/ 10 Nov. 2006 (Fri.) 「『鵺/NUE』」
■兄弟による奇妙な文通のことはさておいて、ひとまずこの日の興奮のことを記しておかなければならない。今日、『鵺/NUE』の舞台を観た。
■開演の20分ほど前に劇場に着き、言われてあったとおり、受付席にいる永井さんを目指して財布を取り出す準備などしつつ歩いていくと、「今日の分は招待」と思わぬことを告げられ、ありがたくチケットを受け取る。席に着いてみるとこれがかなりいい席である。しかもびっくりすることには、私の隣の隣に座ったのが、(すでにロビーでは見かけていて驚き済みだったが、その)蜷川幸雄さんなのだった。この日記を読んでくれている人の大半が同時に宮沢さんの「富士日記2」の読者でもあると思われる状況で説明するのも余計かと思われるけれど、今回のこの『鵺/NUE』を蜷川さんが観に来るということの事件性については、わかりやすく特別な理由があるのであって、それはつまり宮沢さん自身が説明するように、
なにしろ清水邦夫さんの初期戯曲を多く引用しており、それをかつて演出していたとおぼしき「演出家」が登場するこの劇において、それが誰をモデルにしているかは明白じゃないか。
という訳である。といって観劇後のいま、もちろんそうした「事件性」のみが私を興奮させているのではない。
■いくぶんかの予兆があったというのは、開演前においてすでに、その舞台装置にちょっとやられていたからだ。グレイスケールの階調のなかに抑えられた端正な舞台装置。端正であるという点では、むろんいつだって、たとえば『トーキョー/不在/ハムレット』の場合だってそうだったけれど、グレイスケールのトーンがそれをさらに際立たせて、「まあ、北関東じゃあこうはいかないよな」というかっこよさを「トランジットルーム」は漂わせる。
■幸福な予感は開演後まもなくさらに強まる。ひとりひとりの人物や、そこから浮き上がってくる物語の際立ち方が、先日観た通し稽古の印象よりもずっと、格段によくなっていて、まるでちがうものがはじまったかのような印象さえあった。客席は、よく(あとで聞いたところによると「これまでになく」)受けていた。随所で笑いが起きる。反応のいいお客さんに役者も乗る、という面が少なからずあったかもしれない。途中、そんな笑っちゃって、ちょっと大丈夫か(後半に向かって劇のリズムを狂わせやしないか)と思われるほどだったが、それは杞憂だった。劇のリズムは狂わなかった──あるいは、劇の側がそれ以上の狂気をきちんと孕んでいた。
■便宜上「劇中劇」と呼んでしまいがちな、清水邦夫戯曲からの引用部分は、しかしけっして「劇中劇」としてではなく、「劇」としてそこにあった。引用の織物に縫い目はなく、逆にすべてが引用なのではないかとさえ思えたのは「劇についての劇」である『鵺/NUE』においては当然のことなのかもしれないものの、そこに宮沢章夫の凄みがあった。「かなり無意識に戯曲を書いた」と宮沢さんは言い、じゃあそれはそうだったのだろうと承知するとして、ならばそれを意識にまで浮上させてくれた役者の身体に乾杯しなければならない。幸福な夜に私は立ち会った。
■宮沢さんのクルマで下北沢まで送ってもらい、そこから上村君とふたり井の頭線に揺られながら、さらに舞台についてよくしゃべる。刺激的だった。
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