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Apr.
2009
Yellow

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/ 15 Apr. 2009 (Wed.) 「シャーリーはサントラも聴こう」

本文とはまったく関係ないものの、知人宅の猫である。

いっぽう、ゴミ箱から出てきたところなのはわが家のロビン。ポシュテに開けてもらい入っていたのだった。

『シャーリーの好色人生と転落人生』は劇場にてサウンドトラックも販売中だ。いいのでぜひ買って聴こう。わたしはいま日々聴いている。今月はシャーリーのおかげでとんだ散財である。
12日(日)は昼間、ひきつづき営業マンを玄関先に招いて「オール電化」についての相談。基本的にはあれです、導入する気でいるのです。
「地球環境と大気汚染を考える全国市民会議(CASA)」というNGO団体がとりまとめた「環境面からみたオール電化問題に関する提言(最終報告)」[PDF]という報告書があり、それを読むと、オール電化が必ずしも環境によいわけではないことがわかって興味深い。その指摘はなかなか手厳しいが、導入する身だからこそあらかじめ読んでおきたい内容でもある。なにしろ「オール電化問題」だしさ。いつのまにそんな「問題」がって話ですよ。なお、報告書がそこで「オール電化問題」と呼んで対象とするのは、あくまで「全てのエネルギーを電気でまかなう」という意味でのオール電化であり、太陽光発電の要素はそこに含まれていない。A4で52ページにおよぶその報告書の主張をわたしなりにかいつまめば、

  • とにかく(ヒートポンプ式でない)電気温水器は最悪。これを使うのでも「オール電化」と呼ぶならば、断じて「オール電化が環境にいい」とは謳うな。
  • それ以外の機器でも、性能や使用条件により環境負荷は増えることがあり、うまくいってもガスとどっこいどっこい程度である。
  • ガスと電気とでエネルギー効率を比較するさい、発電効率のことを忘れてはならない。火力発電の場合、そもそも発電所内の段階で60%ものエネルギーロスがある。火力発電所からのトータルで考えれば、一般にガスのほうがCO2排出量は少ない。また、原子力が「クリーン」だとはいったいどの口が言うのか。
  • つまりだから、「火」を目に見えるところから追いやってそれで安心するのはまちがいであり、逆効果ですらある。
  • いま現在オール電化を導入することで電気代が安くなるのは、たんに電力会社の単価操作による結果であり、光熱費が安いことは環境負荷が小さいこととイコールではない。光熱費が減っても使用量が減らなければ(環境面においては)意味がない。
  • つまりだから、オール電化だろうがなんだろうが、基本はこまめに消すことである。オール電化導入家庭が利用する「おトクな料金体系」(東京電力の「電気上手」など)の場合、そうしたこまめな省エネ行動が金銭的メリットとして現れにくいということもある。
  • 本来、市民にはエネルギー選択権とでもいうべき自由がある。

といったことがあるわけだが、まあ、「オール電化問題」を読み解くなかでなにより気持ちわるく感じられるのは、「知らずにオール電化の流れに乗ることで、原子力エネルギーの推進という流れにも絡めとられていきそうな気配がある」ことだろう。そこんところはね、つよく意識的でなければならないだろう。
というわけで、オール電化をやるんだったらどうしたって太陽光発電こそが肝だってことにはなる。で、それが高いんだけどね。月賦で細々やってきますよ。

12日の夜は遊園地再生事業団の月例ミーティング。リーディング公演の会場をどこにするかという話や、助成金の話、主要なスタッフにはそろそろ声をかけておかないとといった話など。あと、これまで漠然と「オーディション」というふうにしてあった部分について、どうせだったら「ワークショップ」というかたちをとったほうがより意義を生むのではないかという話が出る。宮沢(章夫)さんの開くワークショップだけでなく、同じ場所で、ミーティングメンバーがそれぞれにワークショップを催せばいいのじゃないかとアイデアは膨んで、「じゃあ、俺は焼きそばを焼こう」「わたしはクレープ屋」といったふうに白熱した議論が交わされたが、それ、あれだね、文化祭だね。文化祭はたのしいものの。念のため言い添えておきますが、もろもろ未定。少しずつ前へ。
13日(月)は夜、プリセタの『モノガタリ デ アムール』を観る。岸(建太朗)さん、足立(智充)君らが観に来ていた。あと、冨永(昌敬)君も。きのうも来ていたといい、終演後『シャーリー』のチケットを売りさばくのに忙しい冨永君である。わたしも、3枚目のチケットを冨永君から買った(『モノガタリ デ アムール』には、映画で「シャーリー」を演じる福津屋兼蔵君と、「小下田守」役の戸田昌宏さんが出ている)。深夜、宮沢さんから携帯に着信、MacBookが壊れて云々という話だが、それについては宮沢さんの「富士日記 2.1」(4月13日付)に詳しい。

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14日(火)はなんといってもこの事故である(asahi.comではこの記事この記事など)

 東京都千代田区麹町4丁目のマンション新築工事現場で14日午前11時10分ごろ、作業中の大型クレーン車が横転し、現場脇の国道20号(新宿通り)の道路上に倒れた。東京消防庁によると、トラック1台と歩行者がクレーンの下敷きになり、6人がけが。このうち歩行者の女性(62)とクレーンを操作していた男性が重体という。警視庁が詳しい事故原因を調べている。
(cache) asahi.com(朝日新聞社):クレーン転倒、車・歩行者下敷き 2人重体 東京・麹町 - 社会

というこの事故だが、事故の起きた工事現場の、隣の隣のビルにわたしの職場があるのだった。11時すぎのことなのでもちろん同僚らは職場でその地響きを聞いたが、わたしはその朝、大きく出社が遅れ、ちょうどその事故の直後に会社に着いたのだった。聞けば、クレーンが倒れたのはわたしの着くほんの数分前のことだったらしい。ことによったらあぶなかった。その朝わたしは寝坊し、乗った中央線を神田まで乗り過ごして四ツ谷に戻り、そうだというのに四ツ谷駅を降りてからつい誘惑に負け、会社へ行く途中「カフェ・ド・クリエ」でコーヒーを飲んだのだが、いったい何をしているのだわたしは。そのうちのどれかひとつが欠けてもわたしは無事でなかったかもしれない。って、遅刻しないで、定時(10時)に会社に着いていても無事だったわけですけどね。

本日の参照画像
(2009年4月17日 20:26)

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/ 11 Apr. 2009 (Sat.) 「『シャーリーの好色人生と転落人生』を観る」

ある朝。

猫は陽を浴びて。

クイックルワイパーと猫。

昼間は、いわゆる「オール電化」(エコキュート + IH + 太陽光発電)についての営業マンが家に来て、玄関でその(ある種啓蒙的な)説明をじつに二時間も聞いていたのだったが、その話はまた後日書こう。
夜、池袋のシネマ・ロサへ。佐藤央・冨永昌敬両監督の『シャーリーの好色人生と転落人生』初日である。宮沢(章夫)さん、笠木(泉)さんも来ていて、横に並んでいっしょに観る。
なにしろ初日を迎えたばかりだし、あまり詳細に感想を書くのもはばかられるが、まあ、興をそがない程度になにか書いておきたいと思うのは、つまりよかったからだ。言っておくがわたしはいま、ひょっとして俺三回観てしまうのではないかという静かな興奮とともにある者である。(チケットはもう一枚買ってあって、それはむろん冨永 × 笠木 × 宮沢のアフタートークのある回に使うつもりだが、ひょっとしてさらにもう一回観てしまうだろうかと考えている。)
例の「二本立て」という趣向だが、名画座のいわゆる二本立てとは異なり、あらかじめ二本立てとしてセット上映されることを前提に設計された二本であるから、じっしつ一本の映画に近いものでもある。『好色人生』の終了後、いったんその分のエンドクレジットが流れてひと区切りあるものの、休憩はなくすぐに『転落人生』がはじまる。とはいえ両者はやはり、両監督(と、両撮影監督)の質のちがいによって決定的に異なる作品でもあって、ただ、構成的に『転落人生』のほうが全体の〈枠〉として機能するよう仕組まれているために、両者の断絶が深ければ深いほど、あの無意味に感動的なラストシーンが獲得する視座もすぐれて射程の長いものになるという、まあだからその、つまるところくやしいほどに冨永君の「作戦勝ち」なのだった。二本立てのうちの一本である『転落人生』は、その内部にまた二層の物語時間を抱えていて、ただしく並び直せば、その二層の時間が『好色人生』の時間を挟んでいるというかっこうになる。だから、二本立てであることも要素のひとつとして、そもそも作品はそれ以上に「多層的」であり、その多層性は、三年におよぶ長い制作期間における何度かの企画変更と、それにともなう半ば場当たり的な撮り足しという、それら自主制作映画のある種の「贅沢さ」と有機的にむすびつくことによって、じつに幸福な奥行きを作品に与えているように思える。
ま、複雑っちゃ複雑。でも、「もっと放り出される」のかと思って途中まで観ていた身としては、思いのほかきちんと説明してるじゃないかという印象でもある。「説明」だの「作戦勝ち」だの、そう書くとなにやら〈理知にまさった〉映画であるかのようだが、けっしてそんなこともないというのは、それら「説明」が、もっぱら画面によってなされるからだ。笠木さん演ずる波子のあの厖大な説明ぜりふ(けっしてナレーションではない)はおそらく、波子を捉えるキャメラの力によっても支えられているだろう。月永(雄太)君ばんざいである。あと、「説明」がなされ、謎が明かされたところでけっきょく「意味」が立ち上がるわけでもなく、それによって浮かびあがる謎の答え(物語の全体像)が、まったくもって「だからどうした」というような空虚なものであるということもまた、すぐれた手捌きである。
ま、このぐらい褒めとけばいいか。擬似方言の試みなどについてはまたの機会に。会場は満員でこそなかったがなかなかの盛況。これから尻上がりに動員を増やしていくにきまっているから、ぜひ、早めに観に行っておこう。

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初日の打ち上げに笠木さんと少しだけ参加。公式ブログ用に、当日集まったキャスト陣と監督で一枚撮ろうとプロデューサーの直井(卓俊)君が提案したはいいものの、直井君のデジカメがなぜかうまく動かず、わたしのカメラで撮影。そのときの一枚はすでに公式ブログに載っているが、こちらはべつの一枚。手前で「照明」を調節しようとしているのがさすがの撮影監督、月永君である。

本日の参照画像
(2009年4月13日 13:38)

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/ 9 Apr. 2009 (Thu.) 「街的であることと、あらかじめ遅れてきた人であるわたし」

昨晩『シャーリーの好色人生と転落人生』の公開記念ライブきのうの日記を参照ください)に行ってしまったことも手伝って、きのうからきょうにかけては会社に一泊し仕事をする。
そうそう、これを予約した。

◎JUNKUトークセッション:廣瀬純×青山真治「運動と映画──『闘争のアサンブレア』をめぐって」

日時:2009年5月16日(土)18:30~
会場:ジュンク堂書店新宿店8階喫茶コーナーにて。
料金:1,000円(1ドリンクつき)
定員:50名
受付:7Fカウンターにて。電話予約も承ります。TEL.03-5363-1300
ウラゲツ☆ブログ : トークセッション「運動と映画」廣瀬純×青山真治

ふと気づくと上山君のサイトが更新(リニューアル?)されていた。恭子ちゃん(上山夫人)が日記の主戦場をmixiに移したとかで、上山君の日記だけが載る体裁にかわり、新しい日記がふたつアップされている。ところでその日記の日付で、曜日がずれている(7日(月) 、8日(火)となっている)のはあれか、いま上山君が中国にいるからか。ん? あれ? そんなことはないか。
その8日付の日記のなかで上山君は、「街的」なる概念を話題にしている。ちょっと長いが、「こちらを参照ください」などとリンクを張ってもどうせクリックしてくれない読者(妻など)のために引用しておくと、こうした話である。

 唐突だがひとつ紹介しておきたいブログがあって、それは桃知利男という(個人的にはまったく面識がない)方の、名前はそのまんま「モモログ」というブログなのであるが、このひとは浅草という場所を足場にしてひたすら「街的なるもの」を擁護、保護、啓蒙宣伝、のべつくまなくしていて、この「街的」というのをかいつまんで説明するのがむずかしいのでなんとも困るのだが、要するに顔の見える関係の持つ不合理さを愛する、というかそれなくしては社会は営まれない、ということをレヴィー=ストロースや中沢新一や小田亮 や相馬君とはまた別の視点と語り口で説き続けていて、まあ、このブログを毎日読み続けていると、愛知のクルマ社会で感じる息苦しさの正体とか、中国で冷蔵庫をつくることの意味することとか、派遣切りを嘆きながらも百円ショップを利用してしまう矛盾やらがおぼろげながら見えてきて、同時にうちの会社が、会社の中だけで見ればとても「街的」であることに安寧を感じるから辞めるに辞めれなくなってしまい、でも少なくとも自分の立ち位置がクリアになっていく安心感を得ることはできたりして、とこのようにとにかく「街的」を説明しようとすると不合理で冗長でなんだか分からなくなるのが宿命なのだが、面白いから読んでみてとしか言いようがない。
 興味を持たれた方は、とりあえず大阪の岸和田を足場に「街的」を擁護する江弘毅との「浅草・岸和田往復書簡」あたりから読むのが入門としてはいいのではないかとは思うが、これも十分長く、分かりづらいけど、でも面白いから読んでみてとしか言いようがないのだ。そして「街的」の概念が通じ合うひとと私はお話がしたいのである。

 でまあ、紹介されている「浅草・岸和田往復書簡」をそのアタマから少し読む。上山君があらかじめ牽制しているようにけっしてわかりやすくはないその議論のなかで、おそらく理解の手がかり/足場となるだろうは「時間」という感覚じゃないかと思う。たとえば次のくだりは比較的わかりやすい。

さて、〈贈与〉と違って〈交換〉というのは貸借ナシですね。つまり、無時間モデルですね。だからそういう〈交換の原理〉にどっぷり浸った奴らは、「いま、ここ」で最大のリターンを得ようとする。こういういうのは、こちらでは「百年早いわい」と言われます。まことにさもしい。しかしミシュラン東京版に群がる人はこれを求めますね。そして「いま、ここ」で「1万円」出して、それ相応のものが食えないと、ぶちくさ文句を抜かす人のことを「消費者」といいます。街で「食べる、飲む」ことについては、子どもですね。だからどこでも同じメニューで、加えて「スマイル0円」とメニューに書いてあるマクドナルドを「リーズナブルだ」と思う。

マクドナルドは「安い」。それで良いのだと思うのです。
〈食〉にリーズナブルを求めてしまうのはあきませんね。地元・大阪下町のうどんや鮨、お好み焼きがほんまに旨いと思うのは、オープンキッチンやカウンターを挟んで、出す方の「これでどや」、食べる方の「よっしゃ」のコミュニケーションそのもので、そのコミュニケーションとは「交換」の原理じゃないということです。じゃんけんのように、同時に「せーの」で双方から何かが出され、それで優劣や強弱、勝った負けたを計るものではない。必ず時間的な線形にやりとりがずれる。[太字強調は引用者]
140B劇場-浅草・岸和田往復書簡|食べ物に、店にリーズナブルなんかあるかいな街場の店を消費することはできない。

 この、〈線形的な時間〉の存在をたえず意識することができるかどうかということが、さらに後段で語られる、

つまり、いつも「わたしは、あらかじめ遅れて来た人」なのだと思えるのかどうか
同上

ということにもつながってくるだろう。「街的」であることの実践においてはおそらく、この〈つねにあらかじめ遅れてきた存在であるわたし〉という認識がきわめて重要な位置を占めるのではないかと思われ、そして、それはむずかしいことであるのと同時に、とてもわかりやすい指針であるようにも思える。
読んでいて思ったことはもうひとつ、

とにかく「街的」を説明しようとすると不合理で冗長でなんだか分からなくなるのが宿命なのだが

と上山君が象徴的に書いていることについてだ。それを理路整然と語れないのは、むろん「街的」という概念そのものが一筋縄ではいかないということがひとつにはあるだろうし、語る側(上山君やわたし)がまだそれを充分には見通せていないということもそうだろうけれど、一方で、その説明がやけに不合理さを含んだり、やけに冗長になったりするのはたんに、その(たとえば往復書簡の桃知さんや江さん、あるいはわれわれの)「語り口」に起因する部分が大きいようにも思え、と同時にしかし、「街的」であらんとするならばその「語り口」を否定することはできないのであり、厄介だなあとは思いつつも付き合わなければならない──だって、目の前にいるその人はそういう人なのだから──のであって、その意味で、まさに「街的」は宿命的に不合理なのではないかと思えるのだった。
わたしはいま一軒家に住まっていることもあり、町内会というやつに一応入っているのだが、先日回覧板で回ってきたのはその「定期総会のお知らせ」である。町内会の組織はさらにエリアごとにいくつかの「部」にわかれ、「部」のなかにさらに「組」があるのだが、そういえば、一年ごとの持ち回りであるところの「組長」の役目が、今年度はうちに回ってくるんじゃなかったかということをそのお知らせを読みながら思い出したのだった。もうここはひとつ、「委任状」など出していないでその定期総会にも出てやろうかとさえ思ったのだが、ついいましがた知ったのはその日(19日)、シネマ・ロサでは冨永(昌敬)君、笠木(泉)さん、宮沢(章夫)さんによるアフタートークのイベントがあるということで、それともろにかぶるのだった。ああ、悩ましいな。

(2009年4月11日 18:44)

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/ 8 Apr. 2009 (Wed.) 「好色唄合戦と転落音図かん」

イベントチラシ。

埋火のセカンドアルバム『わたしのふね』。iTMS での購入はこちら。埋火(うずみび) - わたしのふね

PoPoyansのファーストアルバム『祝日』(Produced by 鈴木惣一朗)。iTMS での購入はこちら。PoPoyans - 祝日

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冨永(昌敬)監督の新作『シャーリーの好色人生と転落人生』が公開間近である。きょうはその公開記念ライブ(「好色唄合戦と転落音図かん」)が、シネマ・ロサと同じビルの地下にあるライブハウスで開かれ、夜、会社をいったん抜けて見に行ってきた。
暗くてわかりにくいかと思うが、右が冨永監督だ。会うとだいたいまず握手を求めてくる。手が分厚いのだった。この握手はことによって威嚇なのではないかというほどの分厚さである。写真はイベント終了後に声をかけたときのもので、監督の胸に貼られているチラシは、さらに『シャーリー』のあと、秋に公開が控えている『パンドラの匣』の〈フライング〉告知。うしろのスクリーンには今作の前身となる『シャーリー・テンプル・ジャポン』が延々と流されていた。
ライブは1組目が「埋火(うずみび)」、2組目が「相対性理論」で、トリは渡邊琢磨 (COMBO PIANO) × 七尾旅人 × 外山明 × cheru (PoPoyans) という今宵かぎりの特別編成バンド。誰も彼もわたしははじめて聴く。「相対性理論がいますごい人気だ」というのは、なんだかわかるような気がした。何でも既知のものに喩えればいいってもんではまったくないものの、途中でふとなんとなく、これってわりとミカバンドなんじゃないかと思ったのだった。いや、ごめんなさい適当なこと言ってますが。埋火もまたよかった。会社に戻ってから、iTunes Music Store でアルバム『わたしのふね』を買う。あと、PoPoyansの『祝日』も買った(これ、鈴木惣一朗さんがプロデュースしてて、PoPoyansはWorld Standardにもコーラスで参加しているんだね、なるほど)
トリをつとめた四人の方々をわたしはほとんど存じ上げないが、まあその、しみじみよかったわけだ。ピアノとドラムによる丁々発止のセッションではじまって、そこにふたとおりの透明な声が加わる。ひととおりのリハーサルはむろんあったにせよ、その場、相手の出方によって次に出す音が変わり、あるいは出さないという選択も可能であるような──たとえば外山さんは途中ドラムを叩くのをやめ、他のメンバーのセッションに聴き入ったり、声に出して笑い、ただ成り行きを見守ったりしていたが──、そのはげしく自由で自在なステージが絶えず客席をリズムに沈めて、そして、まもなく産声をあげる映画のその誕生をたしかに予祝していたという幸福な時間。ラストから二曲目だったろうか、PoPoyansの曲である「おとしもの」がはじまるところで、自分の仕事が済んだのだろうか冨永君が、「すいません、すいません」と客の波を分け入り、最前列手前まで進んでいった。そして聴いている。ZIMAか何かのお酒を抱えてステージを見つめる冨永君の横顔のほうを見つめながら、わたしは「おとしもの」を聴いていたと思ってもらいたい。

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映画『シャーリーの好色人生と転落人生』は、11日土曜より池袋シネマ・ロサにてレイトショー(20時30分〜)。『好色人生』(佐藤央監督、44分)と『転落人生』(冨永昌敬監督、66分)との2本立て上映というかたちだ。

思うに低予算映画の興行というのは、その作品の内容ばかりか興行の形態自体が実験的であることが宿命づけられているわけで、いい映画を撮りさえすれば自動的にお客さんが来てくれるわけじゃない。まあ、あくまで良質の作品であることが前提ですけれども、シリーズの続け方の試みとして、そのへんも見てもらいたいなと。だから「2本立て」になりました。
(『SPOTTED701 / VOL.9』の「冨永昌敬 × 佐藤央 インタビュー」より冨永君の発言)

と語る冨永君だが、また、ライブに先立って行われたきょうのトークのなかでは、「一本の映画の前半と後半をそれぞれべつの監督が撮ったと思ってもらえればいい」という説明の仕方をしていて、そうなると、つまり「リレー映画」という呼び名が浮かんだりもする。
作品のみどころとしてはほかに(って、いままだ観てないですけどわたし)、「擬似方言」という試みがなされていることが挙げられるだろう。この試みについては公式ブログでさまざまに言及されているが、なかで、冨永君が次のように書いていたのにはちょっと笑ってしまった。

この方言は僕のオリジナルというか、研究の成果と言ってもかまいませんけども、実際の全国各地の訛りをソースにしつつ、ありそうでない具合に捏造したものです。というのは、演じる俳優の誰にとっても身に覚えのないものにしなければ、その俳優の出身地方の如何によっては不必要なアドバンテージや望まれないハンディが生じるから。たとえば信州弁を複数の俳優が喋るさいに、長野出身の俳優が圧倒的に有利であるのは当然としても、そればかりか、ほかの俳優が即席の真実味/もっともらしさを得たいばっかりに、その長野県人の真似をすることに気をとられる恐れがありますね。それを未然に防ぎたかったわけです。[太字強調は引用者]
『シャーリーの好色人生と転落人生』 Official Blog : 197.見どころ1

 なんなんでしょうかこの無駄な〈フェアプレイ精神〉は。と思っていたら、きょうのトークのなかで、監督が「擬似方言」へとむかったそのおおもとの趣旨について、「自分の故郷でない場所で、さも自分の故郷であるかのように映画を撮りたかった」という発言があり、それはなんだかとても面白そうだと思ったのだった。
といったわけで、まあ、『シャーリーの好色人生と転落人生』をどうぞよろしく。

本日の参照画像
(2009年4月10日 20:58)

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/ 7 Apr. 2009 (Tue.) 「チェスが来た」

二つ折りの盤が駒の収納ケースを兼ねる。それを開けたところ。そして、なんだなんだと寄ってくる猫たち。

やっぱり手が出たかあ。

キングとクイーン、手前はポーン。

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注文してあったチェスが届く。写真はもう何枚か撮ったものがあるが、それらはこちらへ
チェスを覚えたい、とは思うのだ。その願望はこれまでも何度か頭をもたげ、妻が知っている(らしい)ので「教えて」と言うと、当然ながら「じゃ、まずチェスを買わなきゃ」という話になって、「そうだな」とすぐさま同意するものの、しかし毎度そこでうやむやになっていた。先日、東急ハンズに行く機会があり、その玩具売り場のチェスコーナーの前でまた願望が再燃する。ショーケースにいくつか展示されているもののなかから選んでその場で買ってしまおうかとも思い、携帯で妻と話して「買おうかと思うのだが」と相談までしたが、選んでいるうちにやがて「ところでハンズで選んでいいのか」という思いがわいて、けっきょく買わずに帰った。携帯で相談したときにすっかり妻がその気になってしまい、「買わなかった」と告げたらやけにがっかりされたのだった。といった流れから、今回はその晩のうちにすぐさまネットで検索、すぐに見つかった「チェス販売専門店のCheckmate Japan」というところで、「Family Wood Set」と名の付いたこれを買う。あと、同サイトにあった「対局時計」も買ったほうがいいのではないかとわたしは提案したが、「要らない」と妻。
ところで、まず覚えなければならないルールだが、妻のもっている知識もあやふやというか、中途半端なものであるらしいことがあらためて発覚した。学生時代に知人から教わったということのようだが、どうも、そのときにはごく基本的な動きしか教わらなかったらしい。Mac OS X には標準で「Chess」というシンプルなゲームソフトが入っているが、以前ひとりでそれをプレイしていた妻は、「コンピュータ側がわたしの知らない駒の動かし方をする。まねて同じように動かそうとするとそこへは打てないと言われる。コンピュータ強い。卑怯である」と不満を漏らしていた。というわけで、教本として、アマゾンのカスタマーレビューで入門書としての評価が高かった『はじめてのチェス基本ルールからチェックメイトのテクニックまで』を購入。チェスの駒のうち、見張り塔のようなかたちをしたそれを教本が「ルーク」と呼んでいることにいきなり「えっ!?」と声をあげる妻である。これは「キャッスル」だよと妻はいい、しかし日本チェス協会会長代行の渡井美代子さんが「ルーク」だと説明しているのだからと諭すと、「わたしが習ったのは〈英国式〉だからね」とよくわからないことを口にする。
ともあれチェスが来た。盤と駒とを、なんとしてもポシュテから守らねばならないのだった。

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「やはりチェスが気になる」といった案配のポシュテ。

本日の参照画像
(2009年4月 9日 11:17)

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/ 6 Apr. 2009 (Mon.) 「花見の詳しいこと」

深夜の立川駅。上を走るのは多摩モノレールの線路。

自転車置き場にて意味もなくシャッターを切る。

同じく自転車置き場にて。

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右は、しゃもじに付いたごはん粒をむしゃむしゃと食べるポシュテ。写真など撮っていないで止めたらどうなのかという状況は、報道カメラマンもかくやと思わせる緊迫感がただよう。
いま「富士日記 2.1」を見たら、5日の花見について「詳しくは、相馬のブログを読んでいただきたい」となっていて、このページへリンクが張られている。「写真もいろいろ載っているし」と、そのリンクが指し示している記事はきのうのそれ(ひとつ下)なわけだが、来訪された方に申し訳ないのはそれほど「詳しく」ないからで、ほぼ参加者の名前の羅列である。だから、出来事についてここにちょっとは詳しいことも書いておかなければならないのではないかと、わたしはいま焦っている。笠木さんがよくしゃべっていた。ってそれ、いつものことだけれども、なんだかいつもに増してずいぶんと慌ただしそうな空気もまとい、しゃべることで自分を保っているというふうにも感じられたというのは余計なお世話か。いっぽう、實光君はほとんどしゃべらなかった。声を嗄らしていたのかもしれない。嗄らしていたとすると、聞こえなかっただけで、ひょっとしたらしゃべっていたのかもしれない。飲み物・食べ物は各自持参というかたちだったが、黄木さんがもってきたのはプロ野球チップスだった。少しだけ遅れてきた宮沢さんからまずほっとさせる発言があったのは、おとといの日記にあった「もう二ヶ月苦しんでいる肘の痛み」というやつが、きのう、ふとなくなり、「がたがただ」と書いていた身体もやや復調しつつあるということである。何事もネットに書いてみるものである。今野君は、紫色の服を着ていた。佐藤さんと南波さんは夫婦。って、どんどん説明がくだらなくなっていくが、わたしはいま南波さんの日記を見、去る4月3日付のそれで結婚式記念日を祝ってもらっていることを知った者である。おっと、読んでなかったよ。ありがとうございます。南波ヒトサシユビ典子さんには何かとご足労をいただき、恐縮しています。
さてきょうは、風邪が完全に治りきっていなかったということもあったのだろうか、きのうのお酒(といってビールしか飲んでいないが)がまったく抜けてくれず、一日頭と肩が痛かった。

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左はロビン。何やらやけに年寄りめき、ぼやけた感じで写っているが、よく見ると、手前に長く伸びた眉の毛の一本にだけピントが合ってしまっているのだった。

本日の参照画像
(2009年4月 7日 13:12)

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/ 5 Apr. 2009 (Sun.) 「花見」

(拡大後の写真では)左から上村君、渕野さん、田中さん、佐藤さん、南波さん。

通りがかった散歩中の犬とふれあう鎮西さん。

左から實光君、田中さん、今野君、黄木さん。

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午後、世田谷にある北沢川緑道の、茶沢通りと交わるあたりで花見。宮沢(章夫)さんをはじめ、遊園地再生事業団関係の人たち──えーと、(きのう会った順に)田中夢、實光(崇浩)君、今野(裕一郎)、黄木(多美子)さん、上村(聡)君、佐藤(拓道)さん、南波(典子)さん笠木(泉)さん(鈴木)将一朗君、渕野(修平)さん、鎮西(猛)さん、齋藤(庸介)──が集まる。夕方、少し涼しくなってきたところで解散となり、その後、何人かが残って下北沢の居酒屋へ入る。そこへ途中から橋本(和加子)さんも合流。八時ちかくにお開き。
 ところで、きのうの日記に対し「VERYROLL」長谷川さんからコメントをもらったなかに、

LX3いいですね。綺麗にボケてくれそうです。買い換えの参考にしたいので、また写真のアップ、楽しみにしています。

とあって、ならばより参考になるようにと、きょうはパソコン取り込み後の補正処理を行わずにほぼ撮ったまま(Photoshopで縮小し、軽くアンシャープをかけただけ)のものを載せてみることにする。花見を撮った四枚はいずれも「おまかせiAモード」というやつで、ほとんど何も考えずにシャッターを押している。ただ、まったく残念なことにはこのときレンズに汚れが付いていて、そのことに気づかず撮っていた。四枚とも一様に一部が(たとえば右上の一枚では、奥の家の松の木から塀のあたりにかけて)白く靄がかかったようになっているが、それはレンズの汚れなのだった。

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花見にむかう前には、新宿に寄ってタスポを受け取る。「即日発行」可能なサービスセンターが南口にオープンしたというのをニュースで知り、物見遊山な態度でもって先週の金曜日に作りに行ったのだった。が、受付終了間際に飛び込んだところ、オープンしたての人気からか「受け渡しは明日以降になる」とのことで、その日は申込みだけして帰ることに。まず顔写真のポラロイド撮影があり、その撮影フィルムを渡されたあとは基本的にセルフサービスで、置いてあるコピー機で身分証明書をコピー、申込書に記入し、二階に上がって申込み窓口へ提出する(以上、すべて無料)。ちょっと多いぐらいにいる係の人たちの案内は口調を含めいちいち丁寧で、奇しくもサービスセンターのオープンと同日に首都圏のJR駅構内から締め出されたこの日陰者らを相手に、ここでは気持ち悪いほどもてなしがいい。
このサービスセンターでこそ即日発行であるものの、基本的には発行までの手続きが面倒/厳格であり、そのうえ顔写真まで付くことを思うと、これ、運転免許証と同等ぐらいに「身分証明書」として機能するのではないかというふうに漠然と考えていたわたしだが、いざ交付されたカードを見るとカタカナ表記の氏名があるほかは会員番号といったものしか印字されておらず、ウラ面にはただ「ご利用案内」の記載だけがあって、その「ご利用案内」はまず、「本カードは、身分証明書ではなく」と書き出されるのだった。まあ、そうか。
先ごろWiiを入手したばかりという友人のUさんに、「はじめてのWii」と「Wii Sports」を貸す。かなりの猫好きとしても知られるUさんだが、そこで紹介したいのはこの「WiiKitty.com」だ。世界各地から投稿されたWiiと猫のツーショット写真が山と保存されたサイトである。いったいそれWiiである必要がどこにあるのか、皆目わからないのだった。

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(2009年4月 6日 23:54)

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/ 4 Apr. 2009 (Sat.) 「新しいデジカメ」

家の裏、隣家の庭の桜がひとつだけ花をつけた。

庭に咲いた知らない花。

だめになった鉢植えの、踊る何か。

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食事をするテーブルの上に、まあたらしいWOWOWの番組情報誌が置かれてあり、昼ご飯を食べたあと、腹がこなれるまでのあいだ、紅茶を飲みながら丁寧にそれを読んだ。市川崑特集があることを知り、今回の特集では何と何をやるということを妻に説明したり、見るつもりはないもののロッキー特集のページをつぶさに読んだりした。それで情報誌を閉じ、あらためて表紙を見ると「2008年6月号」とある。わたしは何をしていたのだろうか。相当じっくり読んでしまった。なぜ、2008年6月号のお前が何食わぬ顔でそこにいるのか。しかも、あらためて見れば、表紙には間違いようもないくらいでかでかと「UEFA EURO 2008」の文字が躍っている。わたしは何をしていたのだろうか。
注文したデジカメ、パナソニックの「LUMIX DMC-LX3」が午後に届いた。充電池の充電に二時間かけてから、さっそく試し撮りを何枚か。下は、ソファの背で妻と同じポーズをとるロビンである。

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DVDで『TOKYO!』を再見。このあいだはメルドのことばかり書いたが、藤谷文子がかわいいということも申し添えておこう。『メルド』はあいかわらずおもしろい。いっしょに見た妻は、「あの人(メルド)、いやだ」とばっさりである。
チェスを買おうという話になり、ネットでこれを注文する。

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(2009年4月 5日 11:28)

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/ 3 Apr. 2009 (Fri.) 「そりゃイメージだろうよ、とわたしは思う」

裁判所新庁舎の案内図で知る、「いろいろある立川」。

さらにマピオンでも知る、「いろいろある立川」。

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そりゃイメージだろうよ。わかるともさ、それぐらい。
asahi.comで「『裁判員の目の高さ』 今月開庁の東京地裁立川支部」というニュースを読む(地方版の記事に「『裁判員に配慮』 地裁支部移転 立川」も)。これまで八王子にあった東京地方・家庭裁判所が立川に移転し、今月20日に新庁舎が業務を開始するということ裁判所ウェブサイトに掲載されたお知らせで、それで新庁舎の案内図[PDF]を見ると、これ、うちからおそらく10分、15分程度のところなんだけど、その地図でさらに知るのは、「国立国語研究所」なるものの存在だ。そんなものが近所にあったのか。知らなかったよ。
さっそくGoogleで検索すれば、一発で出てくる「独立行政法人 国立国語研究所」というのがまさにそれで、そういえばニュースで耳にしたことのある「『病院の言葉』を分かりやすくする提案」とか、「『外来語』言い換え提案」とかもここの仕事だとわかる。そうした提案がわたしのごく身近からなされていたとはまったく知らなかった。また、ついでにマピオンの地図も見てみたところが、「国立国語研究所」に隣接して、「国文学研究資料館」なるものまであるからびっくりだ。すごいな。いざとなったら調べ放題じゃないか。

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しかし、その立川に新しくできる裁判所についてのニュースでは、asahi.comよりも、その後に見た朝刊紙面(右掲)のほうがより面白かった。なにしろ、「裁判員に配慮」の大見出しにつづけて、二番目に大きな字で報告されるのが「絵画など飾る」であるからだ。それほどのことかよ。たしかに、添えられた写真のうちの一枚(右下、「評議室」とのこと)には壁に掛けられた風景画のようなものが写っているが、まあそのなんだ、それほど大見得を切って報告することじゃないと思う。だったらそれと気づかせないぐらいに、さりげなく行ってこその「配慮」ではないのかということがまずあり、また、絵画にしろ観葉植物にしろ、それらのもたらすリラックス効果が評議にとって有効なものなのだとすれば、いままでの裁判官にだってその配慮は必要だったんじゃないのかということである。
話は急に変わるが、きょう更新されたいとうせいこうさんのブログ記事に、先日の宴会の模様がアップされていた。そこにわたしも写っていて、いとうさんのマネージャーの方などとしゃべっている。

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(2009年4月 4日 13:24)

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/ 2 Apr. 2009 (Thu.) 「デジカメを注文してしまった」

カルロ・ギンズブルグ『糸と痕跡』

飯田祐子ほか編著『少女少年のポリティクス』

煮込みうどんとたっぷりの睡眠がたしかに効いて、朝には鼻が止まり、夕方から気分もだいぶ戻って、快癒まであと一歩というところに漕ぎつける。
きのう(1日)のことをもう少し書くと、風邪気味だからといつもより早めに会社を出たあとで、しかしつい、新宿の紀伊國屋書店に寄った。なかなかに抑制をきかせたチョイスで三冊買う。

 ギンズブルグ『糸と痕跡』は歴史学の本。歴史学といってもむろん、文学(テクスト読解)とそれが交差し融け合うような地点から(/へむけて?)書かれたものであり、それでいてなおかつ、歴史(ヒストリー)と虚構(フィクション)とのいっさいの区別を廃止してしまおうとするポストモダン的な、相対主義的な態度には断固として「否」をつらぬく、というような著作であるらしい。これはギンズブルグのまたべつの著作『歴史・レトリック・立証』にある言葉(らしい。孫引き)だが、

知識は(歴史的知識もまた)可能なのだ。

というわけである。ま、まだちょっとしか読んでないからわからないけど。というか、富山太佳夫さんによる書評を読んだわけでして、それで例によって買わされてしまった。
 「『子ども』が少女と少年とに切り分けられたとき、何が起こったのか──。」と紹介文にある『少女少年のポリティクス』は、少女少年表象の政治性をテーマとした論文集詳細な目次については青弓社のページをどうぞ)。生方智子さんの「愛を告げる者──萩尾望都の作品における〈鏡〉の機能」が収められており、ふと「生方智子」でネットを検索していて知った。いまは立正大学で教えているらしい。へえー。(って、この話題が通じるのは吉沼だけだと思うけど。)
 『アーキテクチャの生態系』は、何で知ったんだっけなあ。それこそアマゾンのアーキテクチャが教えてくれる、例の「この商品を買った人はこんな商品も買っています」だったかもしれない。環境管理型権力を用いてなされる社会設計に着目した、情報社会論の本。
きのうの日記の記述を読んだ妻はすぱっとした調子で言う。「わたしは『ポンヌフの恋人』も『ポーラX』も観たことあるよ」。そうだ、それで、『ポーラX』の原作であるところのメルヴィル『ピエール』が妻の蔵書として本棚にあるのだった(『ピエール』はけっきょく読んでいないらしいが)。「アデュー」の絵が「七夕っぽい」件については、「そうだね、わかるよ、七夕っぽいよね」とやさしく慰められた。また一方、何も三枚も写真を載せることはないのではないかと、横光利一には同情的な妻である。
というわけで、つい、注文してしまったというのは、パナソニック「LUMIX」シリーズの「DMC-LX3」だ。これでまた、『世界の料理ショー』のDVDボックスは遠のいた。『落語研究会 八代目 桂文楽 全集』も遠のいたな。

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(2009年4月 3日 12:30)

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/ 1 Apr. 2009 (Wed.) 「春の嵐」

降ってわいた横光利一特集。

どれもこれも横光利一だ。

これもか。

また日記がずいぶんと滞ってしまった。「素人の乱」松本(はじめ)さん山下陽光(ひかる)さん宮沢(章夫)さんによる、新宿ネイキッドロフトでのトークイベントに足を運んで(3月6日)からこっちのことをすっかり書き損ねた。座談の後半から参加された平野悠さん(ロフトの創始者で、新宿ロフトプラスワン席亭)の発言をいわゆる〈聖典(カノン)〉をめぐる問題として整理し、ある面では平野さんの発言を擁護もしつつ、そのうえで、やはりただしく批判したいという思いにかられ、そういった文章を書くつもりでいたことをいま思い出すが、そういうものはあれですね、すぐに書かないというとだめですね。

〈3月8日〉
 宮先(雅之)さんの個展へ、笠木(泉)さん(鈴木)謙一さんと。宮先さんに会うのはこれがはじめてだ。と言ったら笠木さんに驚かれたが、そうなのである。
 じつのところ「絵を観る」という行為があまり得手ではないわたしだが、連れのふたりにも助けられ、愉しく、おだやかな時間を過ごす。ま、なにより絵がよかった。笠木さんが主宰する「アデュー」の第一回公演のために描かれ、チラシなどに使われた絵の原画もそのなかにあって、それを前にしてわたしは、「これ、どことなく七夕っぽいよね」と前々から思っていたことを何気なくぽろっと口にしたが、予期せず、「どこが?」という強い反応が連れのふたりから返ってきてひるむ。面白がった宮先さんは「七夕ではないですね」ときっぱり言い、さらには「七夕っぽくだけはしてくれるなっていうオーダーだったんで」と悔しさをにじませた。
 ところでその帰り道だったか、「わたしはむかし、文学少女ならぬ文学史少女だった」という笠木さんの告白があって、つまり、学校の国語教材のなかでもとりわけ文学史の資料集的な本が当時の笠木さんの心を捉え、それを熟読していたという話だけれど、そこに載っていた近代日本文学の作家たちの顔のなかで、唯一、生理的に受け入れられなかった顔というのが横光利一のそれだったという。

〈3月9日〉
 「グローカル研究の可能性社会的・文化的な対称性の回復に向けて」と題された公開シンポジウムが成城大学であり、それには小田亮さんや中沢新一さんが出るというから、平日ではあるもののここはひとつ万難を排して途中からでも駆けつけようと考えていたけれど、けっきょく行くことができなかった。
 いや、だから「行っていない」のであって、そのことを報告されてもなあという声はもっともなところだが、つまりその、いま思い出しても悔やまれるということだ。行きたかったよ。

〈3月11日〉
 鍼治療へ行く。

〈3月13日〉
 高山(玲子)さんの新作映画の上映会へ。新作『Pimple Traveling』(「Pimple」はニキビ、吹き出物の意)のほか、旧作の『聖歌隊物語』と『漫画家の話』も併映されたが、どれも今回が初見。『聖歌隊物語』の抜群のおもしろさはなんだろうかこれは。

〈3月14日〉
 伯父の法要。

〈3月15日〉
 笠木さんの家におじゃまする。笠木さんが新しく買ったMacBookに、Parallels+Windows XPを入れようということで行ったのだったが、なぜかAirMac環境の整備とでも呼ぶべき作業に終始してその日はなにひとつ事が運ばず。
 夜は遊園地再生事業団のミーティングに参加。

〈3月20日〉
 ボクデスのライブを観る。

〈3月24日〉
 遊園地再生事業団の「ミーティングの会」(そんな名称はないけど)の面々と、「座・高円寺」の見学会。いったいわたしが行ってどうしようというのか、という面がなくはないものの、せっかくの機会なので見学させていただく。門外漢にちかいわたしですら心を躍らせたくなる施設の充実ぶりと、なによりその真新しさであり、途中から、引っ越し先を探して不動産屋と物件を見て回っているような気分にもなったのは、なんでしょうかあれは。

〈3月28日〉
 新・文芸坐で、『TOKYO!』『トウキョウソナタ』の二本立て。どちらも初見。オムニバス作品である『TOKYO!』のうちの一本、レオス・カラックス監督の『メルド』がいいという評判はかねてから耳にし、けれどそれ以上のことは何も情報を持たぬまま観たのだけれど(というかわたし、『ポンヌフの恋人』も『ポーラX』も何も観てないんだけど)、いいっすね、これは。銀座を襲った「下水道の怪人」がふたたび地下に戻ろうとマンホールを開けるとき、専用の器具を使ったのには声を出して笑った。
 『トウキョウソナタ』もすばらしかった。帰宅後、まず、妻をぎゅっとする。

〈3月29日〉
 白水SのWさんの、新築のお宅におじゃまする。さらにそこからの流れで夜は、いとうせいこうさんのお宅で開かれていた花見の宴にもおじゃました。なにより特筆すべきは、いとうさんがわたしの顔を覚えていてくれたことだ(『トーキョー/不在/ハムレット』に関わる一年前、劇作家協会の主催するコント講座で、わたしはいとうさんの生徒だった)。珍しく〈パーティー精神〉的なものを発揮し、さまざまな輪に加わる。早々に酔っぱらいになっていた田中夢とふたり、けっきょく終電までいたのだった。

〈3月30日〉
 ラドママプロデュースの舞台『メディア腐食』を観る。

 とまあ、そういったような具合だが、まあその、ぜんぶ嘘である。
どうも風邪をひいたらしく、鼻水がひどいのと、喉がおかしい。とりわけ喉の感じがあやしく、(「船が出るぞぉー」の調子で)「熱が出るぞぉー」という声を遠くに聞く思いがし、大事をとって早めに帰宅。豆板醤を使ってピリ辛にした煮込みうどんを作ってもらい、食べてすぐ寝た。

本日の参照画像
(2009年4月 2日 14:00)

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