/ 16 May. 2009 (Sat.) 「ショット/切り返しショット化」
■太陽光発電パネルの設置工事が朝から。午後3時すぎに終了。が、じっさいに動くようになるにはこのあと、日をあらためて東京電力が来たりして出力調整などの作業を経ねばならず、その日程は東京電力の都合次第なので、見込みとしてあと二週間ぐらいはただパネルが載っているだけになるとのこと。
■そのあと出掛けて、ジュンク堂書店新宿店へ。廣瀬純さんと青山真治さんによるトークイベント「運動と映画──『闘争のアサンブレア』をめぐって」 を聴く。
■トークに臨んで(まあ当然ながら)相当準備してきたらしい青山さんがまず、「廣瀬純とは何者なのか」「廣瀬純はいったい何がしたいのか」というふたつの問いを投げ、そこからセッションはスタート。前者の「何者なのか」というのはつまり、経歴的にも著作リスト的にも、一見脈絡がないかのようないくつかのフィールド/主題を行き来する廣瀬さんにたいする素朴な質問として本人にぶつけられたものだが、それにたいし、廣瀬さんが持ち出したキーワードが〈切断〉である。「ひじょうに美化して言えばですよ」と前置きしつつ廣瀬さんは、わたしはどこまでもドゥルーズ・ガタリ主義者なのであって、かれらの言う、「欲望の流れはつねに〈切断〉とともしかありえない」というその原理にのっとっているだけなのだという。では、その〈切断(による欲望の流れ)〉とはどういったイメージのものなのか。たとえば(まさにいまがそうであるような)対話において、相手のしゃべることに刺激を受け、そこから着想を得てこちらも発言するが、そのさいこちらの発言は、直前に相手がしゃべった内容と直接的につながっていなくてもかまわず、相手をさえぎってまで(話題を「切断」してまで)とにかく自分もしゃべりたいという欲望に突き動かされるような、そうした相手/対象との関係の連鎖がそうなのだと廣瀬さんは説明する。つまり、「切断する気も起きないものに用はない」というわけである。
■今夜の対話はそうした(ある種幸福な)「切断」にあふれたものだったから、どこからどういう流れでその話題になったのか忘れてしまったが、前半のほうで廣瀬さんはクリント・イーストウッド監督の『ミリオンダラー・ベイビー』を取り上げ、そのショット分析を行ってみせた。主人公の女性ボクサーとイーストウッド演じるトレーナーは、物語のある時点までつねに〈ショット/切り返しショット〉の関係のなかにあり、あるいはリングロープをはさんで〈遠 - 近〉に分断されるかたちでしかひとつのショットに収まることを許されないが、物語がその悲劇的結末へとひた走りはじめる決定的なシーンにおいて、両者はついにひとつのショットに収まる/収まってしまうのであり、つまり『ミリオンダラー・ベイビー』においては、「ひとつのショットに収まることの悲劇」といったものが描かれているのだ、云々。
■そうした話に至ったのは、思い出したが、映画批評誌『nobody』(29号、2009年2月)に掲載された廣瀬さんの文章「ショット / 切り返しショット、ゴダール / レヴィナス」を青山さんが取り上げたからだった。その論考のなかで廣瀬さんは〈ショット/切り返しショット〉の三つの様態、すなわち「フェイス・トゥ・フェイス」「サイド・バイ・サイド」「バック・トゥ・バック」を分類・分析するのだが、わけても「バック・トゥ・バック」という様式のもつ可能性に注目している。「バック・トゥ・バック」──あるいは「フェイス・トゥ・フェイス」を切り崩すこと──が戦略としてすぐれているのは、つまりそれがショットの切り返しのあいだに〈第三者〉を闖入させることにつながり、それによって〈無〉を形象化できるからだというわけなのだが、紹介されているように、同様の主張を行うひとりであるゴダールが、『アワーミュージック』のなかで引いているというブランショの言葉がこれである。
映像のそばには〈無〉が滞留している。映像の力のすべてが表現され得るのは、映像がこの〈無〉に呼びかける限りにおいてなのだ。
この言葉に青山さんはひどく打たれたといい、準備中の作品にとっての大きなヒントをもらったという。
■さて、トークセッションの翌日に更新されたブログには、
ともあれ自民党と民主党のショット/切り返しショット化を推進すること、だな、当面のミッションとしては。
MINER LEAGUE - 切断は闇の中
という一文が書きつけられているが、これに関してはこういうこと。青山さんと廣瀬さんは例の「定額給付金」について、政策そのものがいかに愚策であろうとも(愚策であるのは間違いないだろうがしかし)、とにかく、それによって幾ばくかの金をわれわれが国からせしめることができたのだというその意味において、やはりそれは歴史的な成果だったのだと評価する。で、それを「せしめる」ことができたのはつまり、「政権交代あるかもよ」というプレッシャーを自民党が感じたからにほかならないのであって、是非はともかくとしてどのみち「二大政党制」がやってくるだろう現在、われわれにできることはかれら職業政治家から「なるべく多く」を引き出すため、かれらにプレッシャーを与えつづけることなのであり、そのためにこそ、二大政党たる自民党と民主党とをただしく対立軸のあちらとこちらに──すなわち〈ショット/切り返しショット〉の関係のなかに──運動させなければならない。だから、(心情的にはそりゃあどちらかといって社民党や共産党を応援したいかもしれないが、また、そうはいっても○○の名前を書くのはキツイといったことがあるかもしれないが、)何よりもまず、次は民主党が勝たなければならないのだという話。
■で、そうなると前述の『ミリオンダラー・ベイビー』論が思い返されたものだから、わたしは発言中の青山さんを「切断」して、「ひとつのショットに収まってしまうことの悲劇へと、それが至る可能性は?」という問いを投げたのだった(ま、すでにいったん質疑応答タイムにはなっていて、でも誰も手を挙げないのでふたりがしゃべってるという状況だったわけですが)。応えて青山さん曰く、「うん。その可能性はあるし、それ以前に、ひょっとしたらすでにひとつのショットに収まってしまっていると言えるのかもしれない。でもだからこそ、やはりわれわれは〈ショット/切り返しショット〉化へ向けて、行動しなければならないんじゃないか」。
■その後、べつの質問が二、三出て、イベントは終了。いやあ、楽しかった。廣瀬さんの新刊『シネキャピタル』(言うまでもなく、「シネ」はシネマを指すのと同時に、「死ね」でもあるんでしょう、きっと──って書いてたらあれじゃないか、扉のデザインにはっきり「死ねキャピタル」と使われてるじゃないか)と、『nobody』の28号と26号を買う。肝心の、話に出てきた29号がジュンク堂にはなかったので、それを紀伊国屋で買って帰る。
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