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Feb.
2008
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/ 8 Feb. 2008 (Fri.) 「来日記念プレ企画『アントニオ・ネグリ 反逆する時代の知性』」

「ネグリさんとデングリ対話」(@芸大)のチラシ。クリックで拡大。また、詳細はこちらのページに。

「ネグリ氏講演会/新たなるコモンウェルスを求めて」(@東大)のチラシ。クリックで拡大。また、詳細はこちらのページに。

夜、会社を引けてから六本木の国際文化会館へ。〈アントニオ・ネグリ初来日記念プレ企画 パネル・ディスカッション「アントニオ・ネグリ 反逆する時代の知性」〉を聴く。

  • イントロダクション 市田良彦(神戸大学教授)
  • 歴史ドキュメンタリー「『鉛の時代』から〈帝国〉へ」上映
  • プレゼンテーション
    姜尚中(東京大学教授)「『帝国』とアメリカニズム」
    宇野邦一(立教大学教授)「生の政治のゆくえ」
    竹村和子(お茶の水女子大学教授)「マルチチュード/暴力/ジェンダー」
    木幡和枝(東京藝術大学教授)「マルチチュードと芸術」
  • 全体討論「今、なぜ、ネグリか? その思想のアクチュアリティー」
    モデレーター:市田良彦
  • 質疑応答

 会は上記のような流れで、1時間ぐらい遅刻して着くと宇野さんが訥々としゃべっているところ。
いやー、面白かったね。なかでも、ひとりアッパーな調子でのプレゼンテーションだった木幡さんは、ネグリの文章がもつ「アフォリズムとしての強い喚起力」を称揚しつつ、自身もまた短いセンテンスで印象的な言葉を連発するから、聴きやすいがゆえにかえってメモの量が増えた次第。以下、私のメモから再構成した木幡さんの発言の断片を載せておこう(あくまで私の理解した範囲でのメモですのでその点ご留意を)

  • ネグリの思想に関しては「(それで)どう踊るか、テンポに乗るか」だと思っている。ネグリの文章には、このリズムで踊ってもいいなと思わせる、アフォリズムとしての強い喚起力がある。
  • 「即興」というと〈その場の思いつき〉というイメージを持たれがちだけれど、そうではない。これまで多くのすぐれた即興者に出会い、つぶさに見てきたなかで彼/彼女らに共通するのは、微細で厖大な、深いレベルでの〈記憶力〉である。自分の身体がいつ何をしたかということを、彼/彼女らはみごとに記憶している。
  • 「芸術は革命に先行する」というネグリのスローガンにはまったくうれしくなるが、もちろんそこで言われる「芸術」は、根底的に再定義した上での「芸術」である。
  • かつてスーザン・ソンタグに会ったときに、彼女の言葉に深く感銘/衝撃を受けた。ソンタグ曰く──「前衛芸術」だの「伝統芸術」だの言うけれど、芸術には前衛も伝統もない。芸術そのものが社会の前衛なのである。
  • これもかつてのこと、精神と身体をめぐって土方巽とアルトーとがそれぞれ別の場所で、まったく同じ立場から発せられていると思える言葉を書いていたことがあり、感銘を受けた(たとえば土方の「生理にまで高められた精神」という言葉、「発汗した肉体なしに精神はありえなかったはずだ」(←正確な引用じゃないです)という主旨のアルトーの発言など)。そして、ネグリにはどこか「そっちのリズム」を感じる。
  • ネグリのいう〈帝国〉について私がイメージとして思い描くところは、空海の「重々帝網(なるを即身と名づく)」という語である。また、〈マルチチュード〉の視覚イメージとしては伝統工芸品の「でんぐり」が浮かぶ。「でんぐり」がでんぐり返る(高密度に圧縮され閉じられた状態から一気にひらく)とき、それは〈内が外を包む〉かのようであり、表面に無数にひらいた穴はすべて芯まで届いている。
  • 〈マルチチュード〉を準備する契機でもあるネグリのキーワード「非物質的労働」は、その語の響きからまったく現代的でスピーディーな情報化社会における働き手を連想させるが、ネグリ自身が付け足して言うように、〈マルチチュード〉が要請する身体にはどこまでも、ある種の「愚直さ」が求められる。
  • しばしば指摘されるネグリのオプティミズム(楽観主義)について。文章から、またじっさいに会った印象からもそうだが、彼はまず透徹した「唯物主義者」であるように感じる。彼のオプティミズムはそこから発したものであり、だから、彼はけっして「一瞬ですべてが変わる(うまくいく)」とは思っていない。

それから、これも木幡さんの発言だけど、今回の来日イベントの招待状を直接手渡しに行ったさい、ネグリに「日本ではどこに行きたいですか」と質問すると(ネグリはたんに講演しに来るのではなく、ネグリ側からすると日本における実地調査/研究という目的もある)、一瞬黙考したのち、「日本のサンディカリストに会いたい」と答えたという。「で、困っちゃった(笑)」というのは木幡さんの言だが、そこで考えた末、芸大で行われるイベント「ネグリさんとデングリ対話──マルチチュード饗宴──のほうでは、この国の「路上」に発生しつつある〈新しいかたちのユニオン〉を集めて、彼/彼女らにごそっと会ってもらおうということになったのだという(「素人の乱」の松本哉さんが参加するのもこれ)。で、この発言に呼応したのが会場に聴きに来ていた上野千鶴子さんで、質疑応答のさいに立ち上がり、「ネグリさんが『日本のサンディカリストに会いたい』と答えたと聞き、感服いたしました。『サンディカリスト』には一般に『労働組合』と『協同組合』のふたつの訳語がありますが、後者の意味を汲み、私ならまずNPO団体で老人介護をしている人たちに会ってもらいます」と発言。木幡さんがさらに応えて「そういう人たちも呼んでますから、大丈夫です」。
またべつの質疑応答の流れで、モデレーターの市田さんが紹介したネグリの発言も印象的だった。とかく「非物質的労働」が称揚されるネグリの〈マルチチュード〉論にたいして、「では、われわれは置き去りにされるのか」と反発した農業労働者に、ネグリはこう説明したのだという。(これも大意です「あなたが行っている農業もまた、非物質的労働ではないのか。もしあなたが単純な工業プロレタリアートなのだとすれば、日々作物と対話し、知と技術の蓄積の上にそれを育てていく農業は、不可能なのではないか」。

会場からの発言とそれへの応答もひと段落し、会も無事に(?)終わろうとするかにみえたそのとき、前方中央に座っていた聴衆のひとりが手を挙げ、立ち上がって、回ってきたマイクでしゃべりはじめた。74歳だと自己紹介するそのおじいさんの独白に、まさかなあ、泣かされるとは思わなかったよ。
「『帝国』と『マルチチュード』を読みました。とても難しいですね、この本は」といった調子で発言ははじまり、会場には軽い笑いを誘うが、しかしおじいさんはそうした軽妙さを狙うのでもなく、ただその胸の興奮を押さえきれない様子でつづける。……どうにかこうにか『帝国』と『マルチチュード』を読んだ。その読解に不可欠だと聞いてドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』、これも読んだ。『千のプラトー』も、逐一註に返りつつ読み進めた。私は老人になったことを喜んでおります。勤めをやめて、なにしろ時間がある。読みたい本を自分のペースで読むことができる。やっとのことで読み終わりました。驚かされました。そこには、これ以上ないというような希望が書かれています。すばらしい本です。この絶望的な時代にあって、私と一歳しか変わらないネグリが、こんなに希望に満ちた言葉を書いている……
いやまあ、ちょっとうまく再現はできないのだけれど、泣いた。さらにおじいさんの言葉はつづいて、満座の拍手とともに閉じた。もっと読まねばな、もっと働かねばなと思い思い、帰途についた。

本日の参照画像
(2008年2月12日 12:54)

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