/ 17 Oct. 2011 (Mon.) 「四日目」
■そういえば母が観にくるんだったと思い出したこともあって、きょうもまた夜、劇場へ。そしてまた映像ブースから観る。きょうはなんだか、矢沢(誠)さんがよかった。
■おとといの日記に、
──真似るひとと踊るひと。語り手と焦点化人物。そしてまたもや出来事の無理解のための主人公。休憩と忘却。などなど。などなど──。
と(自分のなかの内なる)キーワードを羅列したばかりだけれど、そのキーワードでそれぞれ具体的に何を書こうと思いついたのだったか、さっそく忘れかけているわたしがここに居り、まあね、そういったものは思いついたときに文にまでしておくにこしたことはないのだった。
■というわけで書いておけば、やはり、どうしたってしみじみとした感動をおぼえるというのは、「沼野」と「ドキュメンタリー作家」がふたり向かいあう第三章のごく短い場面だ。このさいちょっと乱暴に──こまかな読みの手続きもエクスキューズもなしに──言わせてもらいますがね、だってこれ、〈1986年の宮沢さん〉と〈2011年の宮沢さん〉が出会ってる(出会わされてる)わけじゃないですか。だからこそ、
というふたりの対話にはぐっとくる響きがこもるのだし、そしてまた、沼野 [……]だから、ここであなたと私は別れなければなりません。
ドキュメンタリー作家 なぜですか? せっかく会うことができたんですよ。こんな場所で。[……]
沼野 でも、いつだってカメラはあるじゃないですか。
というせりふによってもうひとりそこに呼び出される「カメラ」こそが、役でいえば「生徒1/記述者1」──上村聡!──が象徴するところの〈語り手〉=〈この作品をつくっている宮沢さん〉であるにちがいないとわたしには思われ(そのことは、この舞台の上村聡がなぜあんなにふざけているのかとも無関係ではないだろう)、つまりここでは、〈2011年の宮沢さん〉と〈この作品をつくっている宮沢さん〉がことなるものとして、はっきり対立させられつつ接合されている。
■あ、思い出した、おととい羅列したうちの「語り手と焦点化人物」って、そうだよ、この話だなたぶん。
■てなことを、つらつら考えながら観ようとしていた矢先、映像ブースにはちょっとした〈どっきどきタイム〉が訪れ、結果的にはべつになんともなかったのだけど、終盤しばらくのあいだはまったく鑑賞どころでなかったのだった。
■本日(17日)の電力自給率:43.0%(発電量:11.1kWh/消費量:25.8kWh)。
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