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Feb.
2017
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/ 23 Feb. 2017 (Thu.) 「話のつづき、その一」

ロビン。このかたちは「ピーナッツ」と呼び慣わされていた。2005年4月。

早尾貴紀『国ってなんだろう?』 は、「国民国家」がなんら〈普遍的〉な価値や枠組みではなく、たんにいまの時代に〈一般的〉であるにすぎないものだということを語り、その歴史性を語る。また、それが歴史的なものだということは認識しているつもりでも、たいていは線条的に語られるその歴史というものをつい〈進歩/発展〉として捉え、「いまここがもっとも進んでいる(他は遅れている)」と考えてしまうために見えにくくなっている、〈つぎに来るもの〉や〈またべつのもの〉の可能性を示唆してもいる。国民国家という理念が孕む矛盾をもっとも先鋭的、臨界的に体現して(しまって)いるのがユダヤ人国家・イスラエルであり、そして、〈またべつのもの〉としてその可能性が参照されるのがディアスポラの思想──いわゆる「ユダヤ人の離散」を指すのが「ディアスポラ」という言葉だが、では、離散し、千年のあいだ「国」をもたなかったというそのユダヤの宗教、文化、伝統は消えてなくなったの? そんなことないじゃん、ぜんぜんそんなことないじゃん! ということ。簡単に言うとね(間違い、語弊があったらすいません)──である。
いっぽうで、たしかに(一般性においての)進歩/発展はある。それがいかに未だ不完全なものであるにしても、人類は二度の世界大戦の果てに、曲がりなりにも「国連」や「国連憲章」という、世界政府的な考え方を手にしたのだ。経緯を辿ればそれ以前に、第一次世界大戦の反省から生まれたパリ不戦条約( 1928年)がある。

 この条約〔パリ不戦条約〕は国際紛争解決のための戦争と、国家の政策の手段としての戦争の放棄を宣言しています。ですから、これ以降はどこの国の軍隊も自衛のための軍隊で、自衛のための戦争をしているというタテマエです。実際はそうなっていないという批判はありますが、ともかく、自衛ということにしないと軍隊を持つことや戦争をすることを正当化できなくなりました。
早尾貴紀『国ってなんだろう? あなたと考えたい「私と国」の関係』、p.206

 つまり日本国憲法第9条を持ち出すまでもなく、どこの国だって、自衛を口実としない、侵略戦争は違法なのである(そしてもちろん、9条の本来的な意義は自衛のための戦争をも放棄したことにあったわけだ)

 〔日本国憲法前文は〕「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」ともわざわざ書き込んでいます。平和憲法が謳っているのは、一国平和主義なのではなくて、国際協調にもとづく平和主義です。それは、2度にわたる総力戦で絶大な犠牲を払った人類が行きついたひとつの結論でした。平和憲法はあきらかにパリ不戦条約の理念を反映させた最先端の憲法だったのです。
同書、p.208

 人類は、そこまで来たはずなのだ。そこから先を──国連憲章の理念が現実に反映されていないこと、国連の仕組みや憲章自体にいまだ不完全と思われる点があることも含めて──考えなければならないはずなのだ。
国民国家とは何か、国民とは何かを考えるとき、やはりまず思うのは「動員」ということだ。

 強制的な動員でなくとも、生きている人は敏感なので、まずいな、居心地が悪いなと感じると、言葉で言われなくても感覚で察知して、過剰に従順にしようとすることがあります。人一倍がんばることで自分が「中央」と同じだと証明しようとするのです。東北地方は明治維新のときには力で「国」に組み込まれましたが、そのあとはアイヌモシリを北海道として平定する最前線となり、さらにアジア進出の最前線になっていきました。
同書、p.132

 これは前にもおんなじことを書いたのだけど2013年12月3日付「たぶんあなたのことではない国民」。これ、けっこうよく書けてるよ)、やっぱり『ペンギニストは眠らない』の、「『子供っぽい』のは大人。『大人げない』のは大人」というアレを思い出す。それに倣うなら、「非国民」なのは国民、なのである。

「非国民」という非難が意味をなすのは、本来「国民」である人にたいしてである。つまり「国民」とはあなたにとって所与のものではなく、ことあるごとに「国民になる」ことが求められるものなのだ。
2013年12月3日付「たぶんあなたのことではない国民」

ぜんぜん関係ない(?)けど、中学のときのうっすらした記憶もついでに思い起こされ、なつかしいので書いてしまうと、あれは文化祭の何かだったか、体育館のステージで希望者が思い思いの演し物(バンド演奏とかそういうの)をするというようなイベントがあった。それの予選というか、事前選考のようなものがあって、生徒会活動に関わっていたわたし(ちなみに会長だったこともあった。このときにそうだったかは忘れたけど)は選考する側の立場で、何人かの先生・生徒らとその場にいたのだ。あらかじめ渡されていた選考基準のひとつに「学生らしさ」云々をいう項目があり、選考時、先生のひとりがその「学生らしさ」を持ち出していくつかのグループに難色を示したので、「そもそもみんな学生なんだから、われわれのすることがすなわち『学生らしい』ことでしょ」と反論した気がする。なんかそんな記憶。やな中学生である。
「中学生」も「国民」も、本来まったく制度的・形式的なものなのだが、そこに何か均質的で実体的なものが滑り込んでくる、その矛盾にこそ目を凝らさなければならない。
ところで、早尾貴紀『ユダヤとイスラエルのあいだ──民族/国民のアポリア』 の前半の論文では、イスラエルという存在の「普遍性と特殊性」が問題として扱われているのだが、これ、(小田亮の整理に倣い、)〈普遍性 - 単独性〉という軸と、〈一般性 - 特殊性〉という軸とを分けて捉えるくせのついているわたしにとっては、ちょっと対立軸にねじれがあるのではないかとつい受け取ってしまうところだ。いや、たんに用語の問題(言葉の定義のちがい)にすぎないのかもしれないけれど、しかしそのひっかかりをもう少し考えてみることで、自分なりの言葉を紡ぐことができるのではないかと予感されるところもあり、それが「話のつづき、その二」になる予定だとはいうものの、いつ書かれるかはまだちょっとわからない。

Walking: 3.4km • 4,673 steps • 48mins 24secs • 160 calories
Cycling: 2.4km • 12mins 41secs • 52 calories
Transport: 70.1km • 1hr 18mins 14secs
本日の参照画像
(2017年2月26日 23:28)

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