/ 24 Jun. 2018 (Sun.) 「モメラス『青い鳥』 / へごちゃん」
■きのう行けなかったモメラスの『青い鳥』へ、夜。
世界中の人々に親しまれた童話劇を幼少期のメーテルリンクが川底で体験した「光」の記述をもとに再構成した、モメラス版『青い鳥』。
モメラス - モメラス第3回公演『青い鳥 完全版』 利賀演劇人コンクール2017 優秀演出家賞受賞作品...
この「川底で体験した『光』」というのは、モーリス・メーテルリンクが子どもの頃に運河で溺れて死にかけたときのいわゆる臨死体験で、最晩年に書かれた「水死」というエッセイにその記述があるのだけれど、憧憬のような感情とともにそのエッセイに描かれる光──そして、モメラスの舞台の底に鮮烈に漂った仄青い光──が〈生の領域の臨界〉を示すのだとして、それでも、あくまでそれは生の領域に属している。臨死したとはいえ生還したメーテルリンク少年の見た光は、つまるところ〈生〉の側のものでしかない。
■予習のためにと思い、メーテルリンクのエッセイ『死後の存続』(めるくまーる。原著は直訳すれば『死』というタイトル。訳者あとがきには「水死」の全文が載っている)を買い込んであったが事前にはさほど読めず。ただ、導入部(「 1章 死に対する不当な扱い」)を読むだけでも、メーテルリンクの〈姿勢〉というものが何となくわかったような気にはなる。たとえばそれは、次のような物言いに示されるところの姿勢だ。
まず、死に先行し、死そのものと関わりのないすべてのものを追い払わなければならない。われわれは、末期の病苦を死のせいにするが、それはまちがっている。病と、そこに終止符を打つ死との間には何の関わりもない。病は生の領域にあるものであり、死の領域のものではない。
p.10、太字強調は引用者
この単純な事実の確認──しかしハッとさせられる指摘──にはじまり、メーテルリンクが何度もそこに立ち戻ってみせるのはつまり、死──そこにかぶせられる不当なレトリックをすべて取り払ったところにある、死そのもの──は〈不可知〉なのだという前提である。病が生の領域のものであるように、われわれが知っているのはどこまでも生の領域のことであり、死の領域のいっさいをわれわれは知らない。「そんなことを言ったら、死については何も言えないじゃないか」ということになるわけだが、その不可知の〈死〉というものを想像するとき、そこに〈非−生〉としての過剰な意味とイメージを無責任に与えるのではなく、むしろ、既知の〈生〉のイメージこそを用いるべきではないか、というのが、メーテルリンクの姿勢なのではないか。
■その姿勢は、まったく文脈の異なる言葉ながら、ふと流れてきた次のようなツイートととも響き合うところがある。
直感的には死に魅入られてはいけない。
死という享楽に惹きつけられれば、言葉の外側に行ってしまう。
多くの問題は言葉の中で起きているし、言葉によって解決可能である。
2018年7月6日 22:13
■〈死〉と〈生〉の境にある光。つまりそれは鏡のようにそこにあって、こちら側とまったく同じ世界がむこう側にも広がっているのだと想像すること。それがメーテルリンクの、そしてモメラス『青い鳥』の言っていることのように思われた。
■という『青い鳥』の話は書けたらまた続きを今度。
■で、話はさかのぼり、『青い鳥』を観るために横浜へ行くその前に猫を病院に連れていく。
- 16:00
- ピーと病院に。
愛称は本名から遠く隔たって、わが家ではいまもっぱら「へごろ」「へごちゃん」と呼ばれているところのピーは 15歳、オス。ハタチだったロビンが去年亡くなったあとは最年長となり、「じいさん」呼ばわりもすっかり板に付いてきたところだが、今夏、例年よりも抜け毛が多いような気がしていたところへもってきて、首の後ろあたりにハゲたようになっている箇所を見つけた。それで皮膚病か? と連れていった次第だけれど、あからさまな赤みなどがあるわけではない。痒がっているかと訊かれれば、そんな気はする。また腰回りを中心にフケがだいぶ出ていたりもするが、じつをいってそれは「前からそう」だったりする。といった問診の末、それで仔細がわかるかはわからないにせよ、歳も歳だし、もっとも基礎的な検査として血液検査とレントゲン、エコーはやっておきましょうとなって、思ったより時間がかかることになったためそこで妻に来てもらって交代、わたしは横浜へ向かった。
■「腎機能系の数値がやや高め」というある意味年相応な懸念を除けば、検査結果は〈わりと健康そう〉という総合評価だったが、それはそれとして近いうちに尿検査もすることになり、スポンジに吸わせるタイプの採尿器具をもらってくる(お腹から直接採尿するという手もあるものの、あまり溜まっておらず、また肉も邪魔をしてダメだったとのこと)。皮膚炎(?)への対症としては 2週間効く抗生剤の注射(コンベニア)を打ってもらい、ステロイドの錠剤を処方された。ステロイドはにがいので食事に混ぜるという手が使えず、妻があらためて、薬の飲ませ方(口を開けさせ、そこに放り込むやり方)を教わってきたのだった。
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