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Oct.
2007
Yellow

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/ 14 Oct. 2007 (Sun.) 「東洋大学へ、ほか」

熊谷(知彦)さんからメール。きのうの日記に書いた感想はよろこんでもらえたらしい。あたりまえだが、石坂浩二はまったく意識していなかったという。ただ、なぜ石坂浩二に似て見えたんだろうとして私が書いた〈いやらしくてだめな男前〉という説明については、「意図していたものに近かったので嬉しかった」とあった。そうか、意図してもいたのか。私にはたくまずして滲み出てくるもののように見え、とすればなおさら成功していたということだろう。そういえば、妻は今回その舞台を観ていないのだが、きのうの日記のその箇所、

途中から、どうしても石坂浩二に見えてきてしかたがなかった。単純に「似て」見えたんだけど、なんだろう、〈いやらしくてだめな男前〉ってことかなあ。

をとなりで読んでいた妻は、「わかる、わかるよー」と強い語気でうなずいていた。観てないでしょ、あんた、とも言いたくなったけれど、しかし、おそらく妻はその瞬間、舞台上の熊谷さんを正確に想像し得ていたはずだ。なにしろ妻は熊谷知彦ファンである。
基本的な傾向としてうちのサイトは土日にアクセスが減るということがあり、そのせいも多少あるのだろうけど、「〈総理大臣といえば〉アンケート」は低調な滑り出しだ。さびしいので、まだ答えていない方、ぜひ参加してもらえればと思います。まあこれ、要は読者の年齢層を尋ねているという面が強いのだけど、じゃあ直接年齢を訊けばいいかというと、なんというかその、数字で年齢を言われてもそれほどピンと来ないということがある。それが、「総理大臣といえば池田だね」とか、「海部だね」とか言われるとより強くピンと来るというか、へえーと思うのだった。「へえー」かよ、ということでもあるけれど、ま、なぜだか知らず楽しいので、一票投じていただければと思います。
昼間に出掛けて、東洋大学の白山キャンパスへ。東洋大学は受験した大学のひとつで、そのときの会場がはたして白山キャンパスだったのか、校舎がどんなふうだったか、なにひとつ記憶にないのだったが、少なくともこんなにきれいではなかったはずだ。大学受験ももう十年以上前のことになってしまった。
で、今日は、日本パーソナリティ心理学会が主催する公開講演とシンポジウム、題して「演劇におけるHow to個性記述」へとやって来た。宮沢(章夫)さんが講演者として40分ほど話をし、そのあと他のパネリストも加わっての討議となる。えーと、「演劇におけるHow to個性記述」というネーミングセンスがまずちょっとどうなのかということはあるけれど(たんに「演劇における個性記述」でいいじゃないか。あるいは「演劇的な個性記述とは何か」とかさ)、それはさておき、門外漢ながらに理解したところを説明すれば、個体間の差異の数値化といった面には長けている心理学が、しかしそのために不得意とするのが個体そのものがもつ──そして「いま・ここ」に現れる──〈その人らしさ〉の記述であり、従来の研究からこぼれ落ちてしまうこの「そのもの性」(ひいては絶対的な「多者性」)の問題を扱う方法の模索にあたって、演劇というまた異なる志向性をもつジャンルから人を招き、その「演劇知」のようなものに触れてみようというのが今回のおおまかな趣旨である。
で、宮沢さんの講演は、「演劇」と言うときに意味されるふたつのもの、〈ドラマ〉と〈身体〉とをまず分け、前者から後者へとむかった歴史的な変遷(ベケットの登場を機として、とくに'60年代以降、演劇は〈ドラマ〉を捨て〈身体〉をめざした)、そしていま、ふたたび〈ドラマ〉(=言葉)を取り戻しつつ、どちらか一方なのではなく、両者の統一のなかからこそ現在的な演劇が立ち現れるはずだという展望、そこに別役実さんが『ベケットといじめ』で取り上げているドラマツルギーの問題を絡め、また、具体的な〈身体性〉の現れの例としてワークショップでの体験などを紹介していたわけだが、で、いま「富士日記 2.1」を読んでみれば、

予定ではまだものすごく話すことがあったのだ。現在的な身体から考えられる「個性記述」といったものをきのう考えており、そこまで話さなかったらだめだったと思う。失敗。

とあって、なんだよそれ、そうなのかよって話だけど、まあうん、そうだな、聞きたかったなそれ。あるいはその「考え」は、先日来「富士日記 2.1」で言われている「('00年代にあっての)論」の、そのひとつの道筋にもなったりするのだろうか。
会場に行ったら編集者の竹村さんがいた。竹村さんは今度の「句会」の参加者でもある。で、句がなかなかできないことの苦悩を訴え、「季語がわからない、それは必要なのか」と根本的なところを投げかけてきた。季語はね、面倒だよね。うちの「句会」は会のスタイルがあるわけでもないので、なんだったらべつに「無季」でも、「不定型」でもかまわないと思う。第一回のときは私、「短歌」出しちゃったしね。ま、なんだかんだ言って、きっと素晴らしい句を出してくるにちがいないのが竹村さんである。
あと、『ニュータウン入口』に出ていた杉浦(千鶴子)さん、演出助手だった白井(勇太)君も来ていた。制作の永井さんは受付で働いていた。ショートカットになっていたのではじめ気がつかなかった(といって「ショートカットの永井さん」はたしか前にも見たことがあるはずだが)。うーん、やっぱショートカットがいいよ、永井さん。
そうそう、こないだネット某所で白井君の文章を見つけたのだった。なにせハタチであるところのその若々しい文章を「なるほどなあ」というふうに読む。ひるがえって俺、ハタチのころにはどんな文章を書いていたのか。いまでこそこうして「日記」(結局あまり「日記」になってないけど)を書いているが、ウェブサイトを開設したばかりの十年ほど前、私はウェブ上に置かれる「日記」について否定的に捉えていた。少なくとも「俺はあれはやるまい」と思っていた。というのは、まず、〈個人ホームページ的なるもの〉が大嫌いだったのである。それがあるとき変わった。〈個人ホームページ的なるもの〉を面白いと思うようになった。あ、だからハタチのころの文章というと、たとえばこれ(1996年)とかになる。べつにいまとあまり変わらないようにも思えるが、若いといえばやはり若い。いまだって充分若いわけだけど、「日記」をコンテンツとして提出してみせられるほどには、多少老獪になったということだろう。

(2007年10月15日 13:30)

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