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Oct.
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/ 11 Oct. 2016 (Tue.) 「『是でいいのだ』を観る / それが山村さんだ」

えー、お便りを二通── 一通は封書ですね──いただいてます。前回の日記(「入れ分けたい、昔気質なおれ」)について、「昔気質」の言葉の使い方をまちがっているのではないか、というご指摘。ありがとうございます。えー、はい、まちがえました。以降は気をつけます。

夜、新宿眼科画廊で小田尚稔の演劇『是でいいのだ』を観る。山村(麻由美)さんが出演。
「小田尚稔の演劇」シリーズは山村さんが出ていることもあり過去二作品(『簡単な生活』『凡人の言い訳』)とも観ていて、山村さんのひとり芝居だった前作『凡人の言い訳』の折りなどはかなり早い段階で公演情報に触れ、作品のモチーフになるというプラトンの「ソクラテスの弁明」を事前に読みもした(三嶋輝夫訳、講談社学術文庫)のだったけれど、今回はまったく迂闊に過ごしていたところを Facebookに教えられた次第で(誰々がこれこれのイベントに参加しますよというあのリマインダー。つまり公演初日に、山村さんはきょうこれに参加しますよと教えられた)、直前も直前、山村さんにチケットを頼んだのだった。
作品については @HRAK_GM( nekooto)さん1]が連投ツイートで激賞しており、それがわりと言葉を尽くしている感があるのでまずそれをまとめて引用したい。

1:@HRAK_GM( nekooto)さん

IDのほうは「ひらけ、ゴマ」かな? 以前の表示名が「 nekooto」で、いまは「 SUZUKI(nekooto)」になっている。「ネコオトさんが激賞してたよ」と終演後の山村さんに言うと、「ネコオトさん? あ。あー、ネコオトさん。知ってます、石のアイコンのひとでしょ?」と言うので「そうそう」と応じたわたしだったが、いまあらためてアイコンを見るといつのまにか前と変わっていた。桃? 一見して桃のようだが、オリジナルサイズの画像を見るとちょっと質感がちがうようにも思える。なんだこれ。これも石? か?

@HRAK_GM: 小田尚稔『是でいいのだ』とても良かった。当パンにあるのでネタバレにはならないと思うが、『三月の5日間』へのオマージュとして東京の土地を描写したこのアプローチは見事。とにかくも役者さんが全員素晴らしいが感想はまた後ほど。(また酔ってる)
2016年10月9日 20:14

@HRAK_GM: 小田尚稔『是でいいのだ』@新宿眼科画廊。5人の登場人物の自制〔おそらく「時制」だろう/引用者註〕が微妙に曖昧なモノローグ。人物造形は類型化されている。それは200年以上前のカントの生を肯定する思考がホロコーストという人類の禍根をくぐり抜けたフランクルの体験を経てなお現代に繋がるものとして対照される。→
2016年10月9日 23:10

@HRAK_GM: →類型化によって200年の時間は過去と未来にわたっていまの私たちの物語と接続するのだがその作劇と演出の手際は極めて繊細だ。役者の身体を通じて血肉化され、彼らの物語として生々しく痛々しく、そして愛おしくそこに出現する。この愛おしさは人類史を通貫するような気さえ起こさせる。→
2016年10月9日 23:21

@HRAK_GM: →作者が目論んだ『三月の5日間』へのオマージュは東京というトポスとして現れる。『三月の5日間』は遠い国の戦争と渋谷のホテルという日常と非日常が混濁した場の時間と距離を対比させた物語ではなく、いまこの場所で体感されるリアリティをポンっと置くように描いたものだと思っている。→
2016年10月9日 23:34

@HRAK_GM: →だから今作で執拗に描写される東京の具体的な風景、移動する視点と心象風景を語る様は、それが『三月』におけるイラク戦争と六本木〜渋谷に対する311の震災後のものとして、東京で「被災」した私のリアリティとも重なり強い共感を持った。→
2016年10月9日 23:45

@HRAK_GM: →自分が観てきた限りでは『三月の5日間』への批評的な作品として、震災を描いた作品として、ベストのものだったと思う。5人の役者全員の素晴らしさがそれに寄与している。言ってみれば、全員が松村翔子演じるミッフィーちゃんのようだった。
2016年10月9日 23:56

@HRAK_GM: 酔っているのでちょっとばかり大げさに書いてしまったかもしれません。でも『是でいいのだ』とても良かったです。台本も買ったので後で読みますが多分台本では今作の良さは半分くらいしかわからないと思う。体調の悪さ押して観に行ってよかった。
2016年10月10日 0:08

@HRAK_GM: @HRAK_GM 「震災を描いた作品としてベスト」という表現は謹んで訂正します。『是でいいのだ』は「震災を描いた作品として個人的に最も共感できるもののひとつ」です。
2016年10月10日 17:55

 あと、ついでにこちらも。

@HRAK_GM: RTした犬飼勝哉『サークル』稽古場日誌より。〔リンクは引用者〕
〈以前からモノローグ多めの演劇をやっているけど、今回はその度合いはかなり高い。気を抜くとただセリフを言ってるだけの状況に陥る〉→
2016年10月12日 1:37

@HRAK_GM: →〈それが「演劇」になるためには、セリフを言う時の(またはセリフを言っていない時の)意識の体重移動のようなものが必要で、それが繊細に決まれば、それだけである程度の見世物になると思う。〉
2016年10月12日 1:38

@HRAK_GM: →他作で大変恐縮ですが、小田稔尚の演劇『是でいいのだ』を観ている時に感じたことがこの文章に表現されていると思った。
2016年10月12日 1:43

 いやあ @HRAK_GMさん、しますねえ、言語化。もうね、このあとになんのわたしの感想が要る? ってな感じですが、@HRAK_GMさんも書いている「時制が微妙に曖昧な」というところが戯曲としての仕掛けになっていることは、ちょっとわたしからも指摘しておきたいところだ。
もちろん、時制を曖昧にしている最大の要因は女 3(豊島春香)の存在である。2011年3月11日の地震発生以前の時間からはじまり、男女 5人の物語があたかも同時並行的に進むかに見える(/見えた)この舞台において、そこに差し挟まれる時制の〈ずれ〉を大きく、はっきり意識させられるのは、たとえば 5分の休憩を挟んだ後半開始時、女 2(山村)と男 1(細井準)のシーンが震災から 1年半が経過した 2012年秋という時間に一気にジャンプしているのにたいして、それにつづくシーンの女 1(板橋優里)は依然、震災当夜の「帰宅」途上にある──休憩前の「南阿佐ヶ谷」から、いまやっと「吉祥寺」まで歩いてきた──というその箇所だろうけれど、しかしそれよりもはるか前から、女 3だけがまったくべつの時間を生きている──彼女だけが(少なくとも劇中では) 3月11日の地震を経験していない──ことは、いくつかのセリフからあきらかだ。国分寺に住む女 3はその初登場シーンで、

女 3
今はもう、北口周辺は再開発が進んでいるからなにも無い。

と言うのだが、国分寺駅北口の再開発が着工するのは(はっきりとは調べられなかったが少なくとも)2013年以降のことであり、「なにも無い」ことからすればもっとあと、2014年か 2015年といった時間に彼女はいることになる。
 そんな女 3が、あたかも他の登場人物たちと同時並行的に存在するかのように錯覚させるセリフのひとつはたとえば、

女 3
あ、横に住む女の子は大学生で、最近は就職活動で忙しいみたい、リクルートスーツなんかも着ちゃって、カツカツ足音を鳴らして、慌しく、毎朝早く出ていく。

というようなもので、「横に住む女の子」がすなわち女 1であるかのようにそのセリフは響くわけだが、しかし、〈彼女はひとり、はじめから震災後を生きている〉という前述の事実を優先させるならば、「毎朝早く出ていく」その女の子は女 1とはまたべつの就活生であるという、単純な結論に至らざるを得ない。
 同様にして、女 3の思い出語りに登場する「彼」はときに男 2(橋本清)を思わせ(「岩崎邸」での思い出、「六本木」のクラブでの思い出など)、さらには男 1さえもダブらせる(「あー、、カラオケにもよく行ったし、映画が好きな男の子だったから、彼がお勧めする DVDを借りて一緒にみたり、」)のだったが、それらもまた、東京におけるありふれたデートスポットで似たような経験をもつ、それぞれべつの男女なのだと考えるのが妥当だろう。
 ちなみに「岩崎邸」での思い出について言えば、男 2の語るそれと女 3の語るそれは微妙に描写が異なっており、

男 2
俺、あの、建築物観にいくの好きだったから、夢中になって観てたら、そこ、土足厳禁だったらしくて、俺全然、気付かず靴履いたままで、そのときチアキちゃんにめっちゃ注意されたな、、、

とここでは土足の男 2を注意するのがチアキちゃんであるのにたいして、

女 3
で、その彼、そこ土足厳禁なのに、警備員の人に注意されるまでそのことに全然気付かず、靴を履いたまま、建物のなかを熱心に見学しているのが、みていて可笑しかった。

と、女 3の彼を注意するのは警備員であり、「気付かず、靴を履いたまま」の彼を女 3はほほえましく見ているだけなのである。
 ここでまたもや他人のツイートで相撲を取って恐縮なのだけれど、

@keredomo_: 「西新宿のマクドナルド」の侘しさから始まって、デートの場所としての「森美の展望台」も「スタバ併設の六本木TSUTAYA」も「旧岩崎邸庭園」も、東京に暮らしていれば誰かと何かしらの思い出が付着している場所で、その「誰でも性」が演劇の時間と舞台の中で明らさまにされていて、人間、と思う
2016年10月11日 18:56

 つまりは、こういうことではないかと思われるのだ。
 そしてそれは、劇中で引用されるカントの『道徳形而上学の基礎づけ』の一節、

道徳法則一
「あなたの行為の〔習慣〕が、あなたの意志によって、あたかも普遍的自然法則となるかのように行為せよ」

と、それを補足して男 2が言う、

男 2
そう、この文章、は、「いつでも、どこでも、だれにでも」当てはまるように、人は行為せよ、って言ってるんだけど、〔後略、太字強調は引用者〕

というセリフとに、(カントの意図を超えて)つながってくるように思われるのだ。
いや、えーとね、ほんとはこれらの〈指差し確認〉を経て、この地平から論をスタートさせなきゃいけないところなんだけど、時間切れです。それはまたいつか。誰かが。

で、山村さん、当パンに載っていたけども 12月に京都で「 chikin」の公演をやるんだね。って観たことないですけどね、chikin、わたし。でもって行きませんけどね、さすがに、京都は。ってな話を終演後に振ると、「じゃあ口で説明しますよ、こう、スマホで写真見せながら〈こんな感じで、これがこうなって〉っていうのを」と、本公演後の「スマホ公演」開催を約束してくれる山村さんなのだった。楽しみだな、スマホ公演。
別れしなに「また何か誘ってください」とも言われ( 7月に桂南光の独演会に誘い、観に行った)、折しも「卓球問題」の日記を書いている途中だったわたしがつい「卓球どう?」と言えば、「やりましょう」と即応する山村さんだ。なにせ山村さんはたいていのことに「やりましょう」と言ってくれるのであり、たまに「やですよ」とも言う。それが山村さんだ。
本日( 11日)の電力自給率:29.2%(発電量:4.8kWh/消費量:16.4kWh)

Walking: 5km • 7,194 steps • 1hr 13mins 31secs • 236 calories
Cycling: 1.1km • 6mins 15secs • 23 calories
Transport: 71.8km • 1hr 29mins 23secs
(2016年10月12日 23:36)

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