6
Jun.
2006
Yellow

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/ 2 Jun. 2006 (Fri.) 「どの過ちの奴隷にもならないために」

ひきつづき、『薔薇の名前』の下巻である。いや、まだ読了したわけじゃない。ちびちびと読んでいる。
先日も引いた松岡正剛さんの文章によるとウンベルト・エーコはなにしろれっきとした「シャーロキアン」らしいのだが、『薔薇の名前』にも、ホームズ(探偵役)とワトソン(探偵の助手で手記の書き手──そして「ばか」──役)にあたるふたりの人物が登場する。それが年配のフランチェスコ会修道士・ウィリアム(=ホームズ)と、若きドミニコ会見習修道士・アドソ(=ワトソン、ただし手記を書く現在は年老いている)である。では、さっそく「今日のウィリアム」を紹介しよう。会話はアドソとウィリアムのやりとりであり、書き手=アドソに「師」と呼ばれているのがウィリアムである。

「では、あなたは」子供みたいな厚かましさで私はたずねた、「決して過ちを犯さないのですか?」
「しばしば犯している」師は答えた、「ただし、唯一の過ちを考え出すのではなく、たくさんの過ちを想像するのだよ。どの過ちの奴隷にもならないために」
(『薔薇の名前』下、p.83)

 きゃー、ウィリアムー。かっこいいー。
むろん、こうなっては「今日のアドソ」も紹介しないわけにはいかない。ふたたび師弟の会話である。「一角獣」なる動物が想像の産物であることをさとす師に、弟子は食い下がる。

「でも、一角獣は虚偽の産物なのでしょうか? 大変に柔和で象徴的な動物のはずです。キリストと純潔を象(かたど)ったもので、森のなかに乙女を置いておくだけで、生け捕りにできます。なぜならこの動物は、純潔きわまりない匂いを嗅ぎつけて、乙女に近寄り、膝にそっと頭を載せるので、そのまま猟師の罠にかかってしまうからです」
「たしかに、そう言われている、アドソ。だが、それも異教徒の作り話ではないか、というふうにいまでは一般に考えられている」
「何という幻滅でしょうか」私は言った。「森のなかを歩いていて、そういう場面に出会えたら、どんなにか楽しかったでしょうに。森のなかを歩いていて、ほかに何の楽しみがあるでしょうか?」
(『薔薇の名前』下、p.99)

 あはははは。エーコのサービス精神だろうか。「何という幻滅でしょうか」は笑ったなあ、これ。

(2006年6月 3日 02:59)

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