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Jun.
2009
Yellow

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/ 17 Jun. 2009 (Wed.) 「なぜ、ですます?」

クロード・レヴィ=ストロース『生のものと火を通したもの (神話論理 1) 』(みすず書房)

小田亮『レヴィ=ストロース入門』(ちくま新書)

『シャーリーの好色人生と転落人生』@大阪・福岡

深夜、いせ(ゆみこ)さんのブログが更新され、池袋シネマ・ロサで『最後の怪獣』を観た日のことが書かれていました。そこに、

上映後にも、観に来てくれた遊園地再生事業団で世話になった相馬さんと「表現すること」について少しお話。
シネマロサにて-Suimire

とあるのを読めばなんとも面映ゆいのですが、まあ、そうした話をしたことはたしかです。いせさんのどういう質問がきっかけで話がそちらへ向かったのだったか、すでになかば忘れているわけですが、たしか、本を読むことと文章を書くこと、いわばインプットとアウトプットの対応関係のような話から「表現すること」そのものへと話題が及んだように記憶しています。
 とはいえ、いせさんのアタマにははじめから「表現」の問題しかなかったようにも思え、その証左としていせさんは何度もわたしを「表現者」呼ばわりするのですが、そうしていせさんの口をついて出る質問たちが、あくまで「表現」にまつわるあれこれであるにもかかわらず、同時に、いわば「人生相談」めいた響きを漂わせてしまうことにわたしは相手をしつつ興味が湧き、また瞠目していたというのはつまり、一般論における安易な同一視としてではなく、そのとき、そこ(わたしのとなり)にはやはり、「表現すること」がいかんともしがたく──かつ、いたって自然に──「生きること」を巻き込んでしまうような、そうした特別なひとが出現していたのだということです。みなさんがかつて出会った「いせゆみこ」もまた、そうした存在として、舞台やスクリーンで笑っていたのではないでしょうか。
 問題は「なぜ、ですます体なのか」ですが、いまさら訝ってみてもはじまりませんから、先をつづけましょう。

「表現すること」
それは何かを感じる事。でしょうか。

感動したり、うれしかったり、悲しかったり。

感じる心の強弱が、エネルギーの強弱なのか、
それはわからないけど、感じることは何かを
作り出す力になるのでしょうね。
感じたことを変換する、その形がどうであれ。

感じる事は時に疲れます。
だけど感じた事を変換できる喜びは、何ものにも
代え難いもので。あー、そうだなぁ。
シネマロサにて-Suimire

 まったく言葉の連想だけでもって話をつなぎますが、やはり、構造主義の用いる「変換」という概念のことを思わずにはいられません。レヴィ=ストロースの言う「構造」は、一般に誤解されているような〈静的なもの〉でも〈固定的なもの〉でもなく、「変換」というある種人為的な操作を加えることではじめて浮かんでくるような──そして、加える変換が異なればそのつど異なる構造が現れてくるというような──〈動きの連なり〉としてあります。
 たとえばここに、ベニヤ板で作ったひとつの三角形があります。それを太陽にかざして、地面に影を作れば、その影も三角形になります。かざす角度をさまざまに変えれば、さまざまなかたちの三角形が地面にできます。つまりこれがひとつの変換であり、変換をとおしても変わらない構造──あらゆる三角形が共通でもつ構造──がそこに現れます。
 では、その三角形をゴムの上に描き、ゴムをさまざまに伸ばしてみるとどうでしょうか。これもまたべつの、ひとつの変換であって、この変換ではさきほどとちがい、円を含む、あらゆる閉じた図形が現れてくることになります。
 「構造は変換のなかにしか現れない」というわけです。
 そのような変換の操作を介して、レヴィ=ストロースの研究があきらかにするのは、人類は誕生以来、ずっと変わらぬやり方で思考してきたのだということです。

 レヴィ=ストロースが長年の研究を通じて伝えているのは、人類の誕生以来の思考の仕方は変わっておらず、それは、他者とのあいだの無意識の交通、つまり「思考の交換と変換」によるのだというシンプルなものでした。その不変の思考のやり方が「構造主義」と呼ばれるものです。そのような無意識の思考を、「言葉にできないもの」とか「形にならないもの」と神秘化せずに、形式化によって明らかにしたところに、レヴィ=ストロースの天才があったのですが。
[日記] 祝クロード・レヴィ=ストロース100歳の誕生日

 レヴィ=ストロースがおもに研究対象としたのは「神話」ですが、そのことに関して、彼はつぎのようなことを言うのでした。

わたしは、ひとが神話の中でどのように考えているかを示そうとするものではない。示したいのは、神話が、ひとびとの中で、ひとびとの知らないところで、どのようにみずからを考えているかである。
『生のものと火にかけたもの』

 これはちょっと、すごいですね。

 いせさんをはじめとする知り合いの役者たちを思い浮かべながら書きはじめたつもりが、なんだかよくわからないことになりました。いったいどうしてこんなことを書いているのか、しかも「ですます体」なのはなぜなのか、いっさいは不明です。ただ、不明ながらも、表現者としてのいせさんはきっと、神話の大地に触れうるだろう。そのように思うのです。

 以下は、ちょっと長いですが(というかすでに充分長いですが)、上に引用したレヴィ=ストロースの言葉について解説する、小田亮さんの文章です。では、また明日。

 神話的思考の意味は、語っている人々が頭の中に所有しているのではないと同時に、分析しているレヴィ=ストロース自身も所有してはいないのです。さらに、それは、神話の中にもありません。それは、「神話のあいだの交通」においてしかなく、誰も所有できないのです。

 これは、とても奇妙なことに思えるかもしれませんが、人類にとって、なにも奇異なことではありません。たとえば、ドラゴンズの荒木選手と井端選手が、二遊間に飛んだゴロを、荒木選手のグラブトスを受けた井端選手が一塁に投げて打者走者を刺すプレーを例にすれば(なんで野球の、それもドラゴンズの譬えなんだと思ったあなた、最後まで読みなさいね)、このプレーは高度な能力なしにはできません。しかし、この「能力」は、井端選手も荒木選手も「所有」できません。じつは、人間の思考も能力もその多くが(頭の中だろうとからだの中だろうと)、自己所有できないものなのです。それは特定の他者との交通のなかにしかないからです。
[日記] 祝クロード・レヴィ=ストロース100歳の誕生日

本日の電力自給率(6月17日):88.1%

本日の参照画像
(2009年6月18日 22:27)

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