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Oct.
2016
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/ 27 Oct. 2016 (Thu.) 「公と私」

けっきょく、米 Appleのスペシャルイベント(日本時間 10月28日午前2時〜)で何が発表されたのか、まったくチェックしていないところのわたしである。何かすごいものが出たのだろうか。何が出たところでどうせ買えやしない──金ならこれっぽっちもないぜ、というのが当方の 2016年秋・冬である。
児玉(悟之)君の日記が更新され、もきちの近況を知る。寛解に向かっているようでよかったよかった。
小田亮先生の Web連載、「第4回:0円生活の『公・共・私』」はきのう更新。「公共」という言葉があるように、ともに〈みんなのもの〉というニュアンスをもつように思われる「公」と「共」とのちがいが、あるいは今回の記事だけではわかりにくいかもしれないが、そこにはたとえばつぎのようなブログを接ぎ木してみたい。

私は我孫子市に住んでいますが、20年ほど前、我孫子駅北口前の開発のために、そこにあった市有地の周りに、誰も入れないように網が張り巡らされました。
どうせあいているなら、自転車置き場にしたらいいのにと、私は思いました。
市有地は市民みんなのものだろうと思っていましたが、市有地とは市民のものではないのだと思い知らされました。
〔略〕
公有地は勝手には使えない土地です。
つまり私有地と同じ、排他的な空間です。
共有地はみんなが使える土地です。
もちろん、だれでも使えるとは限りませんが、それは「共」をどう考えるかの問題です。
〔略〕
「公」は「大きな家」という意味ですから、「組織を起点」にした概念で、統治概念です。
それに対して、「共」は「仲間同士」という「個人を起点」にした概念で、生活概念と言っていいでしょう。
発想の視点と発想のベクトルが違うのです。
それを一緒にして「公共」と言ってしまうのは、おかしい話です。
もちろん、「公共」という言葉は、昔からありました。
それは「公が統治する共」と言う意味だろうと私は理解しています。
「公共」と言う言葉が、「共」を排除していたわけです。
公と共: CWS private

 哲学者のアントニオ・ネグリとマイケル・ハートは、『コモンウェルス』という本の中で、私有制を基盤とする近代資本主義社会では、たとえば土地は公有(パブリック)と私有(プライベート)のどちらかしかないために、昔からある共有(コモン)が見えにくくなっていると指摘しています。
第4回:0円生活の「公・共・私」 - はぐらかし・やり過ごし・じゃれ合い的生活のすすめ

 「二元論は『一』を隠し持っている」というこないだ書いた話に照らすならば、「公/私」という二者択一にも、それが択一である(かのように装い、錯覚させる)という地点において両者が結託する〈一〉がある。すでに指摘があるように、その両者の結託こそがネオリベラリズムと呼ばれるものだ。

ネオリベラリズムは、グローバルな資本蓄積にとって最大限に有利になるように、グローバル資本主義の流動性を、規制緩和や短期的でフレキシブルな資本蓄積と雇用形態によって推進させ、経済的不平等を拡大・再生産して階級権力を再確立するという基本政策を採っており、その経済的不平等を、自己実現の称揚と自己選択=自己責任からなる「個人化」のイデオロギーによって正当化する。ネオリベラリズムの特徴は、短期的でフレキシブルな雇用形態と個人化によって生ずる社会基盤の流動化や不安定さを利用して、ナショナリティやローカリティや宗教・近代家族の価値などの偽の「恒常性」を生産する点にある。
小田亮「共同体と代替不可能性について──社会の二層性についての試論──『日本常民文化紀要』第二十七輯

内藤(祐希)選手@名古屋は、きょうはシングルスのみ。フルセットをしっかり勝ち上がった。ってスコア以外のことはなんにも知らないけど。

シングルス三回戦
Yuki NAITO (JPN) d. Jimena RODRIGUEZ-BENITO (USA) 6-3 5-7 6-4

本日( 27日)の電力自給率:80.3%(発電量:13.5kWh/消費量:16.8kWh)

Walking: 2.6km • 3,539 steps • 37mins 24secs • 123 calories
Cycling: 1.2km • 6mins 53secs • 26 calories
Transport: 34.8km • 33mins 15secs
(2016年10月30日 20:37)

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