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Apr.
2009
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/ 9 Apr. 2009 (Thu.) 「街的であることと、あらかじめ遅れてきた人であるわたし」

昨晩『シャーリーの好色人生と転落人生』の公開記念ライブきのうの日記を参照ください)に行ってしまったことも手伝って、きのうからきょうにかけては会社に一泊し仕事をする。
そうそう、これを予約した。

◎JUNKUトークセッション:廣瀬純×青山真治「運動と映画──『闘争のアサンブレア』をめぐって」

日時:2009年5月16日(土)18:30~
会場:ジュンク堂書店新宿店8階喫茶コーナーにて。
料金:1,000円(1ドリンクつき)
定員:50名
受付:7Fカウンターにて。電話予約も承ります。TEL.03-5363-1300
ウラゲツ☆ブログ : トークセッション「運動と映画」廣瀬純×青山真治

ふと気づくと上山君のサイトが更新(リニューアル?)されていた。恭子ちゃん(上山夫人)が日記の主戦場をmixiに移したとかで、上山君の日記だけが載る体裁にかわり、新しい日記がふたつアップされている。ところでその日記の日付で、曜日がずれている(7日(月) 、8日(火)となっている)のはあれか、いま上山君が中国にいるからか。ん? あれ? そんなことはないか。
その8日付の日記のなかで上山君は、「街的」なる概念を話題にしている。ちょっと長いが、「こちらを参照ください」などとリンクを張ってもどうせクリックしてくれない読者(妻など)のために引用しておくと、こうした話である。

 唐突だがひとつ紹介しておきたいブログがあって、それは桃知利男という(個人的にはまったく面識がない)方の、名前はそのまんま「モモログ」というブログなのであるが、このひとは浅草という場所を足場にしてひたすら「街的なるもの」を擁護、保護、啓蒙宣伝、のべつくまなくしていて、この「街的」というのをかいつまんで説明するのがむずかしいのでなんとも困るのだが、要するに顔の見える関係の持つ不合理さを愛する、というかそれなくしては社会は営まれない、ということをレヴィー=ストロースや中沢新一や小田亮 や相馬君とはまた別の視点と語り口で説き続けていて、まあ、このブログを毎日読み続けていると、愛知のクルマ社会で感じる息苦しさの正体とか、中国で冷蔵庫をつくることの意味することとか、派遣切りを嘆きながらも百円ショップを利用してしまう矛盾やらがおぼろげながら見えてきて、同時にうちの会社が、会社の中だけで見ればとても「街的」であることに安寧を感じるから辞めるに辞めれなくなってしまい、でも少なくとも自分の立ち位置がクリアになっていく安心感を得ることはできたりして、とこのようにとにかく「街的」を説明しようとすると不合理で冗長でなんだか分からなくなるのが宿命なのだが、面白いから読んでみてとしか言いようがない。
 興味を持たれた方は、とりあえず大阪の岸和田を足場に「街的」を擁護する江弘毅との「浅草・岸和田往復書簡」あたりから読むのが入門としてはいいのではないかとは思うが、これも十分長く、分かりづらいけど、でも面白いから読んでみてとしか言いようがないのだ。そして「街的」の概念が通じ合うひとと私はお話がしたいのである。

 でまあ、紹介されている「浅草・岸和田往復書簡」をそのアタマから少し読む。上山君があらかじめ牽制しているようにけっしてわかりやすくはないその議論のなかで、おそらく理解の手がかり/足場となるだろうは「時間」という感覚じゃないかと思う。たとえば次のくだりは比較的わかりやすい。

さて、〈贈与〉と違って〈交換〉というのは貸借ナシですね。つまり、無時間モデルですね。だからそういう〈交換の原理〉にどっぷり浸った奴らは、「いま、ここ」で最大のリターンを得ようとする。こういういうのは、こちらでは「百年早いわい」と言われます。まことにさもしい。しかしミシュラン東京版に群がる人はこれを求めますね。そして「いま、ここ」で「1万円」出して、それ相応のものが食えないと、ぶちくさ文句を抜かす人のことを「消費者」といいます。街で「食べる、飲む」ことについては、子どもですね。だからどこでも同じメニューで、加えて「スマイル0円」とメニューに書いてあるマクドナルドを「リーズナブルだ」と思う。

マクドナルドは「安い」。それで良いのだと思うのです。
〈食〉にリーズナブルを求めてしまうのはあきませんね。地元・大阪下町のうどんや鮨、お好み焼きがほんまに旨いと思うのは、オープンキッチンやカウンターを挟んで、出す方の「これでどや」、食べる方の「よっしゃ」のコミュニケーションそのもので、そのコミュニケーションとは「交換」の原理じゃないということです。じゃんけんのように、同時に「せーの」で双方から何かが出され、それで優劣や強弱、勝った負けたを計るものではない。必ず時間的な線形にやりとりがずれる。[太字強調は引用者]
140B劇場-浅草・岸和田往復書簡|食べ物に、店にリーズナブルなんかあるかいな街場の店を消費することはできない。

 この、〈線形的な時間〉の存在をたえず意識することができるかどうかということが、さらに後段で語られる、

つまり、いつも「わたしは、あらかじめ遅れて来た人」なのだと思えるのかどうか
同上

ということにもつながってくるだろう。「街的」であることの実践においてはおそらく、この〈つねにあらかじめ遅れてきた存在であるわたし〉という認識がきわめて重要な位置を占めるのではないかと思われ、そして、それはむずかしいことであるのと同時に、とてもわかりやすい指針であるようにも思える。
読んでいて思ったことはもうひとつ、

とにかく「街的」を説明しようとすると不合理で冗長でなんだか分からなくなるのが宿命なのだが

と上山君が象徴的に書いていることについてだ。それを理路整然と語れないのは、むろん「街的」という概念そのものが一筋縄ではいかないということがひとつにはあるだろうし、語る側(上山君やわたし)がまだそれを充分には見通せていないということもそうだろうけれど、一方で、その説明がやけに不合理さを含んだり、やけに冗長になったりするのはたんに、その(たとえば往復書簡の桃知さんや江さん、あるいはわれわれの)「語り口」に起因する部分が大きいようにも思え、と同時にしかし、「街的」であらんとするならばその「語り口」を否定することはできないのであり、厄介だなあとは思いつつも付き合わなければならない──だって、目の前にいるその人はそういう人なのだから──のであって、その意味で、まさに「街的」は宿命的に不合理なのではないかと思えるのだった。
わたしはいま一軒家に住まっていることもあり、町内会というやつに一応入っているのだが、先日回覧板で回ってきたのはその「定期総会のお知らせ」である。町内会の組織はさらにエリアごとにいくつかの「部」にわかれ、「部」のなかにさらに「組」があるのだが、そういえば、一年ごとの持ち回りであるところの「組長」の役目が、今年度はうちに回ってくるんじゃなかったかということをそのお知らせを読みながら思い出したのだった。もうここはひとつ、「委任状」など出していないでその定期総会にも出てやろうかとさえ思ったのだが、ついいましがた知ったのはその日(19日)、シネマ・ロサでは冨永(昌敬)君、笠木(泉)さん、宮沢(章夫)さんによるアフタートークのイベントがあるということで、それともろにかぶるのだった。ああ、悩ましいな。

(2009年4月11日 18:44)

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