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May.
2006
Yellow

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/ 31 May. 2006 (Wed.) 「ブログについての

ウンベルト・エーコ(想像)。クリックで本物が出ます。

宮沢さんの日記で言及されていた「Web標準」についての文章をお求めの方は、5月29日付の日記へどうぞ。
ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』の上巻を読了。そういえば先日、上巻を半分ほど読み進んで「これはいけそうだ」と判断し、下巻を求めに地元の本屋に行くと、なんと(「なんと」は失礼か)それが平積みされていた。同じ本屋で上巻を買ったときにはひっそりと棚にあったので、するとこれは、やはり『ダ・ヴィンチ・コード』がらみの措置だろうか。でもなあ、上巻を読んで思うんだけど、たぶんこれ『ダ・ヴィンチ・コード』とはまったくジャンルがちがうんじゃないかなあ。

少しだけわかりやすくいえば、本書を読むことは「書物の発生」を解読することなのである。
松岡正剛の千夜千冊『薔薇の名前』上下 ウンベルト・エーコ

 という松岡正剛さんの謂いをここはひとつ借りたいのだけど、なんと言えばいいのか、「書物についての書物」というか、「言葉についての言葉」というか、そうした自己言及的で、それゆえに迷宮的な全体の相貌が徐々に立ち上がってくるような読書過程なのである。自己言及的と言ったが、それがけっして「閉じて」いるわけではないのは、この場合の「自己」が「言葉」であり「書物」であり「知」であって、つまりそうしたものから成る「世界」にほかならないからで、中世を舞台にした推理小説という体裁をとりつつ、「世界」そのものについて言及しようとしたおそろしく野心的な作品なんだろうなあこれきっと、と私は、ただただ「わかったようなこと」を書くしかいまは手がなくて、じっさいにはもっぱら圧倒されているだけなのである。もうね、殺人事件とかどうでもいいんですよ、これ。少なくとも上巻読了までで言えば、どうでもよかった。逆に言えば、このあと、ひょっとして上に述べたような「読みの興奮」と殺人事件とが絡み合ったりして、怒濤の展開を見せたりするのかもしれず、そうだとすれば、それ、すごいなあ(と同等に、前掲の松岡さんの書評もすごいんだけど)
自己言及的(メタ的)ということで言えば、『モーターサイクル・ドン・キホーテ』もまた「芝居についての芝居」だったという指摘がなされている「富士日記2」5月30日付を参照)。そして、話は変わるけれども、「ブログ」というメディア/形式がついつい生産しがちになるのもまた「ブログについての言説」であり、そこに生まれるのが「ブログについてのブログ」だ。いや、大仰に書いてしまったけれど、じつはたいしたことではなくて、放っておくと「ブログについてのブログ」になってしまうのが「ブログ」だという気さえする。
と指摘するそばから、「放っておくと『ブログについてのブログ』になってしまうのが『ブログ』だという気さえする」と書くことがすでに「ブログについてのブログについてのブログ…」といった事態になっている、というように、ほら、どんどん自堕落にその「メタ性」について書くことはできるのだが、でもなあ、そうした「ブログについてのブログ」を書くには、ほんとうはものすごい労力が必要なはずなのだ。生半可に書いてよいはずがない。
いっぽうでまた「気楽に書ける」という〈善性〉がブログにあることもまちがいないのだが、その〈善性〉を肯定しつつ、それでもなお、たとえば次のような言葉には真摯に耳を傾けなければならないだろう。

 「書き」についても、はやまらないほうがいい。書くリテラシーには、それなりの書くことの広がりと深まりのスキルというものがある。その醍醐味にかかわらないかぎり、いくら書いても徒労感覚がのこるばかりなのである。たしかにブログが「会話」スタイルを拡張していくであろうことは予想がつくけれど、「書きこむ会話」はキリがない。書くとは「カギリ」に向かうことなのであって、キリなく書くことではないはずなのだ。かつてもいまも電話は会話型メディアであるが、電話は切ればすむから「カギリ」が見えていた。ブログにはそれがない。(強調は引用者)
松岡正剛の千夜千冊『ブログ』 ダン・ギルモア

本日の参照画像
(2006年6月 1日 20:09)

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