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Feb.
2018
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/ 28 Feb. 2018 (Wed.) 「ハリツメは世界を愛するため、所有しないことを選択する」

ロビン。2016年10月。

北千住の BUoYでジエン社『物の所有を学ぶ庭』を観た。以下はその感想にあたるものだが、いま心がそぞろなのでさほどのまとまりは期待できず、思い浮かんだことの羅列に終わるのではないかという危惧をはじめに表明しておく。

二元論ではなく、二項対立

「所有」というずばりのテーマに行く前にまず触れておきたいのは、劇中に現れるさまざまな〈対立〉についてだ。たとえばそれは、街/森、教師/生徒、多数/小数、熱いお茶/冷めたお茶、手前/奥、大人/子ども、生/死、……といったものたちだが、そこにあるのはつまるところ、「自/他」についての二元論だろうか。否、というのが舞台からもたらされる予感と期待である。なぜといって、要は「二元論じゃ面白くないから」なのだけど、なぜ面白くないかといえば、二元論は「一」を隠し持っているからだ。
究極的には「内/外」を分けるところの二元論は、じつのところ「内」による一元論なのであり、そして「外」を抑圧・排除することで、「内」と「外」とは二者択一であり、その中間はないのだと錯覚させるのが強者たる「内」の作戦である。そうした二元論的な思考の枠組みにたいして劇中ではたとえば鈴守が、「どこまでを奥とするかですけど」「どこまでを大人とするかですが」といったセリフによって、じっさいにはただ無限のグラデーションが拡がっているだけなのだということを端的に指摘してみせるのだし、加えて、舞台空間である「庭」そのものもまた、「街」でもなく、かといって「森」でもない、いわば両者の緩衝地帯のような、中間的な場所として設定されていることを同時に想起してもいいだろう。また、二元論においてはあらかじめ、内/外に分割されるべき〈全体〉が想定されるが、庭を起点として拡がる劇中の〈世界〉はひどく輪郭を定めがたい、伸縮自在なものとしてこちらの脳裏に想像される。
劇中にちりばめられたさまざまな二項の対立は、だから、けっして二元論を形成するものとしてではなく、言葉の本来の意味(構造主義的な意味)での二項対立として──すなわち〈二〉そのものとして──そこに運動しているのだと見なすべきである。二項対立は、何かを二分するのではなく、いわば手当たり次第に何かと何かを結びつける。対立とは、むしろ接合のことでもある。ジエン社の特徴のひとつであるとされる「同時多発の会話」は、その複数の会話がまったく隣り合って行われることにより、かえってそれらがべつの階層(/時間/空間)に存在していることを際立たせる手法であるわけだが、その手法がおのずと、接合と対立とを呼び込むのである。
付け加えれば、もちろん観終わった人にはよくおわかりのとおり、先に挙げた二項たちのほとんどは劇の進行にともなってその位置を転倒させられている。森の拡大と街(居住区)の縮小によって「多数派」だった「私たち」はいつしか「少数派」になってしまうのだし、また終盤、教師と生徒だったハリツメと鈴守の関係も逆転して、「私(ハリツメ)が教えてたように、テキスト使って、紙に書かせて」鈴守はハリツメに教えはじめる。

彼らはどこにいるのか

これも覚え書きのようなもので、舞台上の彼らが「どこにいるのか」を問うのだが、おもに参照されるのは場所ではなく時間だ。
幾層もの時間が折り畳まれたように見える本作で、まず明確に語られるのは「七年」という時間の見晴らしである。「七年前。父が死んで。だから私、エムオカ君と別れたんだよね」とクルツは言い、父の持ち家の一部だった庭からいま彼らのいる〈庭〉が出現する、その起源に関わる出来事であるかのように彼女の父親の死は語られる。また、終幕にさいして街から帰還したチロルが、街に「先生(ハリツメ)がいなかったのはなぜ」かと問い、どうやらハリツメが街(=現実界?)においてはすでに〈死んでいる〉らしいことが端的に暴露される場面においても、やはりそこに「七年前」という時間の楔が打たれる。

チロル
「ハリツメ先生は行方不明だって」
ハリツメ
「ええ」
チロル
「七年も前からずっと、もういないって」
ハリツメ
……地元がなくなっちゃったから。マイナンバーもないし」(台本、p.54)

 奇しくも(?)3月11日に千秋楽を迎える本作において、当然ながら「七年前」という言葉は直接的に 2011年に結び付く(「ホウシ」「森」「地元がなくなった」といった言葉や状況が、震災とその後の原発事故を想起させもする)わけだが、そのように措定してみるとき、では、舞台上の〈いま〉は、はたして 2018年という現在時なのだろうかという疑問も同時に湧いてくる。
というのは、たとえば「マイナンバー」が代表的であるように、劇中のモノ・コトたちの多くは 2018年っぽいものでありつつも、そこからのズレを孕んだものになっているからだ。具体的にどういう制度であるかは明かされることがないものの、登場人物たちのセリフの端々に現れる「マイナンバー」はどうも、われわれの知っているそれとはちがう(より「進んだ」? より「理念的な」?)規定と運用がなされる制度であるらしく聞こえる。この〈現実とのズレ〉をどう解釈するかが、おそらく彼らのいる場所を想像する手がかりとなるだろう。
ズレによって醸し出されるのは、たとえば〈近未来〉感のようなものだが(ヒトが住めないという「森」への言及が、『風の谷のナウシカ』における「腐海」のイメージを呼び込むのもまた、〈終末的近未来〉感に一役買っているだろうか)、しかし、物語内現在の〈いま〉をたんに未来に繰り延べれば、いっぽうで 2011年に打たれたはずの「七年前」という楔が意味をなさなくなってしまう。また、これを〈パラレルワールド〉的な、ありえたかもしれないもうひとつの 2018年として捉えるのも、どうも何かちがうような気がする。
そう考えたときにあらためて参照されるのが、戯曲の冒頭にあるこのト書きだ。

現在の日本。だけどちょっとだけ違う。
私たちではない人々が、現在を二時間だけ見つめて、頭の中で思い出しているときに浮かぶような、そんな世界。思い出の中だけにあって、もう実在はしていない。(p.2)

 最初にこの説明を読んだときには、当日パンフにあった、あのやたらと詳細な、けれど物語本編にとくに反映されるわけでもない設定群が記された「登場人物紹介」と同種の、作家・山本健介がついつい発揮してしまう〈饒舌さ〉の一環としてだけ受け取ったのだったが、しかし、ズレをめぐる上記の問いを経て立ち戻ってみると、なるほどそうかとも思わせられるところがある。つまり、舞台上にある現実とのズレは、記憶違いがもたらすズレであり、記憶のあいまいさに起因するズレだという可能性だ。
物語内で語られるのはまごうことなきわれわれの 2018年であり、「七年前」が指すのも 2011年だが、舞台上の〈いま〉──彼らのいる〈庭〉──から見れば、その時間ははるか遠くの過去にあたる。鈴守の年齢設定である 270歳をここにあてはめ、たとえば 250年後の未来に〈庭〉は浮かんでいるのだと考えて、もろもろのツジツマを合わせることもことによると可能かもしれない。250年後のその未来においては、もはやすべてが決着しているのかもしれず、「街」と「森」との拮抗関係ももうなくて、世界にはただ〈庭〉のみが広がっている──役者の出ハケにかんするト書きにおいて、「いつの間にか」現れ、「どこかへ」去るという時空のあいまいさが強調されるのもそのためである──のかもしれない。
すべてが終わった地点としての〈いま〉と、そこにおいて保持された記憶としての〈いま〉。死んでいるらしいことがはっきりと示唆されるハリツメだけでなく、「森の奥にいったら死ぬ」とされながらもいっこうに死ぬ様子のないエムオカ、ヤノベ、当麻など、ひょっとすると〈全員すでに死んでいる〉のではないかという感触を舞台から得るのも、そのような場の成り立ちのせいだと言えるだろう。そして、そのふたつの〈いま〉──舞台内現在と物語内現在?──が、さらに互いに侵食し合うのだとすれば、いよいよことは厄介なのである。

他者から出発する所有

テーマが「所有」だということで、予習として読んだのは立岩真也『私的所有論[第2版]』(生活書院)だ。解説・索引を除いても 850ページ超ある大部の文庫で、まだ全部読みきったわけではないものの、これ、すごく面白い。「第4章 他者」のそのヤマ場など感動的ですらある。
まあその、盥いっぱいに張った水をこぼさぬよう、ゆっくりゆっくり運ぶような本だからやっぱりその「長さ」が必要ではあり、ちょっとこうかいつまんで説明するというのは土台無理があると思って以下を読んでもらいたいが、そこで立岩が扱う「私的所有」は、同時に「自己決定」ともほぼ同義のもので、それは端的には「私が私の働きの結果を私のものにする」、「自分が制御するものは自分のものである」という原理である。自己の「所有権」と「処分権」と「決定権」とがおのずとオーバーラップするその原理に、立岩は徹底的に、体系的に検討を加えていくのだが、たとえば、序盤のほうでなされる素朴な(そして重要な)指摘はこのようなものだ。

これは、①〔 aの生産〕ゆえに②〔 aの取得〕という図式である。①を一つの事実としよう。自分の精神が自分のものである。これはまあよいとしよう。その精神が肉体を制御し、肉体が外界を制御する。これも──自由意志があるかないかといったかたい話をしない限りは──事実といえば事実である。だが、問題は①と②のつながりである。その制御されるもの、生産されるものがどうしてその人のものになるのか。
 この「ゆえに」が根拠づけられない。なぜ①「ゆえに」②なのかと問われる時に、返す言葉がないのである。これは事実ではなく、そうなるべきである、そうなるのが正しい、という一つの規範命題、一つの主張である。そして、ここにその理由が示されているわけではない。つまり、「自分が制御するものは自分のものである」という主張は、それ以上遡れない信念としてある。そこで行き止まりになっている。言われていることは、結局のところ、「自分の作ったものを自分のものにしたい」ということなのである。
「第2章 私的所有の無根拠と根拠」『私的所有論[第2版]』、p.81-82、太字強調は引用者。

 この指摘と似た響きのセリフは、『物の所有を学ぶ庭』のなかでも聞くことができる。

エムオカ
「世の中がどう思おうが、私のものは私の物って言う事か?」
仁王
「ジャイアンですね」(p.49)
ヤノベ
「これは私の物! って強く言うだけじゃダメなのかな」(p.50)

で、この「自己決定」を出発点として打ち立てられる「私的所有」にたいし、それが押し広げられていったときに出くわすさまざまな「それはちがうのではないか」というケース(生命倫理的な問題等々)を拾い上げ、丹念に検討していくその作業の果てに(本の構成的には半ばで)、立岩が「こうなのではないか」と見いだすのがつまり、「自己」ではなく、「他者」を出発点とする所有である。それについては、やはり長くなるが、どうにもこれ以上切り詰めようのない、この感動的な文章をちょっとお読みいただけたらと思う。

先に見た私的所有を正当化しようとする言説は、あるものがある人が作り出し制御するものであることによって、そのものがその人のものであると言おうとする。しかし、例えば身体は、その者によって作られるものではなく、制御されつくせるものでもない。そして実はそのようなものこそが、その者から移動させることに最も抵抗のあるものなのである。
 だから私の答は単純なものである。自己による制御から出発する発想を裏返し、逆に考えたらどうだろうか。
 〔略〕
 私が制御できないもの、精確には私が制御しないものを、「他者」と言うとしよう。その他者は私との違いによって規定される存在ではない。それはただ私ではないもの、私が制御しないものとして在る。私達はこのような意味での他者性を奪ってはならないと考えているのではないか。
 Aの存在は、Aが作り出したものだけではなく、Aが身体aのもとにあるということ、等々である。その人が作り出し制御するものではなく、その人のもとに在るもの、その人が在ることを、奪うことはしない、奪ってはならないと考えているのではないか。他者が他者として、つまり自分ではない者として生きている時に、その生命、その者のもとにあるものは尊重されなければならない。それは、その者が生命を「持つ」から、生命を意識し制御するからではない。
 もっと積極的に言えば、人は、決定しないこと、制御しないことを肯定したいのだ。人は、他者が存在することを認めたいのだと、他者をできる限り決定しない方が私にとってよいのだという感覚を持っているのだと考えたらどうか。自己が制御しないことに積極的な価値を認める、あるいは私達の価値によって測ることをしないことに積極的な価値を認める、そのような部分が私達にあると思う。自己は結局のところ自己の中でしか生きていけない。しかし、その自己がその自己であることを断念する。単に私の及ぶ範囲を断念するのではない。それは別言すれば、他者を「他者」として存在させるということである。自己によって制御不可能であるゆえに、私達は世界、他者を享受するのではないか。私に制御できないから他者があるのではない。制御できてもなお制御しないものとしての他者がある。世界が私によって完全に制御可能である時、私は私を世界全体へ延長させていったのであり、世界は私と等しくなる。すべてが私の意のままになる。例えば臓器を受け取って助かった者にとって、具体的に失った者は一人でも、それで済んだのは一人で足りたからであり、可能的には全てのものが自分の生のためにある存在である。観念の中で作為された行為としての意味だけが維持され、私の欲望が直接に実現されていくこの過程に他者、他者による否定の契機が弱くなる。このような私としての世界を私達は好ましいものと思わないということではないか。
 そこでは私は私にしか会わない。だからその世界は退屈な世界である。私の価値や欲望はその時々には切実なものであっても、それなりのものでしかない。そういうものによって世界が充満しているのだったら、うんざりしてしまう。〔……
「第4章 他者」『私的所有論[第2版]』、p.189-192、太字強調は引用者。

 いや、いい加減長いので切り上げるけれども、ここに言われる〈他者性の擁護〉といったものについて、何となく理解/共感していただけたろうか。このくだりはもう少し続き、「私(達)のものなど何ほどのものか」という強烈なフレーズをまたいで、「自分が死ぬか生きるかといった時に、そんなことを考えられるものかどうか。私には駄目な気がする。ただ、〔……〕」というふうにようやくひと息つくのだが、このうねるような文章はおそらく、大部の本書中でも白眉のひとつだろうと思われる(それゆえに、やはり本来的には 190ページを読み進んだうえでこの記述に出会ってほしいところではある)

そして、ハリツメ

自/他の境界があいまいなために所有の概念を理解できないのだと(序盤の)ハリツメによって説明されるのが妖精さんだが、しかしたとえば鈴守が、肉体的な接触だけでなく、「声をかける」ことも「触れる」ことに等しいのではないかと指摘してみせるとき、そこではむしろ、ハリツメよりも自/他というものがはっきり意識されている。
 ハリツメが極端に恐れていたのは「触れ(られ)る」ことであり、ハリツメにとってそれは距離がゼロになることとして受け取られていた。距離がゼロになり、「他」が一気に流入して「自」がなくなるかのような事態をハリツメは恐れるのだが、そのとき、むしろハリツメによってこそ、自/他の境界は消滅しうるものだと──あるいは、「距離」に喩えられるように相対的なものだと──考えられている。
 そして付け加えるなら、そこでハリツメによって想定されている所有は、あくまでも〈自のものにすること〉としての所有なのだ。
「分かったフリをする」という鈴守の提案に、ハリツメは猛烈に怒る。そこにはおそらく、「分かったフリをする」ことがじっさい鈴守にとって可能であるだろうことへの恐れがあるのだと思うが、その鈴守による〈分かったフリ〉は、〈完全に分かった状態〉と原理的に見分けがつかないものである。そしてこの〈完全に分かった状態〉において、そのとき、いよいよ「自/他」は消滅するのであり、おそらく、ハリツメはそのことを拒否した。
もちろん、立岩の言うような〈他者性の擁護〉という認識に根差してハリツメが次のセリフを口にしているとは思いにくいのだが、しかしやはり、終盤にむけて絞り出されるこの重要なセリフが他者の「尊重」ということに言及しているのには注目しておくべきだろう。そしてまたハリツメはここで、他者の他者性はどこまでも残るのだということを言うのであり、そうすること──他者を他者のまま残すこと──を選び取ろうとしている。まさしく萌芽しているのは、〈他を他のままにすること〉としての所有なのである。

ハリツメ
「触ってもいい、と思う」
鈴守
「どうして」
ハリツメ
「尊重があるのなら、……尊重が伝わっているなら、触ってもいい。でも、尊重があっても、あるからと言って、それは誰かの物になったりしない、物は本当は、誰のものでもない。」(p.48)

教える/教わるという関係のなかでなされる「分かったフリ」は、そのじつ教える/教わるという関係の完全な解消も意味し、そうしていったん均質化(?)してしまった空間に、上のセリフをきっかけとしてふたたび亀裂が生じ、(逆転した)教える/教わるの関係が生まれる。それはいわば希望としての亀裂だ。終幕にさいして畑から出た芽が、そこから光があふれ出す空間の裂け目のようなものとしてあったこともまた、そのことと無関係ではないだろう。

Walking: 6.1km • 8,597 steps • 1hr 24mins 10secs • 287 calories
Cycling: 2.5km • 14mins • 55 calories
Transport: 94.1km • 2hrs 4mins 3secs
本日の参照画像
(2018年3月16日 15:44)

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