/ 13 Jul. 2008 (Sun.) 「『五人姉妹』を観た」
■報告するほどのことでもないが、探していると前回書いた漫画『セクシーボイス アンド ロボ』はその後無事見つかった。カゴに無造作に突っ込まれて、そのカゴが押し入れのなかにあった。また別のものを探していて見つけた。
■さて──。
■12日の夜に、ミクニヤナイハラプロジェクトvol.4『五人姉妹』(準備公演)を観た。もし仮に私が五人のうちの誰かと付き合っていたとすれば、その枕元で「よかった」と囁けばいいのだけれど、そうではないから、またこうして言葉で迂回しつつその感動を語らなければならない。
■すごくひさしぶりに思い出したのは、「すべての芸術は音楽に嫉妬する」という言葉で、この言葉自体はニーチェが自身の文脈のなかで(意味的にも)アレンジをほどこしつつ述べたものらしいが、そのもとは、ウォルター・ペイターによる次のような言葉である。
すべての芸術はたえず音楽の状態に憧れる。それというのも、他のすべての芸術は内容と形式を区別することが可能で、悟性はつねにこれを区別できるのだが、それをなくしてしまうことが芸術の絶えざる努力目標となっているからである。
……芸術は、つねに、単なる知性の働きから独立して、純粋に知覚の対象と化し、その主題や素材にたいして責任を追うことを逃れようとする。詩とか絵画の理想的な作品の場合、構成要素が非常に緊密に結びついていて、題材や主題が知性だけに訴えることはない。
ウォルター・ペイター『ルネサンス』。なおこの訳文は、河村錠一朗「境界の言語としての絵画:講義メモから」(PDF)にあったものを拝借した。
ペイターがここで言わんとしていることはじつは(深遠ながらも)単純で、つまり、なぜすべての芸術が「音楽の状態に憧れる」のかといえば、それは(やや荒っぽい言い換えになるが)、音楽には意味がないから、である。
■もちろん、ここでいう「意味がない」は「有用でない」とかそういうことではなく、「言語」を介することで表現に不可避的に付いて回る、「内容」としての「意味」のことを言っている──えーとだから、はじめからこう言い換えればよかったのかもしれないが、音楽という形式が他の芸術形式から嫉妬されるのは、つまりそれが言語を介さないからである。
■言語という体系に依存せざるをえない文学は、どうあがいても(それがいかに高度な表現に達して、かつその体系の〈裏をかこう〉とするものであっても)、言語がもつ「意味」(たとえばわかりやすいケースを考えて、その「辞書的な意味」)から逃れることができない。また、ひとまず文学と音楽との中間に位置付けることができそうな絵画(やその他の芸術)においては、少なくともそれが具象を扱うかぎりにおいて、そこに描かれる具体的な「題材」が逃れがたく言語によって回収され、「意味」をもたされてしまうということがある。あるいは「歌詞」というものを考えてもいいが、つまりそこには原理的に、〈悲しい〉という内容に対応する言葉や、〈楽しい〉という内容に対応する言葉が存在しうる。けれども音楽には、これまた原理的に、〈悲しい〉という内容に対応する音も、〈楽しい〉という内容に対応する音も存在しえないのであって(その意味で、じつに単純な話「音楽には意味がない」のであって)、ペイター曰く、その状態にすべての芸術は憧れるのである。
■ダンスが音楽と親和性が高いことは言うまでもないが、ここまでの話とからめて言えばそれは、ダンスもまた、「意味がない」という音楽的状態にかぎりなく近い表現形式だということが関係しているだろう。むろん世の中には「アテ振り」というものがあり、それは単純に「意味」を志向するダンスだと言えるだろうが、少なくとも、たとえば、
その人の持つ個性を無理矢理ダンスにしてゆくという昔やっていた方法
矢内原美邦の毎日が万歳ブログ » Blog Archive » チケット完売しましたが
と(矢内原)美邦さんがいうような手法においては、(そこでは逆に「意味の残滓」のようなものから出発しつつも、それを「過剰な残滓」に仕立てることによって)意味からもっとも遠いところへ、あるいは意味を突き抜けて〈向こう〉へ、ひたすら疾駆しようとする意志を読み取ることができるだろう。
■であるとすればなおさら、なぜ、美邦さんはいまここでふたたび〈意味 − 言葉〉と出会おうとするのか──目の前を、ただもう「表現」と呼ぶしかないものが駆け抜けたそのあとで、言葉の側はやっと、そのいまさらな問いを立てることができるのみだけれど、ただ、
誰でもつかえる言葉を使って表現しようとすることの難しさに直面しながらも、言葉というものを使いながら表現をさがしている役者たちに助けてもらいながら準備公演までたどりつくことができました。
と当日パンフに書かれる美邦さんの言葉はやはり、そうした文脈のなかで受け取ることが可能だろう。
■むろん、それが単純な「意味への回帰」となりえないことは舞台上の成果が示すとおりだし、またそのことはあらかじめ、チラシの上に予告されてもいた。
人は生きているから習慣を習得できる。生きてゆこう、
白い記憶のなかで、赤いスリッパをはいて、
故郷がどこにあるのかもわからないけど、
確かに故郷を思って『ララララ♪』と五人姉妹で歌うよ。
「故郷がどこにあるのかもわからない」彼女らにはもとより回帰する場所などないのであり、また、彼女らは「確かに故郷を思」い、いまやそれを見据えることができるが、だからってそこに帰るわけじゃない。うっかりでも「意味」のやつが来たら、そう、跳び蹴りでも食らわせてやればいい。
■意識の空白(長女)、身体の空白(次女)、記憶の空白(三女)、内面の空白(四女)、愛の空白(五女)。「白」いはずが、「黒」い五人。窓の外にひろがるだろう意味の豊穣のこちら側で、黒い五人は息ではなく言葉と観客とを吸い尽くした。とびきりキュートなそんな五人に、むろん意味はないのだ。
■ああ、言葉よ。
■13日、うまいコーヒーを飲みながら、探し当てた『セクシーボイス アンド ロボ』を読み返す。
知らない人たち。
悲しかったり寂しかったり、
嬉しさをわかちあいたかったり、
言いたくて言葉にならないことを思ってたり。いろんな誰かと言葉を交わして、
私の言葉で誰かが私を好きになったら、本当に、
生きててよかったと思うよ。私がしたいのはね、この世界にちょっとしたドリームを与えるような…
そういうことなんだ。
黒田硫黄『セクシーボイス アンド ロボ 2』、voice10「一夜で豪遊」
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/ 10 Jul. 2008 (Thu.) 「『バカバカンス』を観る」
■「夏休みウルトラ計画」のサイトがまだできていないことの後ろめたさを抱えつつ、昼間、浅野(晋康)君のブログを覗くと、目に飛び込んできたのは次のような記述だ。
もうひとつ、とてもよかったのは、いま吉祥寺バウスシアターでレイトショー公開中の映画、宮田宗吉監督作品「バカバカンス」です!
春にメイキングとして関わった現場で助監督だった宮田さんの第一回監督作品、なんと主演は、須田邦裕くん!
すっかり俳優道一直線の須田くんももちろんいいが、なんといってもグッときちゃったのは、奥田恵梨華さんだよ! いい! すごくいいぞ!
NOTE | 夏休みまであと何日?
ほぼ、〈固有名と「いい」とビックリマーク〉だけで構成されたこの感動的な文章が示すのは、げんに、まさにここに〈バカになってしまった人〉が出現しているという事態であり、〈バカになってしまった人〉の、その声量に私はつい「まあ、まあ」と取りなすような恰好になって、おそらく振り上げられているにちがいない拳をどう降ろさせたものかと思案しなければならないが、とはいえ、浅野君に「すごくいいぞ!」と言われれば、私だって「どの道で待っていればその
■この日は上映前に、主演のふたりと宮田監督による舞台挨拶があって、聞いていたら思いがけず宮沢(章夫)さんの名前が出てくるのだった。パンフレットに載っている座談会での発言とも総合すると、はじめに監督の自宅で本読みをおこなったさい、奥田さんはずっと探していた『彼岸からの言葉』を本棚に見つけて興奮し、それを借りて帰るのと同時に、台本を忘れて帰ったという。まったく、「あの娘」のお気に入りもまた宮沢さんかよと、映画を観る前にすでに〈バカ〉になっている者がひとりいたと思っていただきたい。
■といったような話はともかく、バカがバカを呼んでいる映画『バカバカンス』は、吉祥寺バウスシアターにて18日(金)までレイトショー上映中である。われこそはというバカのみなさんにはぜひ、(吉祥寺に行くには切符を買って電車に乗らねばならないが、そこだけはなんとかクリアしてもらって)観に行っていただきたいところだ。
■そうそう、こないだから漫画の『セクシーボイスアンドロボ』を探しているのだが、家のなかに見当たらないのだった。誰かに貸したっけかなあと考えるが、思い出せない。
■きのうの日記(日記じゃないけどね、もうぜんぜん)に書いた、チェリーブロッサムハイスクールの舞台に寄せた文章について、柴田(雄平)君がブログで触れ、丁寧なリアクションをくれた。いやいや、どうも。たいていいつもそうだけど、「感想」とは名ばかり[※1]、自らの抱える表現欲にだけ根差したような文章だから、まずもって読んでもらえたというそのことがありがたい。で、「相馬さんも文中で述べている通り、この『アキストゼネコ』というタイトルがじっさいのところ作品内容とどのように切り結ぶことになるのか全くもってわからない。こんなに調べてくれた相馬さんのためにもうまく繋がることを願います」と柴田君は書くのだったが、いや、私のことだったらそんなに気にかけることなくやってもらいたい。なんだったら、秋も深まったころに、「『アリストテレス』のまちがいだった」と言ってくれても私はいっこうにかまわないのであり、私はともかくとして、他の関係者やお客さんにいきなりそう告げるのはアレだという場合、たとえば九月ごろから徐々に、「アキストゼネコって、ギリシアだよね? ローマだっけ」とか、「ソクラテスって、アキストゼネコと同時代?」とか発言をくり返して、「柴田さん、それ、アリストテレスじゃないすか?」と周りから言ってもらう作戦をおすすめする。そう言われたさいの、「あ。」という顔を、柴田君にはぜひ念入りに練習しておいてもらいたいところだ。柴田君ならとてもいい「あ。」をやってくれるだろう。
■くだらないことを書いたと、私はいま充分に反省する者だが、こうして浮かれているのにはわけがあって、その前回の文章に、さらにうれしいリアクションをもらったというのは小田亮先生[※2]からである。これもこちらから小田先生のブログにコメントを書き込み、「こうした文章を書いたんですが」と知らせたわけだが、それに対し、ちょっと思いがけぬほどのレスポンスをもらったのだった。
相場さん、コメントをありがとう。ブログ記事読ませてもらいました。
「あきすとぜねこ」という子どもの遊びに「ブリコラージュ」が見出せるというのはその通りだと思います。「愛している」と「好き」と「熱中」と「恋人」という重なるカテゴリーが入っているところ(これは結果の良いものを半分以上にしたいということかも知れませんが)や、「絶交」という水準の異なるものが入っていたりするところも面白いところです。この無理やり感は、もともと「あきすとぜねこ」という言葉が先ににあったのでしょうかね。また、偶然的に使われる「断片」のブリコラージュと代替不可能性が結びつくということを、私もなんとか説明したいと思っていることなのですが、相場さんの例はちょっと参考になりました。ありがとう。
もうね、名前を間違えられていることなどこのさいどうでもいいのである。うれしいなあ。誰だよ、相場って。
- ※1:「『感想』とは名ばかり」
すぐれた「感想」というのは、たとえば『五人姉妹』を観たことの興奮を伝える、田中夢のこの文章などをいうのだろう。これぞ感想だ。なにより『五人姉妹』を観たくなるじゃないか。折も折、笠木(泉)さんのブログよれば13日(日)の追加公演が決定したといい、こりゃ、観に行かない手はないことになっている。私は12日(土)に観に行くのだが、すると感想を書いたとしても13日になり、またもや何の宣伝効果も生まないのだったが、じゃあもう、まだ観てないけどいま褒めようじゃないか。世の中には、観ずとも褒めることのできるものがあるということである。これを観ずして何のための2008年かと言いたい。「準備公演」が「本公演」を凌駕することは往々にしてあり得るのだ。そして、世の中には同時に、観ないと褒められないものが厳然とある。だから観よう。
- ※2:「小田亮先生」
説明しておくと、敬称が「先生」であるのはかつて成城大学で教わったことがあるからである。
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/ 9 Jul. 2008 (Wed.) 「ブリコラージュとしての『あきすとぜねこ』──チェリーブロッサムハイスクールによせて」
■『アキストゼネコ』とはここにおいてまず、チェリーブロッサムハイスクールが予定する次回公演(2008.12.04 - 12.09@ウェストエンドスタジオ)の、その作品タイトルのことである。このタイトルがじっさいのところ作品内容とどのように切り結ぶことになるのか、それは主宰で演出の柴田(雄平)君自身が言うように現段階で(少なくとも作の小栗剛君以外には?)誰にもわからないのだけれど、ひとまずそれは、1960年代(あるいはそれ以前)から子供たちのあいだに連綿と受け継がれてきたひとつの恋占い遊びと同じ名前をもっていることになる。
「アキストゼネコ」とは、約25〜35年前の子供達(特に女の子)の中でブームを巻き起こした恋占いだそう。
ア 愛してる
キ 嫌い
ス 好き
ト 友達
ゼ 絶交
ネ 熱中
コ 恋人占い方はまだ知らない。これから勉強しなくては。なんか「友達」ってのが一番切ないな…。
宇宙 日本 柴田: あの夏から、アキストゼネコへ。
柴田君のこのブログの記述を読み、すっかり忘れていたその遊びのことを思い出して、ついつい占い方を調べてしまったことはこちらの記事[「あきすとぜねこ」と子どもの自由さ]に書いた。かなり丁寧に書いたので、遊びとしての「あきすとぜねこ」そのものについてはそちらを先に参照していただきたいが、ふと、この「あきすとぜねこ」という遊びのあり方を考えることによって、比喩的にであれ、チェリーブロッサムハイスクールのことを語れるのではないかと考えたのだった。
■それはあまりにアクロバティックで、じっさい「とんちんかんなことを言う」結果に終わる可能性は大きいものの、その危険ももとより覚悟のうえで、まずは遊びとしての「あきすとぜねこ」の魅力に付き添ってみよう。
■「あきすとぜねこ」が──というよりも、それを含む〈子供の遊び〉が──魅力的であるのは、なによりもまずそれがつぎはぎだらけであることに因るだろう。さまざまに証言のあるそのルールを見ればあきらかなように、「あきすとぜねこ」は他の多くの遊びとの連関のなかにあって、ヴァリアントのヴァリアントを辿っていけばいつしか別の遊びに姿を変えているといったように、無数にひろがる〈遊び〉の網の目のなかに浮かぶひとつの結節点として「あきすとぜねこ」はある。そもそもの発生を想像するに、おそらくその系譜のもとに位置しているのは花占いの、「好き、きらい、好き…」という単純な二分法だったと思われ、そこに子供たちは「好き/きらい」以外のさまざまな要素を付け足し、いわば借り物の語彙でもって自由に「恋愛」を微分していったのではないかと思われる。
■そこに動員される要素はあくまでいびつであり、また〈間に合わせ〉であって、いわば「何でもよかった」というその意味で、その子供たちの手つきは〈ブリコラージュ〉になっている。「恋愛」を微分するといっても、それはけっして「とても好き/好き/ふつう/きらい/とてもきらい」というような要素に、合理的・計画的に等分されることはない。「あきすとぜねこ」が〈ブリコラージュ〉であるとするならば、「とても好き/好き/…」のほうは(これもレヴィ=ストロースの言葉にすれば)〈エンジニアの仕事〉になるだろう。前者で用いられる要素が「断片」であり「記号」だとすれば、後者が使うのは「部品」であり「概念」である。
レヴィ=ストロースは、具体の科学としての神話的思考を「ブリコラージュ」にたとえている。ブリコラージュは、器用仕事とか寄せ集め細工などと訳されているが、限られた持ち合わせの雑多な材料と道具を間に合わせで使って、目下の状況で必要なものを作ることを指している。それらの材料や道具は、設計図にしたがって計画的に作られたものではなく、たいていは以前の仕事の残りものとか、そのうち何かの役に立つかもしれないと思って取って置いたものや、偶然に与えられたものなど、本来の目的や用途とは無関係に集められたものであるため、ブリコルール(ブリコラージュする人)は、それらの形や素材などのさまざまなレヴェルでの細かい差異を利用して、本来の目的や用途とは別の目的や用途のために流用することになる。
(略)
つまり、エンジニアが、全体的な計画としての設計図に即して考案された、機能や用途が一義的に決められている「部品」を用いるのに対して、ブリコルールは、もとの計画から引き剥がされて一義的に決められた機能を失い、「まだなにかの役に立つ」という原則によって集められた「断片」を、そのときどきの状況的な目的に応じて用いる。
「断片」も「部品」も、全体のなかの部分であることに変わりがないが、部品は、たとえたまたま全体から離れていても、つねに帰属すべき場所をもち、その本来的な場所に組み込まれると、ジグソー・パズルのピースのように、それを囲む境界は消えてほとんど透明になってしまう。(略)
ブリコラージュにおいては、ある材料を特定の用途に使用しても、その独自の感性的性質や来歴を隠さないため、その材料は、全体のなかでちぐはぐな異物として、その独自性や異質性を保持しつづける。たとえば、もとは樽の一部だったオーク材の木片は、長さの足りない板の埋め木にも使えるし、そうでなければ「まだなにかに使えるもの」として雑多なストックに付け加えられるだろう。それらの可能性は、「材料それぞれ独自の歴史によって、またそのもとの用途の名残りないしはその後の転用からくる変換によって限定されている」が、転用された木片は、もとは樽だったという独自の歴史を主張すると同時に、まだ別の用途にも使えることを主張しつづけるのである。
小田亮『レヴィ=ストロース入門』(ちくま新書)、p.135-139
■話ここにいたってようやく、この多少乱暴な「あきすとぜねこ」論がどこへ向かおうとしているのか理解された向きもあるかもしれず、そう、つまり私が舞台に期待するものもまた、究極的にはそうした〈ブリコラージュ〉であるわけだが、その話の前にもう少しだけ、「あきすとぜねこ」につき合うことにしよう。
■「とても好き/好き/…」のほうから要素のひとつが抜け、たとえば「とても好き/??/ふつう/きらい/とてもきらい」という体系があったとき、そこに収まるものは基本的に「好き」以外にはない。それに対し、「あきすとぜねこ」の場合、要素の代替となるのはおそらく「う=運命」でも「は=ハート」でもかまわなかったはずだし、ことによったら「げ=ゲロ」でもよかったのかもしれないと思わせるほどに、それは「何でもよかった」。そして、そうして用いられる要素/断片/記号は、「何(誰)でもよかった」というまさにそのことによって、逆説的ながら、「個の代替不可能性」を帯びることになる。
個のかけがえのなさ=代替不可能性は、個の役割や個性や能力といった比較可能で代替可能な属性(たとえナンバーワンでも、例えば「世界一のパティシエ」という役割や能力ももちろん代替可能なものです)とは無関係に(かつそれらの属性をもすべて含めて)、存在することそのものを肯定することです。
戦略的本質主義を乗り越えるには(2) - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」
たとえば「芝居がうまい」という属性/役割/機能でもってその舞台に起用されている役者があるとすれば、しかしその役者はけっして、その「うまさ」でもって他の役者と代替不可能なのではなく、その意味では他の「うまい役者」でも代替が可能な存在ということになる。そして、まさにその「根源的な代替可能性」(=誰でもよかった/私が彼であったかもしれなかった)という事実のうえにこそ、「にもかかわらず彼(/私)だった」という「個の代替不可能性」は生じるのである。
■むろん、チェリーブロッサムハイスクールの舞台がブリコラージュのみで成り立っているというわけではない(言い添えておけば、そもそもすべてのことがらにおいて、「ブリコラージュのみで成り立つ」ことも、「エンジニアの仕事のみで成り立つ」こともきっとありえないだろう)。むしろ、エンターテイメント性の強い〈謎〉を設定し、そこへ向かうプロットの推進力で動いていく印象の強いその舞台においては、設計図がきっちりと用意された、エンジニアの仕事のほうが想起されやすいかもしれない。けれど、そうした舞台にあっても、ブリコラージュが姿をあらわす瞬間はあり、その瞬間にこそ、「個の代替不可能性」もまた顔(まさに「顔」!)をみせるにちがいないと私には思われる。
■ところで、チェリーブロッサムハイスクールの作品には、つねに〈子供〉が抱え込まれている。〈子供〉はつねに重要なキーワードとなっていて、いわば、登場人物たちはみな〈子供〉だとも言える。もちろん本物の子供が登場するわけではなく(ためしに、その舞台に本物の子供が登場することを想像してみれば、その子らは登場人物たちと親和性をもつどころか、おそらく完全な他者としてそこに存在することになるだろう)、そこにいるのは大人なのだが、彼/彼女らはあくまで〈大人 − 子供〉という対比関係のなかにいて、失われたものとしての〈子供/記憶〉を抱え、それによって逆照射される者たちである。よく言われるように、〈子供〉が近代において「発見」されたものだとすれば(近代以前には、いわば「小さな大人」しか存在しなかった)、その意味でもチェリーブロッサムハイスクールは近代的であると言えるだろう[※1]。
■『その夏、13月』において、〈大人 − 子供〉といういわば擬似的な対比関係における〈大人〉を担うのは、岩崎(正寛)さん演じる「近藤」である。劇中、月に一回開かれる作品プレゼンテーションの場が「ピクニック」と称されるのは、そこにおいて近藤が擬似的な〈父〉になるためでもあるだろう[※2]。しかし、その近藤もまた、じつは「アートディレクター」にすぎず、〈子〉たる他のアーティストと同様の存在──作品を欲望する者──であることは、最後にあきらかにされるとおりである(構造は入れ子になっていて、近藤は〈子〉たるアーティストたちによって逆照射される者である)。
- ※1:「〈子供〉が近代において「発見」された」
フィリップ・アリエス『〈子供〉の誕生』(みすず書房)。これを批判したものにはL. A. ポロク『忘れられた子どもたち—1500〜1900年の親子関係』(勁草書房)など。
- ※2:「擬似的な〈父〉」
付言すれば、そこには〈母〉の不在も見て取れる。女性参加者には明確な「脱落」事由として妊娠が規定されているが、つまりアパート内では母になることが許されていない。
■舞台上には大人も子供もおらず、ただ、〈大人 − 子供〉という仮構された関係のなかを生きる者らがいる。不幸でありながらも安定したその世界に危機をもたらす者がいるとすれば、その者は〈子供そのもの〉か、あるいは〈大人そのもの〉として現れるだろう。『その夏、13月』における〈子供そのもの〉──それがつまり、柴田君の演じたパントマイマー、「高橋」である。帰国子女で日本語をあまり話せない高橋は、「何もやっていないというパントマイム」を行うことで近藤の逆鱗に触れ、プロジェクトから「脱落」、アパートを放逐される。
- 高橋
- 近藤はアートをわかってない。
- サカモト
- 呼び捨てはあかんて。
- 高橋
- パントマイムは…。無いものをあるように見せるのではなく、そこに無いということを忘れます。
- 近藤
- 意味が分からない。
- 高橋
- object…対象物に対する記憶を、無くす。無くします?
- サカモト
- ゆっくりでええよ。
- 高橋
- 僕はうごかないけど、うごかないけど…。
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/ 6 Jul. 2008 (Sun.) 「六月のなごりとともに」
■七月である。田中夢がそのブログに、
[チェリーブロッサムハイスクールの舞台を観たあと──引用者]知っている人に会うのが恥ずかしいほど、どうでもいい格好でぼんやりしていたからさっさと帰った。メールチェックしたら「もっと君の作品が見たい」と友達からあったのと、役者さんの熱気がまだ体にまとわりついたのでドキドキしていたけど、外に出たら暗いしっとりした空気だったのでどうにかして拭ってくれないかと伊勢丹前を跳ぶように走った。
季節はこんな時期がいい。
初夏。: 田中夢のメンペモ
と書く七月だ(「季節はこんな時期がいい」は、『ニュータウン入口』で田中さんが演じた「オブシディアン」のセリフ)。さらにその前日の記事には、「掌七つくらいの大きな葉。朝日を浴びて」とちぎれた短歌のような(「掌」を「たなごころ」と読ませればちょうど五七五七である)言葉が添えられた、うっすらとそれもまた詩のようなスナップを載せ、
気が付いたら7月になっていた。夏のような陽射し。木々の葉が水をたっぷり含んで繁ってゆく。
七月。: 田中夢のメンペモ
と書く田中夢だが、ちょうどこの日、用事があって昼すぎに電話したら寝ていたらしく、長い長い呼び出し音のあとに「寝てた」の第一声ではじまる、ひどくぼんやりとした会話を交わしたのが私で、だからその数時間後に更新されたそれを読み、思わず「何言ってやがんでい」と笑ったとか笑わなかったとか。
■というわけで、六月の終わりからの記録を。あ、その前にまずは前回(6月24日)の日記の訂正とお詫び。古今亭志ん五師匠が先の独演会でネタ下ろししたという噺を「宿屋の富」と書いてアップしてましたが、これはまったくうっかりで「宿屋の仇討」の間違い(「宿屋の富」は以前から演ってます)。失礼しました。
○ 6月27日(金)
家の無線LANの構成を変更/整理する。新たに買ったのはTime Capsule(802.11n)で、これといままでのAirMac Extreme(802.11g)を組み合わせつつ、802.11nの恩恵をなるべく受けようという作戦である。で、たしかに快適なのだった。この件の詳しいことはこちらの記事[Time Capsuleと旧AirMac Extremeでデュアルバンド—802.11nと802.11gとの両立]に書いた。
○ 6月28日(土)
昼、柴田(雄平)君が主宰するチェリーブロッサムハイスクールの第四回公演『その夏、13月』。チェリーブロッサムハイスクールは第一回公演『酸素』以来で二度目。あいだの二作品を見逃しているわけだが、その志向性のようなものにおいて『酸素』から一貫、ぶれのない作と演出を重ねていると感じる。空想科学ポップ。というのはいま、たまたまぽんと出てきた言葉だからちょっと無闇無鉄砲な謂いだが、うーん、そんな感じかな。空想土着ポップか。「科学」と「土着」が入れ替え可能なところがさすが万博世代(「つくば」だけど)でウルトラ世代(「80」だけど)。って、なんだかわからないけど。舞台上のみどころもまた私にとってはその作と演出のふたりで、演出を兼ねるという事情からかいわば「ちょい役」に近い柴田君だが、しかし役者としての彼の居ずまいが私と舞台とをつなぎ留めてくれるのもたしかなのだし、また、他の登場人物からは物語上でただひとりの「ふつうのひと」とされ登場する小栗剛君(作も担当)が、しかし見るからにいちばんふつうでないのもたしかだ。上演台本も買ったことだしもっと念入りな感想を書きたい思いもあるが、まあ、それはまたあとで。
夜は、プリセタの第十回記念公演『ランナウェイ』。終演後、みんなと飲む。『125日間彷徨』に出ていた細江(祐子)さんも観に来ていて、その席ではもっぱら彼女としゃべっていた。『125日間彷徨』の感想を書いた日記に「細江祐子すげえかわいい」と書いたことでひどくよろこばれる。あの長い長い、われながら周到な文章のなかで「結局そこかよ」という気がしないでもないが、ま、そりゃそうか。で、私は、そのとき読んでいた『構造主義のパラドクス—野生の形而上学のために』など持ち出し、「〈一〉者へと回収される二元論ではなく、そもそものはじめから〈二〉者であり、どこまでも〈二〉を保持しつづける二項対立を」といったことをいっしょうけんめい説明していた。いかがなものかと思う。
○ 6月29日(日)
吉祥寺で田中夢と会い、『不思議の国とアリス』の字幕翻訳に関する打ち合わせ。話はいつしかパソコン購入相談へと展開するのだったが、なかなか現実味を帯びるにはいたらない。終わっていっしょにヨドバシカメラへ行ったのはパソコンではなく、DVDプレーヤーを買わせるため(つい先日までは同居していた弟のプレステでDVDが再生できていたが、弟が引っ越したためDVDの見られない生活に戻っていた)。田中夢、まんまと購入。
○ 7月3日(木)
何かあったはずだが思い出せないので数日飛ばす。
この日は「ロト6」ってやつを買ったのだった。みずほ銀行のATMで購入できることを知り、数字は機械に決めさせて、5口・1,000円分を買う。買ったのが夕方、そのあとで気づいたがロト6は「毎週木曜日抽選」で、ほどなくその週の抽選があり、数時間後にはウェブ上に当選番号が出ていた。見ると「5等」が当選(6つの数字のうち3つが合致)していて、「5等」の賞金は1,000円である。なんだこの充足した気分は。
「夏句会」をやろうかとふと思う。8月か9月だ。友人で、われわれの「句会」の共同主宰者である吉沼にメールをし、そのなかで「何も考えずに言うけど、海でやろうか」と書いたところ、「おっいいねー」とのってくる吉沼だ。「ただ、句会の最中は泳ぎとか禁止にしないと駄目だと思う」と吉沼。ま、それはともかく、今回は田中夢や細江さんなども誘ってみよう。3日から4日へかけては会社に泊まる。
○ 7月4日(金)
あれ以来ひきつづき、田中夢にパソコンとネット環境をもたせようと画策する私で、なるべく話を具体化し、事態の展開をうながそうということから彼女にはまず先にインターネット回線のことを考えさせていた。はじめ「電話はある」と言っていたのでそれを素直に受け取り、適当なADSLサービス(イーモバイルのそれとか)を見繕って費用の試算など伝えていたが、導入する方向で意志が固まりかかり、では念のためサービス提供エリアであるかどうかを調べようと家の電話番号をたずねたところ、「番号はわからないので大家さんに訊いてみる」と答えが返ってきた。自分で固定電話をもったことがない田中夢は「電話加入権」とか、そのへんの仕組みを理解しておらず、部屋にモジュラージャックがあることをもって「電話はある」と言っていたのだった。あわてて作戦を組み直す。
○ 7月5日(土)
午後、早稲田大学へ。「表象文化論学会第3回大会」なるものがあり、その第一部のシンポジウムに古井由吉さんが出るというので行く。吉沼も来ていて、いっしょに聴く。第二部として川上未映子さんらによるライブもあるせいか、あやうく入場できないほどの入りだった。第一部が終わって吉沼と立ち話をしていると、たまさか白水社のWさんに会う。その後、吉沼とまた「句会」の相談などしていたが、私はかなり上の空になっていて、吉沼を残し第一部だけで帰る。
家の台所には大きめのゴキブリが一匹姿を見せ、妻はにわかにどんよりする。
○ 7月6日(日)
午後、病院に見舞いへ。家でどんよりしている妻のため、土産に『セクシーボイスアンドロボ』のDVDボックスなど買って帰る。きのう今日と暑い。