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Jun.
2007
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/ 29 Jun. 2007 (Fri.) 「『ニュータウン入口』準備公演・初日を観る」

※14時ごろ一度アップしたのち、加筆/修正して再度更新しました(2007.06.30 21:54)

夕食の相談で妻に何が食べたい?と聞かれ、「三日三晩炊いたごはん」という答えを思いついた。どんなんだそれは。
『ニュータウン入口』の準備公演・初日を観る。いやあ、「いろいろな試み」についての部分などは、まだこれ書かないほうがいいだろうな。
客席には浅野(晋康)君、(鈴木)将一朗君、片倉(裕介)さんらの顔があった。「初日乾杯」というやつにまぜてもらい、そのあと宮沢さんのクルマで新宿まで送ってもらう。舞台に出ている上村(聡)君、實光(崇浩)君が乗り合わせて、車中は例の、「實光君のための観光スポット案内──實光君がよろこぶツボとは何かをめぐって──」である「富士日記2」6月24日付を参照)
今日まず食いついたのは「兜町」。どうやらはじめ場所のイメージは湧かずに、「カブトチョウ」という言葉の響きだけでもって反応していたらしい。「金融街だよ」と教えると「金融街 !?」と高い声をあげる。クルマは結局、神宮外苑を通るコースで新宿にむかったが、そんななか今日いちばんの食いつきは「国立競技場」だった。(おそらく前にもそうしたでたらめな紹介があったのだろう、)「これもひとりの人が建てたんですか?」と實光君が質問を投げると、「そうだよ、だからたいへんだよ円(トラック)を描くのが」と宮沢さん。
「いろいろな試み」とは比較的関係のない部分について少し書こう。というのは副題のことだ。「リーディング公演」とのはっきりとした違いは、なによりもまず副題が付いたことにあるだろう。「または私はいかにして心配するのをやめニュータウンを愛し土地の購入をきめたか」。これにより、あらためて戯曲の構造の中心に立つ者が「私=根本洋一=家の購入を検討する男」であることが明らかにされる(この場合の「中心」が、たとえば夏目漱石『三四郎』における三四郎のように、じつは周りで起こっていることをなにも理解できていない空虚な主人公──その無理解によって逆に周囲の群像劇が浮かび上がる──という意味だったにしても)。代演した實光君がかえってハマったとみるべきか、それとも「いろいろな試み」による戯曲のカットアップの効果なのか、準備公演では、リーディング公演のときよりももっと、その「中心としての根本洋一」が意識されやすくなっていたように思えた。
ところで、この副題がスタンリー・キューブリックの映画『博士の異常な愛情』からの引用/もじり(「または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」)であることはまず間違いないとして、であるならば、どうしたってこれはやはり〈皮肉〉であるわけで、「心配するのをやめ」ることにはひとまず負の意味が込められていると読まなければならない。ラスト、根本夫妻を招いて行われるビデオ鑑賞会のシーンは、いっさいが済んだあとの華やいだ(静かに華やいだ?)時間としてあるが、そこが華やいでいて、安堵に満ちていればいるほど、同時に一方で、この人はついに「心配するのをやめ」たのだ──〈パレスチナ〉を視ることをやめたのだ──という哀しみが強調される。むろん、根本が選択した「幸せ」──たとえば、〈妻が望むもの〉を選び取る、といったこと──を、戯曲は否定しない。そして、それが否定されないことによってこそかえって──、ということのくり返し……。
物語の期待を一身に背負うのは、結局のところ、その土地の成り立ちを描いたとされる一本の映画(『ニュータウン入口』)なのだろうか。「支部局長・加奈子」の言う台詞、「そうね、その映画ね」を聞くとき、なぜだろう、たとえば8ミリフィルムで撮られた家族の記録のような、ひどく個人的な題材を捉えたカメラの、淡い色合いが浮かぶ。その内容が戯曲中に描かれていないという意味で、映画は物語の外部にあり、そしてルールとして、物語の外部に答えを求めるべきではない。とすれば、やはり──
新宿駅に届けてもらったあと、上村君とふたり、ずいぶん長いこと話し込んでいた。いろいろ話したなあ(全部舞台のことですけど)。さらには中央線が何やら遅延・混雑していて、家に着くと1時を回っていた。妻の作ったスパゲティー・ナポリタンを食べて寝た。

(2007年6月30日 14:02)

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