/ 23 Jun. 2007 (Sat.) 「誰もまさかあれをパンに入れるとは」
■天気は夏。庭ではバラが咲いている。レモンの木も元気がいい。
■妻が買ったホームベーカリー(右写真)が金曜に届き、それで焼いた食パンを朝うまいうまいと食べる。妻から購入の相談を受けてすぐはうまく像が結ばず、もっとこう大掛かりな装置をぼんやり思い浮かべたが、まあその、いわば「炊飯器のパン版」なのだね。「ぱんばん」というのがどうにも語呂が悪くていけないというのであれば「西洋版」とか、「小麦粉版」とか言い換えるのでもいいかもしれないが、ともかくそういうものだと理解した。理解した矢先にあれだが、でも「ごはん版」に較べると「パン版」は「おかま」に入れるものが複雑だ。はたで見ているだけだが、どうもいろいろ入れている。「スキムミルクがなければ牛乳で代用いただけます」とはいったい何を言っているのか。
■そしてまた、そうした複雑さを前にして私が思ってみるのは、いま現在のこの食パンのレシピに至るまでに人類がはたしてどれぐらいの歳月をかけ、いかにしてそこに辿り着いたのかというその壮大な時間のことである。勘だけどね、一代じゃないね。何十、何百世代にもわたる食の冒険がおそらくは繰り広げられた。死んだ奴もいただろうな。「パンを作るときにけっしてこれを入れてはいけない」というふうに、その死はパンの歴史に貢献することができただろうか。ひょっとしてその者はこっそりと試して死んだために──そして、誰もまさか「あれ」をパンに入れるとは思ってもみなかったために、あるいはその死は無駄に終わったのかもしれない。それまでただ指差しによってだけ示されていた「あれ」に、名前が付けられたのはその者の死からどれほど経ってからのことだろうか。
■と、そんなことを考えつつ(というのは嘘だが)、ひと月以上ぶりに「Yellow」を更新したあと、ふたりで買い物に出た。街の本屋で平野甲賀『僕の描き文字』(みすず書房)と平野甲賀『文字の力』(晶文社)を買う。
■『文字の力』のほうは純粋な作品集になっていて、
おびただしい描き文字装丁のうちから選りすぐった54点に、未発表「架空装丁」12点
が収められている。ぱらぱらとめくっているだけで楽しいのは、まず、私もまたロシア・アバンギャルドに弱い者だからだ。
考えてみれば、二〇世紀のアヴァンギャルド運動といったって、あれからまだ五十年か六十年しかたっていないんだからね。そのつづきをぼくがやったって、ちっとも不思議じゃないんだよ。いまだにその渦中にいて当然なんじゃないかな。(「甲賀流コンピューターとのつきあいかた」/平野甲賀「文字の力」・著者インタビュー)
『僕の描き文字』のほうはエッセイ集だが、こちらにもときおり実作の描き文字が挿入される。たとえば「暗闇へのワルツ ウィリアム・アイリッシュ 高橋豊訳 ハヤカワミステリ」の描き文字装丁。「暗闇」の二字にどちらも「音」があることを、いまさらのように気づかされてちょっとはっとする。
■装丁家のなかで好きな人、あるいは「よく出くわす人」というのは平野さんのほかにも何人かいる。菊地信義がまずそうだ。よく出くわすし、この人もだいたいすぐわかる。すぐにはわからない場合もあるが、どことなくこれいいなあと思っていると案の定、菊地さんだったりする。菊地信義といえば古井由吉の作品群がまず思い起こされる。最近買った本では丹生谷貴志『ドゥルーズ・映画・フーコー』(青土社)がそうだった。などなど。
■あ、そうそう、アマゾンで予約しておいたニンテンドーDSのソフト「ゼルダの伝説 夢幻の砂時計」も発売日の今日届いた。冒険は妻が担当する。
■ところで、宮沢さんにちょっとしたメールを書き送ったのだが、そのさい『ニュータウン入口 または私はいかにして心配するのをやめニュータウンを愛し土地の購入を決めたか』の、今度の二回目のプレビュー公演を指してついつい「実験公演」と書いてしまう。送信ボタンを押した直後に間違いに気づき「あ。」と思ったのだった。その後更新された「富士日記2」の5月24日付の記述には、
このプレ公演の第二弾「準備公演」は、
と公演名称にかぎ括弧が付けられ強調されていて、まあそういう意図ではないのかもしれないけれど、なんだか暗に指摘されているような心持ちになった。
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