/ 2 Dec. 2013 (Mon.) 「児玉君が、チョットこの」
■妻は「どうしても勝てない」と言っていた敵を倒し(ゲームの話です)、わたしは雨と太陽のちからを借りて大地に虹の橋をかけた(ゲームの話だと思います)。
■下は、きのうの日記で『100%トーキョー』に出ていたと書いた児玉(悟之)君のツイート。なるほどなあと思わせられる。
100%トーキョーに参加して驚いたことのひとつに、3日の間に同じ質問に対する答え(Yes or No)が変わることがあるということが。他の参加者も言っていた。なにがあったってわけじゃなく、日によって届く言葉と届かない言葉があったり、ふっと自分も他人も変化しているのだということが。
2013年12月2日 16:58
■さてその児玉君は 11月21日の自身のブログで、
コンピュータでやっていたことのいろいろを、紙に移行させようと思いつつある。
無題 | KODAMA Satoshi
と書き、いずれ遠くなくブログ(で日記なり雑記なりを書くこと)をやめるだろうことを宣言していて、いや、特段留意させようという気もないものの、「そうかあ、行っちゃうのかあ」とわたしは少しさびしく、また、「児玉君が、チョットこの、遠方のほうへ行っちまって」といった案配に──それは 1961年1月31日のこと、三木助の代演で東横落語会に出た志ん生がネタ出しされていた「芝浜」を演った、そのときのような心持ちで(って、児玉君死んでないけどさ)(あと、それどんな心持ちかわかんないけどさ)──、こうなればわたしが代わりに書こうじゃないかという気概でもって、いまこのモニタの前にいないわけでもない。
■まあこのひと、以前にも当時の個人サイトを畳んでそこに載っていた日記をごっそりネットから消したことがあり、やめるとなればきれいさっぱり無くすたちなので、無くなるのはちょっと惜しいなあと思える回もちょこちょこあるこの児玉君のブログ、もしこの場に、暇でどうしようもなく、無料配布されているからといってもう何度かクリアしているドラクエに手を出してしまうようなかたなどおられるようでしたら、いまのうち、ぱらぱら読んでおかれるのもいいのではないかと思います。たとえばそうだなあ、
感覚の話だけど、テキストには大小がある。
という書き出しではじまって「小さなテキスト」と「大きなテキスト」の話をする、10月14日の「ただ大きい」とか、わたしはとても好きなのです。
〔略〕
と、他にもいろいろあるけど、やっぱりいちばんおもしろいのは、ただ大きい、という在り方。「すげー広い場所、見つけたー」とか「ここにこんなの建てるぜ、どう? すごくない?」とか、そんなふうに誰かに報告したり質問したりするのは違う。
自分だけの広い場所に誰にも言わないまま興奮して、ただ大きい「なにか」だけを想いながら、誰にも言わずに建てる。完成の形は、自分が決めることだ。
そして完成の後に残されている行為は、ただそこを去ることだけ。
ただ大きい | KODAMA Satoshi
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