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Nov.
2006
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/ 13 Nov. 2006 (Mon.) 「アフタートークのことなど」

ガブリエル・ガルシア=マルケス『わが悲しき娼婦たちの思い出』(新潮社)。

ティム・バートン、マイク・ジョンソン『コープスブライド』(2005)。

昨晩の興奮冷めやらぬ身体はよく動き、土曜日(11日)はほぼ一日がかりの丹念な家の掃除に精を出すことになる。反動で日曜日(12日)はぼんやりした一日をすごした。日曜の午後には妻の両親が改造の終了した庭の具合を見にクルマでやってきた。ガルシア=マルケスの『わが悲しき娼婦たちの思い出』を読み、夜、WOWOWでティム・バートンの『コープス・ブライド』を見る。10日付けの日記をノートに下書きしはじめるものの進まず、更新するまでに至らない。結局その更新は今日の夜にまで持ち越してしまった。こうして日記の日付はずれていく。
同じ日記をいつまで推敲しているわけにもいかないと、「あ、書けたな」と思えたところであとのことはあきらめ、えいやっと更新したが、それでいくつか書き漏らしたことがある。ひとつは絓秀実さんと宮沢さんとで行われたアフタートークのことで、私としてはそのなかで語られた「わからなさの擁護」とでも呼ぶべき問題が興味深かった。
劇中のせりふには「アルトー」が登場するが、当時訳出され紹介された難解な思想書にはそののち多くの「誤訳」が指摘され、近年、訳の質が向上することによって、ある部分の不可解さは単純に解消されてしまうといった事態が進行している。そうして「わかりやすく」なった翻訳は、徒労感さえ漂うような無闇な難解さから読者を解放したけれども、しかし、その「とにかくわからない」ものに付き合うことによって当時の読者が受け取っていたような「思考を喚起する力/言葉のざらつき」を、われわれはわかりやすさと引き換えに失っていってはいないだろうかというのが、絓さんの発言趣旨だったかと思う。これ、ある意味、絓さんはとても無茶なことを言っているわけだ。なにしろ、「誤訳よりも正しい訳のほうがよい」という、自明とも言える(少なくとも「進歩」を前提とするような近代的精神にとっては自明な)命題に対して留保を試みようというわけである。
先日オモテのブログのほうで新訳文庫版を紹介した『アンチ・オイディプス』も、その旧訳には「誤訳」に対する非難がつきまとっていたようで、たとえばアマゾンの商品ページにあるカスタマーレビューのひとつは、なんとも啓蒙的な態度でもってその訳業を切って捨てている。

訳がひどい。例えば、「連合」や「契約」の意味も持つ alliance をすべて「縁組」と訳しているせいで、ユダヤ教の中心教義としての「神との縁組」なんて表現が出てきて読者を脱力させる。副詞や接続詞の訳し方もしばしばミスリーディングであり、原文の論理を裏切っていることも珍しくない。単語レベルでの誤訳や不適切な訳の数々とも相まって、三読四読しても意味不明の箇所に満ち満ちています。

 おそらく、事実の指摘としてはあたっているのだろう。しかし、とそこで絓さんならおそらく言うのだ。たとえ「単語レベルでの誤訳や不適切な訳の数々」があろうとも、そして「原文の論理を裏切ってい」ようとも(!)、たまさかそこに出現してしまった「わけのわからないもの」の「ざらつき」をこそ、いまわれわれは擁護しなければならない、と。そしてその「ざらつき」を、「わかりやすく」「滑らか」になっていこうとする世界に対置しなければならない、と。それは、いわば「理不尽」な抵抗である。
たぶんに牽強付会かもしれないけれど、私は、上野千鶴子の次のような言葉を思い出していた(正確に言うとどこかで上野千鶴子が「似たようなこと」を言っていたような気がし、それで探してみたところ、私が「似たような」発言として捉えていたのはおそらく次の言葉だったと思われる)。

思想的であるということは、痩せ我慢をするということです。
上野千鶴子「不安なオトコたちの奇妙な〈連帯〉」(『バックラッシュ!』所収、双風舎)

 これもまた「リベラル」な感覚をひどく逆撫でするにちがいない言葉である一方、どこか解放感をともなった態度表明でもあり、まあ単純に言ってしまうと「わからないものを読む/書く」という「痩せ我慢」によって支えられる「(有効な)思想性」というものがあるのではないかと、そういうふうに私はつなげて考えた次第。
そうそう、ところで前掲の発言は、もっときちんと引用すると、次のような流れのなかで登場する。

ナイーブでなくシニカルでありつづけるためには、知的体力がなければいけません。知的であるということは、批判的であるということで、批判的であるということは、まず第一義的に自己批判的であるということです。とはいえ、誰だって自己批判などやりたくない。さらに、思想的であるということは、痩せ我慢をするということです。
同前

 ここでは「シニカルであること」が肯定的に語られている。対置されているのは「ナイーブであること」だ。アフタートークのなかで宮沢さんは「シニシズム」に対して断固否定的であろうとしつつも、それが内包(もしくは隣接)する「批判的態度」について、いわば「肯定的なシニシズム」とでも言うべき何かが、一方の側面としてきっと存在するのだろうとも述べた(正確には宮沢さんは「肯定的なシニシズム」という語の用い方をためらい、最終的には「肯定的な批評性」と言い直していた)。また、その場で、絓さんが「シニカルであること」に対置して使っていたのは「ポジティブ」という言葉だった。ひょっとすると、いや、思いつき以上のものではないのだけれど、先の文章で上野が「ナイーブ」に対置して使う「シニカル」こそが宮沢さんの言う「肯定的な批評性」なのであり、一方で断固否定されるべきは「ポジティブ」にまで対置されるような意味でのそれであると、ひとまずそのように用語を整理することはできないだろうか。ナイーブさに対して批判的でありつづけつつ、しかしけっして批判的態度それ自体が目的であるかのように見誤ることもなく、目線の先には希望を(いまは見えないとしても)見つづけること。宮沢さんが試みようとする「シニシズムの否定」とは、たとえばそうしたことだろうか。

本日の参照画像
(2006年11月15日 02:44)

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