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May.
2017
Yellow

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/ 30 May. 2017 (Tue.) 「嘘つきたちへ」

ロビン。2012年2月。

1:31
いいねじゃない。じゃないんだけどさ。
7:15
Yellow。25日付「応援が足りなかったのだ」

「いいねじゃない。じゃないんだけどさ。」というそのつぶやきは、大場(みなみ)さんのこのツイートに「いいね」を押したあとのものだ。

@obami23: 嘘つきたちが嘘ついたり嘘ついたり嘘ついたりしてる様子がテレビを通してでもバシバシ伝わってくる今日このごろ。その嘘が嘘つきたちの決定でもって嘘じゃなくなって、どこにもなににも筋を通してないから、いまに崩壊して世界中から信用されない国になるよ!ばかやろう!
2017年5月29日 20:40

 もちろん、まず第一にこの苛立ちにたいしては寄り添いたい思いがある。もし大場さんが臼で餅をつきながらこれを言うのだったら、杵の振り上げられた瞬間に餅をひっくり返してやりたいという気持ちもある。
とはいえ、ここで大場さんが行う「嘘つき呼ばわり」こそは、デリダが『嘘の歴史 序説』において、その有効性を批判的に検討していた当のものでもあるだろう。はたして、彼らは「嘘つき」なのか、と。
古典的な定義に拠るならば、嘘はたんなる誤謬ではない。ある発話が「嘘」であるためには「内容がまちがっていること」は十分条件ではなく(場合によっては必要条件ですらなく)、「その発話によって相手をだまそうとする意志」がなくてはならない。その意味において、嘘は「行為遂行的」な発話なのだ。

嘘つきは自分が何をしているのか、嘘をつきながら何をしようとするつもりなのかを知らなければなりません。そうでなければ彼は嘘をついていないのです。
ジャック・デリダ『嘘の歴史 序説』(未來社)、p.20

定義上、嘘つきは真実の全体を知っているとは言わぬまでも、真実を知っています。少なくとも彼が考えている真実を知っています。自分が言わんとしていることを知っています。自分が考えていることと言うことの違いを知っています。すなわち、嘘つきは自分が嘘をついていることを知っているわけです。
同、p.32-33、太字強調は原文傍点、以下同じ。

 したがって「嘘」と対になるのは「真実」ではなく、「真実を言わんとすること」であり、そうする「誠実さ」である。だからわれわれは、彼ら「嘘つき」たちの「不誠実さ」をこそなじることになる。

「もちろん、あなたはいつでも嘘をつくことができます。約束しながら嘘をつくことができます、誰が一度も嘘をつかなかったでしょうか」。カント自身、おそらくこう言うでしょう。「しかしそのとき、あなたは語ることを止めています、もはや他人に語りかけてはいません、あなたは言語というものを諦めてしまったのです。あらゆる言語は誠実さの約束によって構造化されているのですから」。
 これは反駁するのが困難な、じつに力強い命題です、可能事の亡霊を、誠実さ=真実性に間違いなくとり憑き続けるありうべき嘘の亡霊を別の仕方で思考しないかぎりは。この亡霊がのちに回帰してくるようにしておきましょう。
同、p.42

 けれども、「誠実か否か」という決定はあえて言えば、当然ながら不可能なのであり、とりわけ政治における嘘についてそれが不可能なのは、政治が扱う対象(国家)そのものが「行為遂行的な次元」をもつからである。そうした決定不可能性のなかにとり憑き続けるこの「嘘の亡霊」については、宮﨑裕助さんの書評から、その手際よくまとめられた解説を引いておきたい。

 このような事例〔戦後50年のその年に、ナチス占領下のフランスにおけるユダヤ人迫害の過去について、それがフランス国家が積極的に関与した罪であることを当時の大統領ジャック・シラクが公式に認めた例や、そして日本における村山談話の例〕がひとつの「進歩」だとしても、しかしながら、これはつねに「退歩」へと反転しうる危うさと表裏一体である。ある時点で一国家がそうした戦争犯罪を認め公式に謝罪をしたからといって客観的な真実そのものが確定するわけではない。そうした罪の事実を否認する歴史修正主義が回帰してくる余地もまた同様に残されたままである。嘘の概念自体が失効する次元があるという主張は、新たな修正主義と原理的に手を切ることができないという点を認めることを含意している。
 本書によれば、ハンナ・アーレントが「現代政治における嘘」として考察していたのはまさにこの窮境である。〔略〕すなわち、全体主義体制下における現実性の破壊、そしてこの破壊を支えるテクノロジーやメディア状況、そうした条件のもとで事実や真理は解明ないし検証の対象ではなくなり、もはやどうでもよいもの、それどころかはじめからなかったものにさえなるのである(その最終的な帰結がホロコーストにおける表象不可能性である)。
宮﨑裕助「ポスト・トゥルース状況に耐え得る『嘘』の新たな概念とは?」『図書新聞』2017年5月27日号、p.3

主題である「嘘の歴史」という言葉をデリダは、それが辞書的に意味しうるすべての意味のなかに開いて用いているのだけれど、つまるところ、嘘には「歴史がある」というその理解の基調は、嘘が古来不変であらかじめ自明なものではなく、「構築的なものである」ということだろう。逆に、嘘は不変で自明なものであって、真実性の保証された「嘘の外部」(大場さんのツイートで言えば「世界」)から、ただひとえに「誠実でなければならない」という原則に訴えればそれで決着するというのは、嘘には「歴史がない」とする態度になる。
 ところで『嘘の歴史 序説』には、その表題にもかかわらず(あるいはその表題のゆえに)、「嘘の歴史は可能でしょうか〔略〕。私はかつてないほど確信がもてません」( p.82)といったような言葉がときおり差し挟まれるのだが、そのデリダの謂をあくまで字義どおりに読んでいるうちに、ひょっとしてこれはよくできた冗談──「冗談」で語弊があれば、「ただの悪口」──なのではないかという思いが去来するのは、つまりそれが、上記の理屈から可能な単純な読み替えとして、「彼らを『嘘つき』と呼んでしまわないことが、その我慢が私にできるでしょうか。かつてないほど自信がもてません」と言っているとも読めるからだ。いろいろ書いている/読んでいるうち、ついついそこに思いが立ち至ってしまうデリダ/わたしの苛立ち──だって不誠実じゃんかよ!──が、そこに表明されているような気にもなるからだ。それでいくと、あくまで「古典的な定義」という枠に押し込めながらも、「誠実でなければならない」というそのある意味で〈非常に胸のすく〉原則の、さまざまな言い回しをこれでもかと引っぱり出してくる手際もまた、そうした思い(「ばかやろう!」)の表出として読めなくもない。
とはいうものの、「現代的な嘘」の脅威を言うアーレントとその問題意識を共有するならば──なにせ「現代的」な嘘とそうでない嘘があるわけなので──、「歴史はある」のだ。「歴史がある」ということはつまり、嘘の概念がその決定不可能性のなかで無効化される脅威と好機があるということで、その、嘘が無効化された地平においてあらためて定義し直される嘘は、ほぼ「誠実さ」と変わらないような相貌を見せるいっぽうで、ついに「歴史のない」嘘としても立ち現れることになる。

定義上、嘘つきとは、約束された真理を語るとみずから語る者です(これこそが歴史なき構造の法則です)。政治機構は嘘をつけばつくほど、ますます、約束された真理への愛をそのレトリックの合言葉にするのです。
同、p.78

 真理と嘘の区別を超えた、その彼方の風景がここに一瞬垣間見えるのだが、アレクサンドル・コイルの嘘論を引いてデリダが強調するように、まず重要なのは、彼ら(全体主義体制とその亜種たち)がじつはけっして嘘の彼方を目指さず、誠実さと嘘との安定した対立をこそ必要とし、温存することである。

〔略〕全体主義体制とそのあらゆる種類の類似物は実際、真理と嘘の区別の彼方には一度も向かいませんでした。実はそれらはこの対立する伝統的な区別を必要としており、死活を左右するほどです。全体主義体制とその類似物が嘘をつくのはこの伝統の内部においてであり、欺瞞を作用させるほどこの上なく独断的な形式でこうした伝統を手つかずのまま維持することがまったくの得策なのです。ただ、形而上学の旧来の公理系において、嘘に優位を与え、かくして階層秩序のたんなる転倒で満足するだけなのです。
同、p.76

ではここいらで、彼らの言葉を引いてみよう。

 加計学園の獣医学部開設をめぐる問題で、安倍首相は1日夜、ニッポン放送の番組収録で、文科省の前川喜平・前事務次官の発言に反論した。

 安倍首相「(前川)前次官が私の意向かどうかということは確かめようと思えば確かめられるんですよね。次官であればですね、『どうなんですか』と大臣と一緒に私のところに来ればいいじゃないですか。霞が関にしろ永田町にしろ『総理の意向ではないか』という言葉はね、飛び交うんですよ。議論をして最終的に3省の大臣が認めたんですね。そこには(前川)事務次官もいるんですよ。一体じゃあなんでそこで反対しなかったのか、不思議でしょうがないですね」
安倍首相、ラジオ番組で前川氏発言に反論|日テレNEWS24

 よく読めばわかるとおり、ここには(もちろんこれが発言のすべてではないだろうが、ニュースソースのなかで比較的発言内容を多く掲載していると思われるこれにかぎって言えば)いっさいの否定がない。そのかわりに、「なぜ在職中に反対しなかったのか」という前川・前事務次官の「不誠実さ」を言うことで、自らの誠実さ=真実性が保証されている。もちろんじっさいには、「在職中に(小さな声でしか)反対できなかった」ことこそがむしろ前川氏の証言を「証言」たらしめている1]のだが、そのことには気づかぬふりをしたまま、「確かめようと思えば確かめられるんですよね」と、あくまで真実には到達可能であることが言われるのだ。
 が、どうそれを確かめるのか、いかにして真実に到達するのかということにかんしては、「私のところに来ればいい」とするのであって、要は「私こそが真実である」ということが述べられるのみである。さらにその箇所についてはまたべつの記事によれば、「課長だったら確かめようがないと思いますが、次官であればですね、どうなんですかと。大臣と一緒に私のところに(確認に)来ればいいじゃないですか」という発言だったようで、ここにおける「真実」は万人が等しく到達可能なものではなく、「課長」か「事務次官」かという〈私=総理大臣との距離の近さ〉が影響するものだということが──加計学園の疑惑そのものをなぞるかのようにして──言われるのである。

1:証言を「証言」たらしめている

『嘘の歴史 序説』においては最後に問いが投げられているのみだが、嘘の概念に深く関係するものとしてデリダは、「証言や証明という真の問題系」( p.87)の存在も示唆している。デリダによれば、証言はむしろ、「虚構や嘘、偽証の可能性をあらかじめ孕んでいなければ成立しない」(訳註★34、p.103)ものである。

私が語の厳密な意味で証言できるのは、私が証言していることを、誰も私の代わりには証言できないその瞬間においてのみなのです。
ジャック・デリダ『滞留』(未來社)、p.39

というこれが、わたしの「序説」。だからまだまだ考えるし、考えることで、「ばかやろう!」というその叫びを受け止めたいと思っている。
ばかやろう!

話変わって内藤祐希応援コーナー。今週はベルギーの Grade 1の大会。第4シードで一回戦は免除となり、本日二回戦から。

シングルス二回戦
Yuki NAITO (JPN) d. Victoria KALAITZIS (BEL) 6-1 6-2
@ 53rd Astrid Bowl Charleroi, Belgian International Junior Championships

Walking: 3.7km • 5,004 steps • 56mins 8secs • 177 calories
Cycling: 2.4km • 13mins 27secs • 53 calories
Transport: 70.3km • 1hr 19mins 41secs
本日の参照画像
(2017年6月 5日 11:28)

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