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Nov.
2007
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/ 5 Nov. 2007 (Mon.) 「ビュトールの『段階』」

ミシェル・ビュトール『時間割』(河出文庫)。

タモリ『タモリ』。

3日の土曜日は、熊谷(知彦)さんの出演するリーディングパフォーマンスライブを観に、横浜のBankARTまで。企画・構成・演出の武藤真弓さんともじつは旧知である。『トーキョー/不在/ハムレット』の演出助手をやる前の一年間、日本劇作家協会が開いていた戯曲セミナーの、そのコント部門を受講していたことがあるが、そのときにいっしょだったひとりが武藤さんだ。リーディングパフォーマンスライブは題して、

 マチネ・ポエティカ「一つの可能性」text by ミシェル・ビュトール『段階』

と言い、このやけに説明的なタイトルの感触からすでに予感されるとおり、作品の成り立ちはひどく複雑だ。というか、素材となっている『段階』という小説がまず、ふつうに小説として読んでも複雑な代物であるらしいのであり、けっこうな分量のあるその小説をある意味〈小説のまま〉切り貼りして90分程度のリーディング作品というより刹那的なかたちに落とし込んでいるのだから、語られる物語の内容についていえばあたりまえのように理解できるわけがないし、そこへさらにスクリーンに投写される文字情報が加わるが、たとえば登場人物たちの置かれた状況、相関関係といったものを説明するその文字情報は、しかしもはや説明が目的であるとは到底思われないほどの量にやがて達していくわけで、それより何より、1500円のチケット代に含まれたワンドリンクでもってビールを手にしてしまっている私はとてもいい気分だ。ストーリーなんか追っている場合ではない。
むろん、これがストーリーを追うことで解の見つかるような物語でないことは、劇中において早々と語られもするのであり、その熊谷さんのセリフによれば(って、記憶はすごくあいまいだからかなり私の言葉でまとめてると思うが)、つまりそこに展開するのは「書くということについて書かれた書物(をめぐる物語)」であって、たとえばわれわれの上をただ滑っていくだけのものも含めてありとあらゆる「情報」を捉え、「すべてを書こうと欲望すること」の、危うい、悲愴な魅力が舞台を貫いている。とくに前半にあった、文章における「現在形」がどこまでの〈現在〉を内包しているかというくだりはしびれたなあ。あたしゃそんな話が大好きだよと、レーベンブロイを口に運びながら、回らない頭を重たそうに抱えて男はひどく上機嫌だったという。
「情報」といえば、極めつきは(この舞台では役者が手持ちのマイクを使うのだが)マイクのノイズだろう。何かと反響してしまうのか、キーンという音がしばしば起こり、そのときの役者の反応からするにおそらく純粋なアクシデントとしてのノイズなのだが、しかしここでこそ、冒頭、熊谷さんが「情報、情報、情報!」と繰り返した言葉が活きてくるのであり、あるいはまたエレクトロニカ以降われわれはノイズを聴く耳を持ってしまったということでもあるのか、それこそ私の無関心によって知覚の外へやられ頭の上を過ぎていく、それを指してはただもう「情報」であるとしか言うことができないような純粋な(!)情報として──それを象徴するものとして──マイクのノイズもまた心地よくパフォーマンスのなかに織り込まれていくのを聴いていた。
武藤さんが『段階』という小説の何に共鳴したのかというその核心について考えるには私はアルコールに弱すぎるが、しかし少なくとも、ものすごくビュトールが読みたくなるという一点においてこの舞台は確実に成功していた。で、翌日ネットを歩き、古本屋で見つけたそれ(『世界の文学25 ロブ=グリエ「嫉妬」・ビュトール「段階」』)を注文する。文庫で入手可能な二冊、『心変わり』(岩波文庫)『時間割』(河出文庫)は街中の大きな本屋で買ってきた。『段階』に関して書けば、とある学術雑誌に載っている短い文章「ミシェル・ビュトール『段階』における話者の死について」というのを見つけたが、少し引用すればそこにはこのようにあって、とてもわくわくさせられる(全文は前掲のリンクをどうぞ)

しかし,ここに奇妙な事が起こる.作品のII部で繰り返されるように,本来人称の転換は表面上のものであり,真の話者はヴェルニエでありつづけたはずなのに,III部の後半になると,そのヴェルニエは膨大な叙述の必要からくる疲労のため死の床に伏し,仮の話者とされていたジューレが「書いているのは私だ」と言明するのである.ヴェルニエ自身が作中で認めているように,広大な現実を描くため事実と想像が入り混じった叙述から,事実だけ,想像だけを取り出すことは不可能であり,それは話者の確定をも困難にせずにはおかない.こうして,作品の最終行で,死の床に伏したヴェルニエが発する「だれがしゃべっているのか」という問いが,まさしく作品を締め括るものとなる.
福田育弘「ミシェル・ビュトール『段階』における話者の死について」『フランス語フランス文学研究』No.43(19831022) p.113-114

で、終演後、武藤さんと少しだけ話したが、開口一番むこうが口にしたのは、12月19日に3作品同時に再発されるタモリのアルバム(『タモリ』『タモリ2』『ラジカル・ヒステリー・ツアー』)のことだ。そのことでもう頭がいっぱいだとさえ演出家は言うのだった。
4日の日曜日は妻と、Wiiのゲーム『スーパーマリオギャラクシー』をやって無為に過ごしていた。と、そうしていたら月曜がちょっとたいへんなことになり、会社に泊まって仕事をすることになる。
しかしまあ南波(典子)さんはうまいというか、ちょっと感動的なまでにあっさり書くなあ。あらためておめでとうございます。

本日の参照画像
(2007年11月 7日 02:53)

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