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May.
2013
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/ 9 May. 2013 (Thu.) 「木曜日に」

春の古井由吉まつりは「杳子」「妻隠」ときて、いったん「木曜日に」へもどるが、この処女作についてはなんといっても、単行本の「あとがき」にある古井自身のこの言葉にぐっときてしまうところがある。

 四十二年からおよそ三年間に書いた小説を五つここにまとめて、読んでいただくことになった。
「木曜日に」が処女作にあたる。この作品は私の二十代の唯一の作品であり、およそ五年間さまざまな気持をこめて幾度となく書き直したそのあげくが、このような痩せこけた姿となって落着いた。書き直すたびに前の原稿を焼いて捨てたので、前のことはもう確かめるすべもないが、今あるよりももうすこしふくらみのある形でまとまったこともあったような気がする。自分でぶちこわしたわけだ。しかしただ良い小説をという願いばかりから書いたのでもなかったのだから、それはそれでよかったのだと今では思っている。
 あとの作品は、処女作の香りをわが手でそこなった淋しさと気楽さから、ここにあるような姿となった。
古井由吉「あとがき」『円陣を組む女たち』(中央公論社)

 なるほど「木曜日に」は「痩せこけた姿」をしている。さきにのちの作品群を享受した身で「木曜日に」にあたると、いっぽうではのちの作品群へと連なるさまざまな語りの種子がそのうちに折り畳まれているのを感じつつも──たとえば、不意に差し挟まれる「電話」というモチーフの手触りなど──、しかし何かが平生(いつも)とは異なっていて、それは文体への随所の違和感なのだけれど、つまりは〈ぼくらの古井由吉〉ではないように見える。そして、ほんとうに驚くべきことに、つぎの「先導獣の話」から、その書き出しから、古井由吉は一気に古井由吉になるように見えるのだ。
とか、ね。
あ、いや、面白いんですよ、「木曜日に」。

(2013年5月13日 12:10)

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