/ 13 Feb. 2008 (Wed.) 「私もまた、バートルビーに」
■市川崑監督の訃報におもわず「あ」と声を漏らす。けれど九十二歳、九十本(だいたい)。何の不足があろうかと、思えば思えないこともない。
■家に着くと、ポストに『空飛ぶモンティ・パイソン 第1シリーズ』の見本が届いていた。
文章のテイストなどの件で、相談にのっていただいた相馬称さんにも感謝です。
須田泰成「あとがき」『空飛ぶモンティ・パイソン 第1シリーズ』
というこの引用はまったくのところたんに自慢だが、でもさあ、ちょっと見てくださいよ、上の写真。奥付。グレアム・チャップマンと名前が並ぶなんてこたあ、まずめったにないよこれ。単純な話、そのことがうれしい。
■でまあ、その件のくわしい話はまたあとで書くことにするとして。
■先日の「ネグリ来日記念プレ企画」(当日のレポートはこちら)のなかでモデレーターの市田良彦さんが、『帝国』におけるネグリのアメリカ論にあきらかな影響を与えている先行テクストとして紹介していたのが、ドゥルーズによるメルヴィル論「バートルビー、あるいは決まり文句」(『批評と臨床』所収)。これを買って読み、で、やっぱりメルヴィルの短編『バートルビー』も読まないとはじまらないから、その新訳が附されて月曜社から出ているジョルジョ・アガンベン『バートルビー 偶然性について』を買う。
■面白いなあ、『バートルビー』。いまはただ「面白い」と言う以上にまとまった言葉を書く用意がないが、これ、面白いよ。
■月曜社の『バートルビー 偶然性について』にはさらに訳者(高桑和巳)による「バートルビーの謎」という文章が付いているが、これがじつにためになる解説で、ブランショにはじまり、さまざま人によって語られてきた『バートルビー』論の論史を、目配りよく簡潔に、かつ魅力的に案内してくれている。それでついついいろいろ読みたくなるが、その前にまずメルヴィルか。さいわい妻の蔵書のなかに『ピエール』があったはずで、それから読もうかとも思うが、だいたい『白鯨』だってちゃんと読んだことがないよ。
■話はまとまらないが、最後にドゥルーズの言葉を。
「父親なき社会」の危険がしばしば指摘されてきたが、父親の回帰以外に危険など存在しない。この点に関し、二つの革命、アメリカ革命とソビエト革命、プラグマティズムの革命と弁証法の革命の挫折を切り離すわけにはいかない。移民の世界化も、プロレタリアの世界化同様、成功しなかった。南北戦争がまず弔鐘を鳴らし、やがてソビエトでの粛清がそれに続くだろう。国民の創生、国家=国民の再興がおこなわれ、恐るべき父親たちが駆け足で戻り、その一方、父親なき子供たちがまた死んでいくようになる。紙くずのごときイメージ、それがアメリカ人の運命であり、プロレタリアの運命でもある。だが、大勢のボルシェビキが、一九一七年以来、悪魔的な権力によって叩かれる扉の音を耳にしたように、プラグマティズムの実践者たち、そしてすでにメルヴィルも、兄弟社会を巻き込んでいく仮装行列の到来を目にしていた。ローレンスよりもずいぶんと前に、メルヴィルとソローはアメリカの病い、つまり、壁を復旧させる新たなセメント、父親の権威、下劣な慈悲を見立てていた。だからこそ、バートルビーは監獄で死んでいくのだ。
ジル・ドゥルーズ「バートルビー、あるいは決まり文句」『批評と臨床』
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