/ 28 Jun. 2006 (Wed.) 「オフサイドも知らないくせに」
■未明にブラジルーガーナ戦を見る。戦術的なことはよく知らない。だいたい「オフサイド」についてさえよくわかってはいないのだ。けれども、ルールなど審判が知っていればそれでいいじゃないかと言いたい気分にさえなって、私はただ無邪気な人たちが見たい。いったん中断した試合がまた動き出すというようなとき、あるいはそれとはまた別に、試合中のふとした瞬間、ピッチに散らばるこの黄色い恰好をした人たちを見ていて、私はテレビの前で愉快にこうつぶやく。「作戦とか、ないでしょ、あんたたち」。いや、あるのかもしれないけれど、ないように見える(瞬間がある)のだ。そこには、ボールと自分との「いま」だけがあるように見える。その理解の深さと「愛」の度合いにおいてまったくレベルが異なるとは思うものの、今福龍太が愛する「いま」もまた、こうした感覚の先にあるものだろうかと考える。
「結果」ではなく、ましてや「過程」でもなく、私がサッカーで愛したいのは「いま」である。時の流れ、感情の流れ、思考のとどまることなき流れのなかで明滅し、閃光を発し、たちまちにして消え去る「現在」という、瞬時の強度に満ちた生々しい「いま」そのものである。「いま」が時の深みを生み出し、プレーヤーの身体的アートに厚みをもたらすという事実への、無私の愛である。
今福龍太「結果を愛するのではなく」『フットボールの新世紀 美と快楽の身体』(廣済堂ライブラリー)
いやー、どうなのかな。なにしろ私はついこないだロナウジーニョの佇まいに打たれただけの者であるからなあ。このガーナ戦など、ブラジル側のいわゆる魅力ある攻撃が多く出たわけでもないし、試合を押していたのはガーナのほうだった。選手たちはおしなべてあまり調子がよくなかったように見える。それを「ブラジルの魅力はこんなもんじゃないよ」と一蹴すべきなのか、それとも、こうしたときもある、とその「いま」の調子をあっさり受け入れて動くように見える選手たちの、身体のあり方の自由さを称揚するべきなのか。両者なのだろうな。「いま」がとどまらないものならば、両者の考えが入れ替わり立ち替わってかまわないのだろうし。ワールドカップのこの時期、今福さんはどこかにサッカー批評的な文章を書いていないのかな。それがとても読みたい。だってさあ、今福さんたらこんな文章を書くんですぜ。
この、サッカーに向けたささやかな言葉の連なりのなかで、私はただ簡潔に「愛」についてだけ語ろうと思う。それは、サッカーにたいする素朴で官能的な愛であり、つまりは、流動する「世界」にたいする畏れと憧れに満ちた愛である。サッカーをなにかのために利用するのでも、サッカーによってなにかを忘れ去るためでもない。ただ世界のなかに私が生まれ落ち、人々とこの世界を共有しながら生きることになった自らの個としての境涯を、人間と事物をつなぐ感情と英知と道理の星宿の一部であるとつつましく感じ取るときに発現する簡素で裸形の「愛」を、サッカーへと直接に差し向けることである。
今福龍太「サッカーにおけるメランコリーについて」同上
あと、上山君の話も聞きたいな。サッカー好きの友人である。海外出張でふたたび中国に行ってまだ帰ってないのだろうか。そうだ、上山君に「オフサイド」のことを教えてもらおう。上山君なら丁寧に教えてくれるだろう。みんなでいっしょに教わればいいと思うが、みんなって誰だよ。こうなったら、友人のなかのもうひとりのサッカー好き、荒川の話だって聞いてやらないことはない。いつでも来いだ。
■高円寺の「円盤」で行われるという川勝正幸さんと宮沢さんの催し(正確には川勝さんが定期的に行っているイベント「文化デリックのPOP寄席」に、宮沢さんがゲスト出演するようだ)にはぜひ行きたいと思うが、「円盤」といえば、ラストソングスが以前ライブを行ったあそこだよなあ。あの狭さでこのイベントだと、ものすごいことになりはしないかと心配する。ラストソングスのときだって(出演者はほかにもいたけど)立錐の余地がないくらいだった。でもまあ見たい。というのも、なにせ私がフジテレビの深夜番組「FM-TV」で宮沢さんを知った者だからだ。「FM-TV」は、川勝さん、宮沢さん、えのきどいちろうさん、押切伸一さんの四人が書き、出演もしていた番組。1時間番組から30分番組に縮小される手前の、1時間番組としての最終回など、何回かの放送がベータのテープに収まってまだ実家にあるはずだ。だからまあ今度の「文化デリックのPOP寄席」は、私にとってアイドルふたりによるイベントなのである。
関連記事
トラックバック(0)
このエントリーのトラックバックURL:
https://web-conte.com/blue/mt-tb.cgi/418