用者。

 いや、いい加減長いので切り上げるけれども、ここに言われる〈他者性の擁護〉といったものについて、何となく理解/共感していただけたろうか。このくだりはもう少し続き、「私(達)のものなど何ほどのものか」という強烈なフレーズをまたいで、「自分が死ぬか生きるかといった時に、そんなことを考えられるものかどうか。私には駄目な気がする。ただ、〔……〕」というふうにようやくひと息つくのだが、このうねるような文章はおそらく、大部の本書中でも白眉のひとつだろうと思われる(それゆえに、やはり本来的には 190ページを読み進んだうえでこの記述に出会ってほしいところではある)

そして、ハリツメ

自/他の境界があいまいなために所有の概念を理解できないのだと(序盤の)ハリツメによって説明されるのが妖精さんだが、しかしたとえば鈴守が、肉体的な接触だけでなく、「声をかける」ことも「触れる」ことに等しいのではないかと指摘してみせるとき、そこではむしろ、ハリツメよりも自/他というものがはっきり意識されている。
 ハリツメが極端に恐れていたのは「触れ(られ)る」ことであり、ハリツメにとってそれは距離がゼロになることとして受け取られていた。距離がゼロになり、「他」が一気に流入して「自」がなくなるかのような事態をハリツメは恐れるのだが、そのとき、むしろハリツメによってこそ、自/他の境界は消滅しうるものだと──あるいは、「距離」に喩えられるように相対的なものだと──考えられている。
 そして付け加えるなら、そこでハリツメによって想定されている所有は、あくまでも〈自のものにすること〉としての所有なのだ。
「分かったフリをする」という鈴守の提案に、ハリツメは猛烈に怒る。そこにはおそらく、「分かったフリをする」ことがじっさい鈴守にとって可能であるだろうことへの恐れがあるのだと思うが、その鈴守による〈分かったフリ〉は、〈完全に分かった状態〉と原理的に見分けがつかないものである。そしてこの〈完全に分かった状態〉において、そのとき、いよいよ「自/他」は消滅するのであり、おそらく、ハリツメはそのことを拒否した。
もちろん、立岩の言うような〈他者性の擁護〉という認識に根差してハリツメが次のセリフを口にしているとは思いにくいのだが、しかしやはり、終盤にむけて絞り出されるこの重要なセリフが他者の「尊重」ということに言及しているのには注目しておくべきだろう。そしてまたハリツメはここで、他者の他者性はどこまでも残るのだということを言うのであり、そうすること──他者を他者のまま残すこと──を選び取ろうとしている。まさしく萌芽しているのは、〈他を他のままにすること〉としての所有なのである。

ハリツメ
「触ってもいい、と思う」
鈴守
「どうして」
ハリツメ
「尊重があるのなら、……尊重が伝わっているなら、触ってもいい。でも、尊重があっても、あるからと言って、それは誰かの物になったりしない、物は本当は、誰のものでもない。」(p.48)

教える/教わるという関係のなかでなされる「分かったフリ」は、そのじつ教える/教わるという関係の完全な解消も意味し、そうしていったん均質化(?)してしまった空間に、上のセリフをきっかけとしてふたたび亀裂が生じ、(逆転した)教える/教わるの関係が生まれる。それはいわば希望としての亀裂だ。終幕にさいして畑から出た芽が、そこから光があふれ出す空間の裂け目のようなものとしてあったこともまた、そのことと無関係ではないだろう。

Walking: 6.1km • 8,597 steps • 1hr 24mins 10secs • 287 calories
Cycling: 2.5km • 14mins • 55 calories
Transport: 94.1km • 2hrs 4mins 3secs
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(2018年3月16日 15:44)

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/ 27 Feb. 2018 (Tue.) 「妄想沖で」

ほぼピーだが、下にロビンがいる。2016年10月。

タイトルにさしたる意味はない。妄想の海に漂って、知らず沖のほうまで出てしまったというような、そんなイメージか。ちなみに二葉亭四迷の『浮雲』では、「妄想」の字に「ぼうそう」とルビが振られている。
妄想沖を、ゆらゆら、ゆらゆら。ひとり、泳げもせで。
人につられ、「ほめて箱」というものを設置した。人に褒めてもらうこと(ないし、褒め合うこと)を目的としたツイッターアプリ。褒める側は匿名で褒めることができ、自分でも箱を作成するのでなければ、とくにツイッターアカウントと紐付ける(ログインする)必要はない。わたしの「ほめて箱」はここ。かつて、わたしが「褒められたがり」であることをあっさり見抜いたのは高校同級の上山(英夫)君だったと記憶するが、まあ、ご指摘のとおりなのだった。

18:55
ヨシュアー(予習するひと)。
19:04
ヨシュアーたる私は、立岩真也を読んでいる。

「ヨシュアー」はちょっと「ヨシュアラー」(ヨシュア記を読むひと)と紛らわしいのだったが、そこはそれだ。
それではみなさん、ジエン社『物の所有を学ぶ庭』でお会いしましょう。

Walking: 5.4km • 7,444 steps • 1hr 18mins 50secs • 253 calories
Cycling: 2.5km • 10mins 49secs • 54 calories
Transport: 82.6km • 1hr 45mins 23secs
本日の参照画像
(2018年2月28日 18:41)

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/ 24 Feb. 2018 (Sat.) 「モンスターハンスター」

ロビン。2016年10月。

19:52
マススタート、まだ理解できておりません。
21:48
見事な4位もきもちよかった。

マススタート女子・金、カーリング女子・銅、おめでとうございます。
スピードスケートのマススタートは 1周 400mのトラックを 16周滑り、4・8・12・16周目の着順にたいしてポイントが与えられていく仕組み。4・8・12周目にはその時点の 1〜3着にそれぞれ 5点・3点・1点が付与され、最終 16周目にかぎっては特別に 60点・40点・20点が与えられる。最終着順ではなく獲得ポイントの合計によって競われる順位はだから、1〜3位(金・銀・銅)にかんしてはけっきょく最終周の着順どおりになるわけだが、4着以下はポイントが 0なので、「途中でがんばってた人たち」がそのあとに続くことになる。
オリンピック種目に採用されたのは今回がはじめてで、2015年の世界距離別選手権で産声をあげたらしいこの競技はつまり、それが(いまだけかもしれないが)もつ、「ちょっとこういうルールでやってみようか」という感じが好もしいのだった。観戦後に提案したところ妻には即座に却下されたが、4・8・12周目のポイントをたとえば 7点・5点・3点にしたらどうか──というのはだから、金・銀・銅も最終着順どおりでない可能性をもたせた場合にどんなレースになるのか──、といったふうに、ルールをめぐってあれこれ想像を膨らますのも部外者にはたのしいし、また、中継後の NHKの番組に出ていた三宮恵利子さんが言っていたのだが、「基本、マススタートの練習ってできない」というのもこの競技の魅力をうまく言い得ているような気がする。突然の野試合で〈ある種の実力〉が試されるといったような、そんな感じである。
あ、ルールといえば、かのフィギュアスケートの見巧者、ま、ただのファンちゃファンなんだろうけど、いったい何者なんだという Mizumizuさんの、「 ISU副会長アレクザンドル・ラケルニクの仕掛ける次のルールは?」も面白かった。

27:32
モンスターハンスター

略すと「モンハン」であることから、大人気ゲーム「モンスターハンター」ととても紛らわしいところの「モンスターハンスター」は、「モンハン買って」と妻に言われたわたしが、となりの布団のなかで考えだした TVゲームソフトである。いちおう PS4のソフトだが、中身はボードゲーム系か何かじゃないかと噂されるのは、なにせ二千円のソフトだからだ。いや、二千円もすんのかよっていうゲームである可能性もなくはないものの、でも安いんだよ、「モンスターハンスター」。

Walking: 100 meters • 160 steps • 1min • 3 calories
本日の参照画像
(2018年2月26日 18:47)

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/ 19 Feb. 2018 (Mon.) 「語り芸パースペクティブ最終回」

ドグマ王国の帝王テラーマクロ。

ジンドグマの悪魔元帥。

ロビン。2016年10月。

「玉川奈々福がたずねる語り芸パースペクティブ」の最終回。最終回のお題は「語り芸の来し方、これから」で、能楽師の安田登さんといとうせいこうさんがゲスト。「来し方」とくれば「行く末」とつなげたくなるところだが、あえてそこをずらしたのは、語が一対一対応することで、一点と一点とを結ぶ単線的でリニアな〈物語〉を想定/想起させてしまうのを避けたかったという「編集」意図だろうか。「語り芸のこれから」がさまざまな可能性に開かれているのと同様、「来し方」もまた〈単一起源〉に回収されえない、無数の声へのアクセス可能性を残している。
ゲストふたりの短めの実演(セッションも)のあとは、玉川奈々福さんも交えての遠大な「雑談」。奈々福さんの後刻のツイートを引いてしまえば、雑談に登場したキーワード群(の一部)はこんな感じだ。

@nanafuku55: 今日のキイワード。敗者、ラップ、廃品、身体中墨入れる、懺悔、秦河勝、蛭子、鵺、カイコ、蚕の社、服部、羽田、坂越、石神、宿神、入間=射魔、舞、無、碑林、胞衣、景教、ネストリウス派…。
2017年2月20日 1:06

 いやまあ、なにせきのうの日記がああした分量と調子だった──そこに図らずも、胞衣(えな)坂越(しゃくし)も出てきちゃってる──んでね、今日はさすがにさくっと済ませますがね、ともあれこんな(どんな?)調子の来し方とこれからである。
ここにキーワードが挙がっていない話題で印象に残ったものを少しだけ足しておけば、ひとつは「検索の不可能性」とでも言うべき問題系で、ことネットの検索においては「検索できるものしか検索できない」し、そもそも「探しているものしか見つからない」という、かねてより指摘されているといえばされているアレ。「ネットに無いもの」が、すなわち「無いもの」になってしまう未来はすでに到来しているのかもしれないという危惧である。それから、「オーディエンスのいないところに芸能は発生しない」という、これもあたりまえっちゃあたりまえだけどの指摘。あと、「食わせ者」としてのピアノ──非常にすぐれた楽器だが、同時に、音階からこぼれ落ちる音を見事に「無いもの」にしてしまう。「食わせ者なんですよこれが」という話──とか。
ツイートにも採録されている「舞」と「無」は、形象的にも同根であるところのこの二字はそもそも「同じもの」であった──かの天岩戸の舞も、まったくの暗闇のなかで舞われ、受容された──わけで、そうした、視覚的な受容とは離れたところで成立する「舞(ダンス)」というものについてはつねづね模索している、という安田さんの発言。
などなど。で、またもたいへん刺激的な一夜だった。およそ一年にわたる全11回(プラス番外編1回、は行ってないけど)、おつかれさまでした。
あとはこの日のツイート解題。

12:40
俄然、いま「教養」が面白い(人に説明していたら面白くなってしまった)。

 例の「教養」問題。そういえば「教養」というワードで当然思い出されるべき一冊として、われらがゼミ担、石原千秋の『近代という教養』(筑摩選書)があったわけだが、忘れてた。まあ、この書名にある「教養」はどちらかというと「パラダイム」に通じる〈みんなが持っている=あたりまえである〉からこその「教養」であって、大正教養主義のような〈つねに求め続けられる=無い〉からこその「教養」とは若干ニュアンスが異なるのだけれども、ともあれこれも再読することにして、あと、やっぱり山本芳明『文学者はつくられる』(未発選書)も読まないとだめだろうなと思った次第。人に話しているうちに「教養」だけじゃなく、「私小説」「文壇」といったあたりまで面白くなってきてしまったのだった。って、いったい「何年前のおれ」だ、おれ。

15:21
ところで男子フィギュアのフリー。わが家では、チャップリンを演じたキーガン・メッシング選手の点が最も高かった。来季はさらに難易度を上げ、プレスリー・メドレーをチャップリンで滑るといった大技(たぶん基礎点高い)への挑戦が期待される。

 よかったですよね、メッシング選手のチャップリン。なんていうんでしょう、ジャンプ要素へ向けて体勢を作って滑り出したときに、「これ、ひょっとして跳ばないんじゃないか?」という期待さえありました。
 あと、来季のプログラム案としては「キートン・メドレー」ってのも考えましたが、それ、曲は何なんだって話です。(かなり会場も壊さないといけないでしょうし。)

18:38
敵は秘密結社ミューズ(アドビ元帥)? RT 児玉悟之 @kodamasatoshi: 「CSS戦隊カスケーダー」という、悪しきCSSに汚染されたハイパーテキストたちを救う戦隊もの。イエローの必殺技は「ポジション・リレイティブ」。

 Adodeの「 Muse」って自分じゃ使ったことないのだけど、Museで作られたページのソースを覗く機会がこないだあって、まあ、そりゃそうかあ、こうなるかあと思ったところだった。
 で、この CSS戦隊カスケーダーについてはこのあと児玉君から返信があり、やりとりが続いたのでそれもついでに掲出。いや、CSSとヒーローものの双方に馴染みがないと、なんのこっちゃわからないでしょうけど。

@kodamasatoshi: @soma1104 そんな強大な敵はちょっと…。もっと瑣末な戦いをする、サポートセンター的な連中です。
2017年2月19日 18:58

@soma1104: @kodamasatoshi するとあれだ、大技「フレックス」はシーズン中盤で習得する感じ?
2017年2月21日 8:16

@kodamasatoshi: @soma1104 そうですそうです。猪突猛進型のブルーが「ヴァーティカル・アライン」を放って返り討ちに遭うんですよ…。で、責任を感じてしばらくいなくなるんですが、みんながピンチのところに修行を終えて帰ってくるんです。そこで放ったのが「フレックス」でしたね。盛り上がる回でした!
2017年2月21日 10:14

 あはははは。

18:54
テラーマクロが見たいなあ、久しぶりに。テラーマクロだけ見たい。

 先の「アドビ元帥」は「悪魔元帥」のもじりで、そのつながりで湧いた欲求。悪魔元帥もテラーマクロも「仮面ライダースーパー1」の敵ボス。容姿を言うとテラーマクロは顔色の悪いおじいちゃんなのだが、特徴的な帽子とローブを着ていて、その感じをいま「ナウシカのような」と形容しそうになった。待てよ、と思ってナウシカを確認すると全然ちがったが、うーん、何と間違えている?
 仮面ライダーでいえばスーパー1とその前作のスカイライダー、戦隊ものだとデンジマンとサンバルカンがリアルタイムなぼくらだ。

Walking: 3.8km • 5,471 steps • 1hr 3mins 8secs • 178 calories
Cycling: 2.6km • 14mins 57secs • 57 calories
Transport: 92.1km • 2hrs 5mins 43secs
本日の参照画像
(2018年2月24日 13:27)

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/ 18 Feb. 2018 (Sun.) 「霊的ボリシェヴィキ / 星座占い・前編」

届いたっ。

手前からピー、ポシュテ、ロビン。2016年10月。

児玉(悟之)君の日記がまた閉じられる(そしてまたまっさらになったサイトの上に書きはじめられる)らしい。その今期最後の回にあったセンテンス。

何かを言っているようで、何も言っていないひとがいる。それは卓越した技術だ。排気ガスだけ撒き散らし、1mmも前に進まない。事故は起こらない。どこにも出かけない。
Sat Feb 17 2018 – KODAMA Satoshi

 ああ、おれだな。おれのこと言ってるな、と思ったのだった。
月曜社の新雑誌『多様体』(第1号:人民/群衆)が届く。かなりボリューミー。待ちに待った。まずはやはりアレクサンドル・コイレ「嘘についての省察」から読むことにするか。
16日には渋谷・ユーロスペースで『霊的ボリシェヴィキ』(高橋洋監督・脚本)を観た。いやその、ホラーにかんしてはまったく素地がないのだけれど、ツイッターで目にして、主演が韓英恵(『ピストルオペラ』の少女・小夜子)だってこともあるのだが、なんだかほいほいと観に行ってしまった次第。面白かった。
鑑賞後にパンフレットで知るのだが、「霊的ボリシェヴィキ」というこの言葉は高橋監督による造語なのではなく、いちおうの参照先とされるのは武田崇元である。『(復刊)地球ロマン』( 1976〜77)、『迷宮』( 1979〜80)といったオカルト雑誌の編集長を経て出版社の八幡書店( 1981〜)を設立、また『ムー』( 1979〜)の創刊にあたっても顧問を務めたとされるところの人物だ。ネットにあるかぎりの資料( 90年代の『宝島』のインタビューを全文 OCRで載っけてる掲示板とか)を読んだだけで原典に当たれてはいないのだが、その武田が『迷宮』時代あたりから 80年代にかけて言っていたのが「霊的ボリシェヴィキ」(もしくは「霊的ボリシェヴィズム」「霊的革命」などなど)で、それが 95年の地下鉄サリン事件後、中沢新一が、事件以前のオウム真理教をそれでも一定程度「評価」しようとしたさいにこの武田の概念を持ち出したことで再度(一部では)脚光を浴びたという経緯があるらしい。武田自身は 96年当時のインタビューでオウムをきっぱりと否定しており、中沢による「霊的ボリシェヴィキ」の概念理解もまったく間違っている(独自解釈である)としているが、高橋監督がこの言葉を目にし、その響きに惹かれたのはこのタイミングであったようだ。
パンフレットには武田崇元と高橋監督の対談も載っていて、そこでの(往時よりかは穏健になっているのだろう現在の)発言も総合すると、武田のいう「霊的ボリシェヴィキ」においてはどうも、「記紀神話からは抹消されたオリジンの断片」への想像力が主たる問題とされており、そのことは『地球ロマン』にはじまる武田製ポップ・オカルティズムがまずおもに「偽史」というテーマを扱ったことともつながっている(「霊的」の内実はそうした「オリジン」で、さらに出口王仁三郎=大本教が「型」と言い表した〈特定集団の前衛性〉がレーニンの「ボリシェヴィキ」に重ね合わされている、感じ、なのかな?)

 さて、本号では、これらの「偽史」を特集する。特集するに当って、これらの「偽史」が従前被せられてきた、面白半分な形容を取り除き、「偽史」が主張しようとしている「何か」を捉えるべく、生のままで提示したいと考えた。蓋し、「偽史」の原文の持つボルテージは、それが単なる「奇説」以上のものを持っていると考えるからである。
 従って、本特集は、「偽史」を「歴史異説」「意外史」としては取りあげない。そこに述べられている、皮相的な歴史の真否を問うのではなく、これらの「偽史」を「つくる」人間のパトスを、彼等が「歴史」に託して主張しているものは何かを、問いたいと考えている。
「偽史に憑かれた人々」(編集部)、『地球ロマン』復刊1号(特集=偽史倭人伝)、p8

てな話に付き合ってるときりがないので映画に戻ると、まあ、描かれるのはいわゆる「百物語」的な儀式/実験1]なのだが、そこで語られる体験談のうちもっとも印象的だったのは霊媒師・宮路(この霊媒師自体はわかりやすく狂気側にいるのでそんなに怖くないのだが)による〈山の稜線を這っていた、見てはいけない「あるもの」〉の話だった。パンフレットによればこの話には出典があり、それは吉行淳之介がエッセイに書いている「クラブのママから聞いた少女時代の体験」とのこと。
で、その吉行淳之介のエッセイ「恐怖について」(新潮社版『吉行淳之介全集』第13巻所収)を読んだのだが、そのテクスト本文を読むかぎりではパンフレットの説明(高橋監督の記憶)と若干の相違がある。吉行にその話をしてみせる女はただ「女」とされるだけで「クラブのママ」等の説明はなく、また、その話は女自身の体験談ではなく、知人の占い師が体験したものとして女が語るものだ。女によれば、いまでは占い師になっているその「七歳の少女が二つ下の弟と一緒に山に遊びに行って、何気なく斜め上に眼を向けると、見てはいけないものを見てしまった」。

 「それは、なんだ」
 その話をしてくれた女にたずねたが、黙っている。その女は、占い師の知人だそうである。
 胞衣(えな)が宙に浮いていて、そこから胎児の頭と手足の先が突出しているようなものか、と私は頭に浮かんだことを口にしてみると、
 「そうそう、いいセンだわ」
 「気を持たせないで、教えてくれ」
 「わたしも、それに似たことを考えて言ってみたんだけど、違う、って」
吉行淳之介「恐怖について」(初出は『波』1978年1月号)

 やりとりを字句どおりに受け取るなら、女の「いいセンだわ」という返しは占い師がじっさい見たものとの近さを判定しているのではなく、吉行の想像が自分の発想と近いことを褒めているだけだとおぼしいのだが、それにしても、いったいなぜ吉行は唐突に胞衣などを思い浮かべたのか、ということのほうにちょっとした驚きはある。まあ、一般に言われるところでは吉行はミソジニー傾向の強い作家であったらしいので、そのある種の発露ということも言えるかもしれないものの、しかしいまここの霊的文脈においては、やはり「胞衣信仰」(中沢新一『精霊の王』!)との連環を思わずにいられないのだ。

しかも芸能の徒の守護神シャグジには、胎生学的なイメージが濃厚である。猿楽の祖秦河勝ははじめ胞衣状の容器に入ってこの世界に出現し、終わりには胞衣を思わせる「うつぼ船」に乗って西海に去り、漂着した坂越(しゃくし)の浦では大荒神となって、猛威をふるった。その理由を金春禅竹は、このとき宿神は荒神としての胞衣の本質をあらわにしめして、猛威をなしたと説明している。
中沢新一『精霊の王』、p.63

 そしてパンフレットにあるとおり、高橋監督はまずこの吉行のイメージ、「胞衣が宙に浮いていて、そこから胎児の頭と手足の先が突出しているようなもの」の映像化を模索するのだが、結果、直接の視覚化を断念した監督が本作で代わりに用いるのが、すでにインチキであるという評価の定まった(コナン・ドイルが騙されたことでも有名な)、かの「妖精写真」なのだった。霊媒師・宮路が劇中で説明するとおり、この妖精写真は宮路が見た「あるもの」とは全然ちがう(視覚的に似ているのではない)のだが、自身が触れてしまった世界の感触として、この写真のもたらす印象がどこか似ているのだとされる。
 そう、ここでふたたび「偽史」が──というよりも、「偽史」を特集した『地球ロマン』編集部の巻頭言が──よみがえってくるのだ。そこにおいては写真=胞衣信仰=少女の見たものの〈皮相的な真否〉は問題とされず、〈それを「つくる」人間のパトス〉、〈それが主張しようとしている「何か」〉が〈生のまま〉提示される、のである。
さて、一点だけ指差し確認をしておきたいと思ったのは、例の「一番怖いのは人間」のシーンについてだ。パンフレットに寄せられた切通理作の文章から引くとこういう場面である。

 そんな、一人目の話が終わった時、聴いていた青年が言う。
 「一番怖いのは人間ってことなんじゃないですか」
 その途端、青年は杖で打ち据えられる。
 脚本家の小中千昭は、かつて、ホラーの作り手としてもっとも許せない態度は「一番怖いのは人間」という考えの表明だと語っていた。
 純粋に怖がらせるという事に奉仕しない「潔くない」態度に感じられたのだ。
切通理作「真実とは「出会い」そのものなのだ 『霊的ボリシェヴィキ』体験記」、パンフレット p.9

 で、切通理作がこのシーンをこう読んでいるというだけでなく、パンフレット編集部によるキーワード集のページにも、

結局、一番怖いのは人間……

このような通り一遍の人間認識で恐怖を語ることへの憤りを、後に Jホラーと呼ばれる表現に携わった作り手たちは共有していたのである。
「『霊的ボリシェヴィキ』キーワード」、パンフレット p.10

というふうに記述されるのだが、しかし青年・安藤はこのシーンにおいて、一人目の男・三田の話が「怖くない」ことに苛立っているようにも見えるのである。じっさい、三田の話の腰を折るように直前に茶々を入れてもいた安藤が言い放つ、

僕が今の話を聞いて思ったのは、結局一番怖いのは人間じゃないかってことですがね。

は非難がましい響きを伴うのであり、「結局一番怖いのは人間じゃないか」という思いしか自分にもたらしてくれない三田の話への失望を表明しているふうでもある。これがもし、三田の話に感心してみせたうえで「一番怖いのは人間ですね」という感慨を吐露したのであれば、上記の「憤り」の対象として物語上の懲罰を受けるのも至極道理なのだが、そうではなく、(あくまで安藤による評価ではあるものの)「一番怖いのは人間」だという感想を喚起しやすい話を選択してそれ以上の「怖さ」に貢献していない三田に苛立ってみせている安藤は、ある面で、上記の「憤り」を共有する側に立っているとみなすことも可能ではないだろうか。
 にもかかわらず、青年は発言の趣旨によってではなく、「一番怖いのは人間」という語句の発声のみによって打擲されてしまっている。いや、だからどう、というふうに展開させる論の持ち合わせはないのだけれど、そこに参加者間の〈微細だが決定的な齟齬〉のひとつを見ることはできるのではないか。とか。

1:「百物語」的な儀式/実験

あ、いま思い出したけどそういえばわたし、小学生のころに友達何人かと家(というのはわたしの場合「寺」だが)で百物語をやったことがあったんだった。で、その結果わたしが思い知ることになったのは、部屋でロウソクを点けていくと 20本ぐらいでもう「怪談どころではなく暑い」ということである。

話は変わって、こちらは世界のタイムラインから。笠木(泉)さんとのくだらないやりとり(いや、わたしが巻き添えにしただけで、笠木さんのツイートはべつにくだらなくないですけどね)

@izumikasagi: 急に誰かに手相を見てもらいたくなった。私の手相、人よりも薄い気がするのだ。誰かいないかな。
2017年2月16日 16:51

@soma1104: @izumikasagi 「薄いですね」っていう診断でもよければ、わたしが。
2017年2月16日 17:51

@izumikasagi: @soma1104 じゃあ、腑に落ちないけど、お願いするよ!
2017年2月16日 18:17

@soma1104: @izumikasagi オッケー。
2017年2月16日 18:18

 で、占いといえば、いまわたしは「星座占い」もたしなんでいるので、ご用の向きがあれば言っていただきたい。わたしのは誕生日を聞いて、そのひとの星座が何かを占う、人呼んで「星座占い・前編」だ。その星座であった場合に、ではどういったことが言えるのかについては「星座占い・後編」へと引き継がれるわけだが、それはわたしの任ではない。けっこう当たると評判の「星座占い・前編」である。

Walking: 96 meters • 136 steps • 2mins 29secs • 5 calories
本日の参照画像
(2018年2月22日 11:41)

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