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/ 26 Nov. 2012 (Mon.) 「想像のスタイル、あるいは約束の日記」

ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体──ナショナリズムの起源と流行』(書籍工房早山)。

@obami23: 基本的人権をなくすってどゆこと自民党なに考えてんの
2012年11月25日 10:14

という大場(みなみ)さんのツイートを目にしたときには、その〈つぶやき〉としての正当性──ってのもなんだけど、そりゃそうも言いたくなるよねってこと──とともに、ふと、ネットに漂う〈発言〉としてみたときの、こうしたつぶやき群の弱さのことも思ったのだった。この表現ではおそらく、「いや、無くなりはしないよ」といった反論のしかたをしてくるだろう相手のカウンターに巧みに取り込まれ、むしろ利用されてしまうのではないかという懸念がはたらいた。この場合の反論は、対話としてのそれというよりも、通りがかった第三者への説明としてのそれだ。
てなことを言っていたら、さっそく大場さんのもとには「無くさないよ」というリプライが届いていると知り、驚く。ただ、そのリプライはわたしが想像したような、何というか〈老獪な反論〉とはちょっとちがったけれど。

@416kotaro: 無くさないよ。反日活動する団体は捕まえるって事だと思う。日本を内部から弱体化させようとする団体の影響が強いから。例えば、日本人って日本の事を良く思えなかったり、全ての右翼・保守は軍国主義で怖いという認識があったり。こういった反日活動を抑止させるためだと思う。
2012年11月25日 11:51

@obami23: 反日と判断される範囲が曖昧になって、一般レベルでの表現の自由が脅かされる可能性があると思います。政府が国が好き勝手に国民を抑圧できるようになるとすれば、それは怖いです。
2012年11月25日 22:46

@416kotaro: 判断を具体的にするのが司法の役目だよ。日本国のシロアリを駆除するために、今よりも表現の自由に少し規制をかけなければならない。反日が完成を迎えたら日本での日本人の表現の自由が規制される事も考えられる。国があって個人がある、個人があって国があるかで考えは違うけどさ。
2012年11月26日 7:44

@obami23: 政府を信用できるか、できないかで見方も変わってきますよね。現状を見るかぎり、わたしには信用できないということです。大げさに言えばこの意見自体が反日と見なされてしまう、規制されてしまうことがあり得る。それを懸念しています。
2012年11月26日 12:19

 基本的な再反論は大場さんが丁寧に(!)してくれているとおりだけれど、わたしはまたべつのことを考えたというのは、この @416kotaro さんによるツイートが、見事なまでに〈ネイション=国民国家〉の想像力を示しているように思われたからだ。

ネイションにおいては、おなじ「国語」によっておなじ出版物を同時間に読むという経験や、あるいは教育における「民族=国民史」という歴史の恣意的な読みを通しておなじ歴史的体験をしているという空虚な均質性をあらかじめ創りだすことによって、いきなり明確に境界づけられた全体として〔その共同体が〕想像されているのである。そして、この均質性の想定によって、ネイション内部でも「ネイションになりきれない」マイノリティが周縁化されるのである。(略)この〔等質的社会への帰属度合いをもの差しとした〕序列化による差別は、均質空間を構想してきたにもかかわらず残ったものではなく、均質空間を構想することによって創りだされたものなのである。

小田亮「日常的抵抗論」 第2章 原初的紐帯と想像の共同体〔太字強調は引用者〕

 もちろん『想像の共同体』においてベネディクト・アンダーソン自身が述べているように、あらゆる共同体は多かれ少なかれ想像されたものである。想像されたものであることそれ自体がネイションを特徴づけるわけではないし、まったく想像を介さない、真の、原初的共同体がどこかに存在しているわけでもない。そうではなく、ネイションが特徴づけられるのはその独特の想像のスタイルによってであり、そのスタイルというのがつまり上記にあるような、〈個人〉と、〈明確に境界づけられ、一気に与えられる全体〉とを直接的に、無媒介に結びつけるやり方のことなのである。
 「国があって個人がある〔か〕、個人があって国があるか」という対比は、どちらを優先させるかという話として(好意的に?)とれば、前者が自民党の憲法改正草案であり、後者が現行憲法であるというふうに読むこともできるけれど、それ以前に、そもそもこのレトリックにおいては「国」と「個人」という二元論(二項対立ではない)によって、両者が直接的に結びつけられているということをまず指摘しておかないといけないだろう(そして、二元論はつねに、けっきょくのところ「一」を隠し持っているということも)
 ところで、ネイションにおけるこの想像のスタイルを、小田亮は記号論的な比喩の類型──提喩/隠喩/換喩──になぞらえて、「提喩的な想像のスタイル」と呼ぶ。ざっくり説明すれば、提喩(シネクドキ)とはカテゴリーの包摂関係、すなわち〈種と類〉、〈個と全体〉の関係にもとづく比喩のことで、「人はパンのみに生きるにあらず」という言い方における「パン」(食べ物という上位カテゴリー全体をたとえている)、「親子丼」という命名法における「親子」(そのカテゴリーに含まれる、個別的な種である鶏肉と鶏卵の結びつきを表している)などがそれにあたる。また、隠喩(メタファー)は類似性による記号の結びつきを指し、換喩(メトニミー)は隣接性による記号の結びつきを指す。「白雪姫」が隠喩で、「赤頭巾ちゃん」が換喩である。

 ネイションのように個人と明確な境界をもつ全体とを直接的に結びつけるような「想像の共同体」における想像のスタイルを「提喩的な想像のスタイル」と呼ぶならば、もうひとつの想像のスタイルは「換喩/隠喩的な想像のスタイル」と呼ぶことができる。それは、親族関係や近隣関係や主従関係といった直接的な隣接性による換喩的なつながり〔を〕起点として、それを直接的な関係をもたない者にまで、その直接性(個々の特異性=顔)ということを保持したまま延長する換喩的な想像と、言語や慣習や体験の記憶などさまざまなものから(何を共通とするかはそのつど異なりながらも)共有するものを見出すことによって、何らかの類似性による隠喩的なまとまりを作りだす隠喩的な想像とがともに働く想像のスタイルであり、そこで作り出されるまとまりは、ぼやけた全体や重複しあう境界しかないまとまりである。こう書くと、不可能に近いことのように思われるかもしれないが、それは、私たちが日常生活のなかで、会ったこともない「知り合いの知り合い」を、話などだけで自分の知り合いと感じたり、初対面の人とのあいだでなにか共通の体験を見出したときに「仲間」だと感じたりすることを指している。

同上

 あるいはまた、こうした指摘。

重要なことは、提喩的想像のように、個人が無媒介に全体と結びつく同一化は、生活の場の隣接性によるつながりから切り離されてなされるのであり、「個人化」それ自体によって成り立つということである。つまり、全体化としてのナショナリズムは、個人化によってばらばらになった人びとを結びつけるのではなく、個人化そのものであり、人びとはばらばらのままになされるのである。

小田亮「真正性の水準と『顔』の倫理──二重社会論に向けて──

 だからといって、たんに、提喩的な想像のスタイル──と、それによって支えられた「非真正な社会=まがいものの社会」(これはレヴィ=ストロースの用語)──を廃せばいいということではないし、そんなことは不可能である。真正な社会と非真正な社会を峻別するのはその想像のスタイルのちがいであるが、どちらも「社会」であることに変わりはなく、また、(「真正/非真正」という用語がちょっと誤解を生みやすいとはいえ)どちらに優位性が置かれるという話でもない。そもそも、ここで言われる非真正な社会──要は、法や貨幣、行政機構、メディア等を媒介した社会──なしに、人口六〇億の世界など成立しようがないのである。
 重要なのは、真正な社会と非真正な社会とが、あるいはまた「提喩的な想像のスタイル」と「換喩/隠喩的な想像のスタイル」とが、同じ平面上に向かい合っているのではなく、ことなる〈ふたつの層〉として存在しているということであり、ひとは、とくに意識せずとも、そのふたつの層を同時に/二重に生きているということである。
 だからこそ、いくら世界を非真正な社会が覆い尽くそうとも、われわれは〈顔〉のある関係のなかで、彼/彼女らと、伸縮自在に、換喩/隠喩的な想像のネットワークを結ぶことをやめないのだ。

@ShahdAbusalama: Wohoo! Just came back home. The street is still crowded w/ ppl of #Gaza celebrating our victory, the martyrs' lives that didn't go in vain!
2012年11月22日 6:40

 以前にも紹介した、停戦発効の夜、ガザでつぶやかれたツイートである。
 ここで彼女の口をついて出る「勝利」や、「死が無駄ではなかった」といったようなレトリックに、ナショナルな想像力がはたらいていないとは言い切れない──いや、はたらいているのだろう──し、イスラエルという〈敵=外部〉によってこそ規定される〈同胞=内部〉が、彼女の想像力のうちにもあるのかもしれない。ただ、それと同時にここには、目の前に開けるストリートと、そこに集う群衆の〈顔〉がある。それ以上のことをこのツイートの 139文字だけから想像することは無責任でもあろうが、しかしここには、固定的なカテゴリーとして一気に与えられるところの「パレスチナ」ではない、伸縮自在なネットワークとしての〈かれら〉がたしかにいるように思え、そのことがわたしをこのツイートへ引き寄せるのだし、わたしが彼女の「勝利」に寄り添いたいと願うのもひとえにそのためである。
 もちろん、ふたつの社会の層が同時に存在する以上は、非真正な社会の地平に立っての批判や対抗も必要である──パレスチナが「非加盟オブザーバー国家」として承認されることには一定の効果・効力があるはずだし、われわれは、この目前の選挙に勝たねばならない──けれども、同時にまた、どんな状況にあっても、〈顔〉のある関係による真正な社会の層が、職場での人間関係や、近隣関係、そして若者のサブカルチャーのなかに、一見非真正な〈システム〉に包摂されるかのようでいて、そのじつその〈システム〉を飼い馴らしつつ、しぶとく、創られていくことを忘れてはならないのだ。
いや、けっきょくあんまり、うまく説明できていないかな。申し訳ない。また日をあらためて言葉を足そう。
で、最後にやや手荒に言い換えてみるなら、こういうふうにも言えるだろうか。
われわれはもちろん、〈システム〉に則って、「票」を投じなくてはならない。また、〈システム〉をよりよくするという意味では、皆が等しく「1票」であるようにしていかなくてはならない。けれどそのいっぽうで、われわれはけっして代替可能な「票」などではない。そして、われわれにとっての真の希望はその後者の地平にこそ──それがたとえ、前者の〈システム〉にたいしてつねに敗北を約束された土地であるにしても──、普遍的に存在するのである、と。
本日(26日)の電力自給率:2.3%(発電量:0.6kWh/消費量:25.4kWh)

本日の参照画像
(2012年12月 8日 06:22)

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