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Jan.
2018
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/ 17 Jan. 2018 (Wed.) 「拝啓もてスリムさま」

本日のむかしのロビン。ロビンどこだよって話だが、左奥にかろうじて像を結んでいる寝姿がそれだ。2014年11月。

夜、KAATでロロの『マジカル肉じゃがミステリーツアー』(以下『マジ肉』)を観る。
「旅シリーズ三部作」の掉尾を飾る作品だそうだが、あいにく前の二作品(『 BGM』『父母姉僕弟君』)を観ておらず、それにかんしては観たあとに読んだ「もてスリム®」さんの「 Melted Butter, Melted World──ロロと世界を巡る 3つの旅」ネットプリント版PDF版がたいへん参考になった。当日パンフにも全然目をとおしていなかったので、篠崎大悟演じる町田家の長男「ワン」の役名が「湾」の字を書くのだということももてスリムさんの文章ではじめて知ったのだが、それでなぜか急に思い出されたのは、柳瀬尚紀訳のジョイス『フィネガンズ・ウェイク』の、あの冒頭の部分だ。

川走(せんそう)、イブとアダム礼盃亭(れいはいてい)()ぎ、く()岸辺(きしべ)から輪ん曲(わんきょく)する(わん)へ、

 むろん「ただの湾つながり」であり、「湾」の役名がこの柳瀬訳『フィネガンズ・ウェイク』から採られたとは到底思われないが、しかし、これでもかという原文の──つまりひいては「世界」の──多義性に漢字の表意で応戦しつつ、あくまで〈音読されること〉を前提にそれらが線条的に配されていくこの訳文は、今作『マジ肉』の舞台とどこか通底し、響き合うような気がしないでもない。
言わずもがな、『マジ肉』において〈音読されること〉は〈上演されること〉にあたり、そして〈上演されること〉は〈回されること〉とほぼ等価であった。やや奇妙な物言いになるが、『マジ肉』のもつ線条性は、回転によってもたらされていた。

家があって、家のなかにはあたしがいて、あたしのそばには彼がいて、あたしと彼の間に君がいた。君があたしを「ママ」って呼んで、あたしはママになった。ママは50音のなかから最高の音だけを選んで、君ぴったりに並べてプレゼントした。そうして君は「めくるめく」になった。ママとめくるめくは、家のなかのあらゆるものに名前をつけた。洗濯機はエッフェル塔になって、冷蔵庫は水星になった。2人はいつも呪文を唱えるみたいに名前をよんだ。だから名前は2人にとって魔法だった。
次回公演速報!ロロvol.14『マジカル肉じゃがファミリーツアー』 | lolowebsite

という梗概(?)だけは事前に読んでいたから、劇中、湾と「一日」とが〈名付け〉の遊びをはじめ、湾が一日に「なっちゃん」という名(湾自身と妹「めくるめく」の母の名)を与えるにいたっては当然、湾が子であり同時に親でもあるというような〈きれいに閉じた円環〉を予期したわけだが、物語の進行とともに──舞台装置である「家」の回転とともに──、その期待はゆるやかに裏切られていくことになる。回転する家の舞台装置につねに裏側(見えない面)が生じるのに似て、『マジ肉』はあくまで意味の確定/画定(一挙に全体が与えられる世界)を拒みつつ、上演/回転の刹那々々に生成し発展する、〈意味が確定しないからといってけっして無意味ではないもの〉を提示するようにみえた。

境界のはっきりしない無意味に思える語でも、言語ゲームの中でははっきりとした情報になり得るのだ。それが、たとえば「その辺に立ってろ」の「その辺」である。僕の家で僕の妻が「その辺」と言うなら、それは「居間のどこでも好きな所」という意味になる。我々は、自分がどんな言語ゲームの中で生きているのか、はっきりさせられていないのかも知れない。我々が言っている言葉ははっきりしないものなのかも知れない。しかし、はっきりしない言語ゲームの中で、はっきりしない語を使うとき、その意味が有意味になる場合があるのだ。
家族的類似性の基準と徴候「哲学探究」を探求する14: 独今論者のカップ麺

そう、「家族」というモチーフとも当然あいまって、ここでわたしが思い浮かべているのはウィトゲンシュタインの「家族的類似」である。家族は、その構成員全員に共通する〈本質的な何か〉があって(あらかじめ)確定されるわけではなく、個々の構成員間に成り立つさまざまな類似(構成員の何人かは同じ体格を、他の何人かは同じ歩き方を、また何人かは同じ気性をしているというような)の重なり合いとして存在している。そのような家族のあり方を喩えに用い、(言語)ゲームのあり方を説明してみせるのがウィトゲンシュタインの「家族的類似(性)」だ。

──そこで私は、「『ゲーム』はひとつの家族をつくっている」と言っておこう。
ウィトゲンシュタイン『哲学探究』、67節、丘沢静也訳

この喩えがもたらす重要な帰結は、たとえば「ゲーム」というその家族の外延は明確には定まらない、ということである。

ゲームの概念の境界は、どんなふうにして閉じられているのだろうか? どれがまだゲームであり、どれがすでにゲームではないのか? 君はその境界を言うことができるかな? できないよね。でも、なんらかの境界線を引くことならできる。まだ境界線が引かれていないからだ。(けれども君が「ゲーム」という単語を使っていたときは、境界のことなどで悩んではいなかった)
同、68節

「舞台装置が回転するにつれいくつもの関係性と空間を巻き込むようにして豊かな空間が生まれていき、ドロドロにとろけていく」ともてスリムさんによって総括される『マジ肉』においてもまた、家族は外延の定まらない、ぼんやりとした拡がりとしてそこにあった。

物語が進むにつれ、家族は家族としての結びつきを強めながらも、一方では決まりきった家族のあり方からは解放されている。
 たとえば、奈津子は娘のめくるめくを愛するためなら必ずしも自分が母である必要はないと主張する。祖母子にとってトチは孫であり親友だ。トチにとって奈津子と孝志は両親であり捨て駒だ。
もてスリム「 Melted Butter, Melted World──ロロと世界を巡る 3つの旅」

 このように溶解した関係性のなかで、しかしなお彼女/彼らは無意味になることがなく、家族は最終的にピクニックを果たす。そこにおいて「家族」に外延を与えているのはただ一点〈ピクニックをともにする〉という隣接性だけれど、舞台上の「そこが羊山公園でもいいし、子ども部屋でもいいし、あるいはまた別のどこかでもいいことを」すでにわれわれが知っているいま、「家族」の外延は極限にまで押し広げられて、もはや「世界」と見分けがつかない。
ところでもてスリムさんは『マジ肉』について「見立ての頽落」ということを指摘し、あくまで過去二作品との対比においてだが、今作では、端的にその「具体的すぎる舞台」によってロロ的手法としての「見立て」が存在していない(もしくは存在しても機能していない)と説明する。もちろんこの説明には〈整理〉という側面が強くあり、いったんそう整理してみせたうえで「果たして本当にそうなのだろうか?」ともてスリムさんはつづけるわけだが、あるいはまた、そもそも『マジ肉』が試みたのはより難易度の高い、より強靱な見立てではなかったのか、とも言ってみたい衝動にかられる。つまり、過去作を通じて充分に見立ての〈訓練〉を積んだはずのわれわれにたいし、『マジ肉』は(落語の「お見立て」よろしく)「もうどうぞ好きに見立ててくださいよ、誰が何演っても、どう演ってもいいでしょう、僕は僕でなくても君を愛しますよ」と言っているのではないか、ということだ。もちろん、それにしたって見立てが成立するためには〈何かしらの余白〉が必要なはずだが、その〈余白〉にあたるものこそが〈俳優たちの魅力〉だったとしたら、そのように成立する見立てがあったとしたら、どうだろう。

@moteslim: 三浦さんは「集大成ぽくはしない」と話していたが、達成みたいなものを感じて大変感動しました。あと俳優の面々のかわいさが爆発しているんですよ。まだ観に来てくれないんですか?三浦さんのインタビューはこれです→ https://note.mu/llo88oll/n/n54d117ea1085
2018年1月12日 0:13 [太字強調は引用者]

そう、付け加えておくならばやはり俳優陣がキュートである。そして、このとろけてしまった世界(「 Melted World」)において彼女/彼らがかわいいのは、彼女/彼らがかわいい役をするからではむろんない。あらゆる見立て──〈どの生を生きる可能性もあったわたし=普遍性〉──を呼び込む魅力的な余白として、彼女/彼らそのもの──〈この生を生きるわたし=単独性〉──がそこにあるからである。

Walking: 3.8km • 5,798 steps • 1hr 2mins 13secs • 179 calories
Running: 410 meters • 335 steps • 2mins 30secs • 23 calories
Cycling: 2.7km • 13mins 57secs • 59 calories
Transport: 130km • 3hrs 21mins 30secs
本日の参照画像
(2018年1月23日 20:29)

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