12
Dec.
2009
Yellow

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/ 5 Dec. 2009 (Sat.) 「口ロロのライブに行った話、なのだろうかこれは」

Ustreamの画面に映るわたし。

三つの窓としての「口ロロ」。

そこにノイズが走って。

というわけで夜、代官山の「UNIT」で口ロロ(クチロロ)のライブを観た。ライブの模様は動画共有サービスの「Ustream」を使い、リアルタイムに配信されたわけだが、そのカメラに映るわたしが左欄一枚目の写真だ録画版動画の 02:32:19 あたり)。最後の客出しのところ。ライブを Ustream で見ていた白水社のWさんがこれを見つけ、

Bokutou_House というか、相馬くん発見なう。 #kuchiroro
9:02 PM Dec 5th from Power Twitter

と Twitter につぶやいたのを、わたしがこの数分後にケータイで読む。それはいったいどんな「鏡像段階」なのだ、といったような事態。この動画からは知りうべくもないが、わたしは法事帰りで、半分喪服な恰好をしている。靴は革靴だ。
このライブから発せられた熱、輝き、響きと震えについては、たとえばまず米倉さんのブログ記事「この瞬間の到来に」を参照していただければと思う。

……)80年代に東京という一都市で起こっていたクラブカルチャーの中心にいた人たちが今、いっせいに主体的につぶやきはじめているこの異様な前夜感は、年代的にも地理的にも「その瞬間」に追いつくことができなかった私にとっては、この瞬間の到来に興奮せざるを得ない。(……)今回は、間に合った。
ここではありませんのノート - この瞬間の到来に

こういう「感動」を書かせると、ほんと米倉さんはうまい。勝てねえよなあと要らぬ嫉妬心さえ抱くわたしは、だから、「日々の記録だ、あくまで日々の記録を」と自らをいましめつつキーボードを打たねばならない。
会場に入る前の話だ。客はチケットに記された整理番号順に入場するのだが、開場予定時刻にはすでに相当数が詰めかけていたため、近隣店舗の迷惑にならぬよう、詰めかけた人々は駒沢通り沿いの歩道に、細い長蛇の列を作って開場を待つ。整理番号が100番までの方はこっち、100番以降の方はあそこから向こうにとだけ区切って、あとは雑多に並ばせたのち、「何番までの方、ご入場できます」と係の人が列に触れて回る。ライブ後には上がっていたが、このときはまだ雨が降っており、折り畳み傘を片手に30分ちかくは動かぬ列のなかにいたろうか。本来なら(?)ここでケータイを取り出し、Twitter 上の「すでにはじまっているライブ」をチェックするべき時間だったのだろうけど、この日朝から外出し(茨城の実家での法事だった)、出先からつぶやいていたわたしのケータイはすでに充電の残量がこころもとない状態で、この夜はまだまだ長いという予感のもとに電池を温存するとなれば、あとはただぼんやりと駒沢通りを眺めることになる──そのときにふと、音が聞こえたのだ。雨音、列の前後の話し声、話し声ではない「人がいる」というその音、信号待ちの車、バイク、冷たい空気の音までもが鳴り出すのを聴き、「やっぱりライブははじまっていたんだ」とうっかり興奮しているうちに、気づくと自分の番号よりもずっとあとの番号がもう呼ばれていた。あいたたた。
さて、ライブ直後にポストしたわたしのつぶやきのいくつかには、やはり注釈をつけておいたほうがいいだろう。

soma1104 伝わらない、ってことについてずっと考えていた。考えている。 #kuchiroro
9:19 PM Dec 5th from movatwitter

 「言葉足らず」の見本であるようなこのつぶやきは、あるいはライブの否定的な感想として受け取られたかもしれないものの、けっしてそうではないつもりだ。あまりに衝撃的なこの夜のライブはそれ自体の感動を突き抜けて、「ここ」ではない「むこうがわ」へとわたしの思考を向けさせたのであり、言わば、わたしがこのとき考えていたのは「ライブのことですらなかった」。
 むこうがわ──たとえば午後8時36分、世界各地の定点ライブカメラが映し出す同時刻の「世界」──と、はたしてわれわれはつながっているのか。あるいはわれわれは、「他者と出会えるのか」。
 結論を言えばもちろんそんな問いはナンセンスであり、つながっているもいないも、それは同じひとつのことのふたつの側面であるとしか言いようのないものだ。他者と出会える/出会えないは、前提として他者をどう定義するかに依るだろう(どこまで行っても出会えない外部を「他者」と名付けるのであれば、それに出会えないのは当然である)

soma1104 口ロロを象徴するツイッターが、根底的に表象しているものは、コミュニケーションの成立不可能性だというふうに思えるわけですよ、まず。 #kuchiroro
9:39 PM Dec 5th from Keitai Web

 「出会えない」とする考え方のひとつが文学における「受容理論」であり、そこでは、人はどこまでいっても自分自身に出会う(自分自身を読む)しかない。そのことを、Twitter におけるコミュニケーション、ことにタイムライン(TL)という装置が、わかりやすく実体化している。

soma1104 つまり人はみなそれぞれが、それぞれのTLを見るしかないのだ、と(根底におけるコミュニケーションの成立不可能性)。で、そのことをきっと口ロロは見つめ得ていて、いっそ逆手に取ろうとしているのではないか。といったようなこと。 #kuchiroro
10:09 PM Dec 5th from Keitai Web

 あるいはまた、ネット上からライブに参加する人向けに用意された「WEB特設会場」の、つぎの案内文がそこに重なり合いもする。

できれば会場に来て欲しい、だけど、どうしても来られない方々のために、「ここ」でしか体験できないもうひとつの、それぞれの「ライブ」。

 そう、これは「それぞれの」ライブなのだ。ライブスタートの第一声、暗闇のなかの「いとう通ります」録画版動画 00:45:40 ごろから)が、否が応でも「それぞれの場所での体験」というものを前景化させたように、そのことは会場にいた客にとっても同じである。演出の伊藤ガビンさん(ところでぜんぜん関係ないけど、乾杯コーナーでガビンさんが指名されたとき、「ガビン」て本名の音読みかなあ、とすると……「雅敏」とか?とぼんやり考えていた。いまウィキペディアを見るに正解のようだのライブ前のつぶやきにはこうもあった。

gabin あしたのロロロのライブは、つまり誰も全貌がわからないってことだな。メンバーが一番わからないくらいわからない。会場と中継では違う絵を見て違う音を聴く。それぞれのライブをそれぞれの場所で! #kuchiroro
9:03 PM Dec 4th from web

 だから、ライブ中、会場のスクリーンに何度となく映し出される「口ロロ」のロゴが、世界にむかって開かれた「三つの窓」のように見えたというのもその文脈においてである。その窓の向こうに広がる「世界」を、しかしわれわれはそれぞれの窓からしか見ることができない。その「前提」の圧倒的な提示。窓にはときにノイズが走り、枠を歪ませるが、その枠が解消されることはついにない。
 その意味においては、だから、窓の向こうの世界を世界そのものとして享受することも、それを他者と共有することもできない──というのが当然の帰結である。そして、その帰結のうえに立って、しかしなお問わねばならないつぎの問いがわれわれには残されている。

 ではなぜこのライブが、こんなに感動的だったのか。

 つまり、それは「世界そのものが見えた」からなのではない。〈窓の向こう〉はもはやどうでもよくて、ふと横を見れば〈窓のこちらがわ〉に、同じように「じぶんの窓越しに世界を見る」者がいること。おそらくはその感動だったのではないかと、まずは考えることができるだろう。「世界の共有」ではなく、「世界を見る行為の共有」が、わたしを震えさせた。なにしろわたしにとって、この日最高の興奮はこのつぶやきのなかにあったのだから。

Bokutou_House というか、相馬くん発見なう。 #kuchiroro
9:02 PM Dec 5th from Power Twitter

追記程度であれですが、この日のスクリーンのVJが、ほとんど Firefox や iPhoto、さらには Expose や Spaces でもって構成されていたことがひじょうにすばらしかったです。ああ、ブリコラージュ!

本日の参照画像
(2009年12月 8日 17:59)

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