/ 7 Jun. 2009 (Sun.) 「次の五年へ」
■結婚(入籍)記念日である。まる五年が経ったのだった。
■夕方、新宿の紀伊國屋書店本店へ。高祖岩三郎さんと廣瀬純さんによるトークセッションを二時間にわたって聞く。
■廣瀬さんはまず、高祖さんの著書『新しいアナキズムの系譜学』を引き合いに出し、それが書名に「系譜学」という言葉を用い、あたかも歴史学的な知見を提供するかにみせて、そのじつ、それを地理学的な知見へと転倒し、マッピングしていくさまが面白いと評価してみせた。また、ものごとを〈歴史学的にみる〉という──いわばフーコー的な──態度にかわって、ものごとを〈地理学的にみる〉という──こちらはいわばドゥルーズ=ガタリ的な──態度が、近年ではあらゆる分野・場面で称揚される傾向にあることも指摘する──たとえばかつてはふつうに大都市で開かれていたサミットの、近年の開催地選びもまた地理学的な思考と欲望に貫かれている、などなど。そのいっぽうで、たとえば9・11のあと、ビンラディンの居場所を突きとめようとしていわゆる従来の地理学者が呼ばれ、映像や写真の背後に見える岩や地層から「ここではないか」ということになってそこへ行ってみると、しかし地理学的な見当はみごとに外れ、ビンラディンはいないといったようなこと。あるいはまた、つい先日のエールフランス機〈消失〉。これだけ衛星が発達し(と、じっさいに見たこたあないがそうイメージされ)、北朝鮮がミサイルを運んだのなんだの、相当ミクロな映像が届けられるいっぽうで、じっさいのところあのエアバス機がどこに墜落したのかは(ようやく残骸が発見される程度で)ついにわからないままであること。これらの出来事が象徴的に示すものを、高祖さんと廣瀬さんは「地球そのものがもつ、圧倒的な〈脱領土化〉のパワー」と呼んで驚嘆し、そして、「地球なめんなよってことですよ」と言うのだった。
■もちろん話は「運動」についても及び、まず廣瀬さんが「ぼくにとって運動とは何かってことで言えばですよ」といつものくだけた調子で言い、それに高祖さんが大きく同意するふうだったのはつまり、「『やっぱすごいな』ってことがないと興味がもてないわけですよ」ということである。映画というものが〈死〉を前提にできる──たとえばよく(?)言われるようにスクリーンのなかの登場人物たちは「トイレに行かない」が、それは省略されて行っていないようにみえる(カットとカットのあいだにトイレに行っている)のではなく、「ほんとうに行っていない」のであって、つまり彼らは最初から死んだ存在なのだ云々──のにたいし、どうしたって〈生〉に規定される運動は〈死〉を前提にはできないわけだが、しかし、どこかで〈死〉を欲望する(欲望しているとしか思えない)ところが運動にはあり、それが廣瀬さんにとっての「やっぱすごいな」につながるという。たとえば「代議制」や「多数決」といったものは、「全員参加で、全員が納得するまでとことん話し合う」といった──それこそ死ぬほど疲れるような──面倒から解放されるための「効率的な方法」としてあるが、しかし、運動の場面においてはときに、死ぬほど面倒であるような非効率的な方法が(とうぜん永続はしないが一時的に)民衆によって採用されることがあり、そこに運動の面白さがあるという。
■これにたいし会場から発言があったのは、いわゆる「前近代」において、例に挙げられたのは江戸時代の農村だが、そこでは「全会一致」こそが原則であり、全員がひとりの家に集まり、納得しない者があれば何日もかけて、あいだに食事や睡眠(いったんそれぞれの家に帰る)なども含むゆるやかな時間のなか合議をおこなっていたということから、「全会一致」を過剰な何かとしてすぐ〈死〉に結びつけるのは妥当ではなく、「全会一致」がごく自然に〈生〉と共存するような、そうした社会も想定可能なのではないかという指摘である。
■で、上記の指摘にはおふたりとも即座に同意する。同意したうえで高祖さんが、人類学者によるすぐれた発見のひとつとして強調するのは、前近代──あるいはいわゆる「未開」──の人たちは「多数決も知っていた」ということだ。彼らは、多数決を知らなかったために非効率なことをおこなっていたのではなく、多数決という方法があることを知っていながら、しかしそれを採用しなかったのであり、たとえばわれわれの前近代から近代への移行においては、「多数決といういままで知らなかった舶来の便利なものを知ったので、じゃあそれに変えよう」ということが起こったわけでは「ない」のである。また、それは〈前近代/近代〉という時間軸におけるあっちとこっちの話だけではなく、〈いま〉というひとつの空間においても、あるいはひとつの社会、ひとりの人間のなかにおいても、「多数決」的なシステムと「全会一致」的なるものとは同時に、二重に採用されていると考えるのがおそらくただしいのではないかと高祖さんは指摘し、それを聞いていて、もちろん、レヴィ=ストロースによる「真正性の水準」の話──われわれは「真正な社会」と「まがいものの社会」を二重に生きているのだという議論。詳しくは小田亮さんの講演原稿「社会の二層性あるいは『二重社会』という視点──小さなものの敗北の場所から──」を参照──を、わたしは想起していた。
■そこから話は「コンセンサスプロセス」の技術開発といったところへ展開し、また終盤は「アナキズムとは?」という話へ。「アナキズムとは?」というのは客席からの質問だが、それに答えた高祖さんの発言(大意)はこうである。「わたしがなぜアナキズムを支持しているかには大きくふたつの側面があり、ひとつは、この二十年ほどの世界各地の運動をみていて、結果なんらかの成果をもたらしたと思える人たちが、みな、自分のことをなんとなくアナキストであると(定義をもとめられた場合には)定義している人たちだという事実。もうひとつは、わたし自身がアナキストであると自分を定義しているわけだが、それについてはまた今度。──というのは、近著『新しいアナキズムの系譜学』において、アナキズムのもつそれこそ『なんとなく』の空気や魅力は伝えられたと思うが、ではそれをどう組織化し、運動として展開させていくかの議論がほとんどなされておらず、それを弱点だと自覚しているから、いま、そのことについて書く次回作を準備中である。」
■で、終わってそこから初台へ移動し、宮沢(章夫)さんのお宅へ。遊園地再生事業団の月例ミーティング。徐々に決まって(みえて)くるものもあり、まあ、とにかくいろいろ話し合う。って、べつにぼかして書いているわけではないが、トークセッションについて律儀に書きすぎて疲れたのだった。まあ、居させてもらえるうちになるべく発言し、宮沢さんが「何か」を(まったく関係ないことでも)思いつく、そのきっかけというか、なんらか刺激のようなものを与えることができればなあとは思っているのだった。
■そんなこんなで結婚記念日。次の五年がまたはじまっていく。
■本日の電力自給率(6月7日):100% ビバ、晴天!
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