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Apr.
2017
Yellow

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/ 2 Apr. 2017 (Sun.) 「いったい白子は何を考えているのかその傾向と対策」

ロビンとポシュテ。2008年12月。

というわけで過日、アゴラ劇場で連続上演された折にはじめて「いつ高」シリーズの vol.1と vol.3を観たのだけれども、vol.1についての感想が書かれるべきだった 3月4日付の日記はけっきょく自身の高校時代の思い出話に終始してしまったし、vol.3を観た 3月12日付の日記は同じ日に観た『 2020』のほうの感想だけで手一杯になってしまい、そうしてあとまわしにされたこの日記は、ついに書かれることなく日々に埋もれていくはずのものだった。ツイートからレビューまで、「いつ高」についてはすでにいくつものすぐれた言葉が寄せられているように(読んでないけど、なんとなく)思われ、そこにいまさら何をわたしの付け足すことがあろうかという躊躇もあるものの、その躊躇を捨てて、きっと凡庸なものでしかないはずのわたしの言葉をここに紡ぐための枠組みは、ほかでもない「いつ高」という装置そのものが準備してくれている。眼差しの充溢する舞台である「いつ高」においては、それを見つめる観客もまた容易くその構図のなかに組み込まれ、いわば〈片思いの力学〉に支配されうるわけだが、ここでは喜んでそれに乗っかり、作中の彼らと〈同じ土俵に立つ〉ことでこの舞台の愉しみを享受したいと思う。
もってまわった導入はそれくらいにするとして、わたしにとっての目算は、だからこうだ──要はきっと、2年8組の「白子」のことが好きなのだと自覚してみること。どうやったら彼女のことを理解できるか、いや、べつに理解できなくたっていいが、つまるところ付き合うチャンスはあるのかと真剣に考えることで、おそらく凡庸な恋であるこの思いと言葉を舞台の感想として成立させること。「いったい白子は何を考えているのか──その傾向と対策」というタイトルが含意するのはつまりそういうことである。
さて、彼らと同じ土俵に立つという読みの規定からはちょっとした矛盾が生まれる。わたしは観客として、舞台上のほぼすべての表れを目撃する者であったわけだが、その(もちろん「全知」ではないものの、ある程度)俯瞰的な視点と、作品内に仮構する〈ぼく〉という、ひとりの同級生が持つであろう視点との不一致という矛盾だ。しかしこの問題については、戯曲冒頭のこのト書きがその言葉どおりに解決してくれるはずだと信じる。

ファンタジーでなければならない。

 たとえば vol.2に登場する「(逆)おとめ」が全校くまなく盗聴器を設置し、同級生たちの声を広く蒐集していたように、観客席にいるのと同等の視座──と、それゆえの制約?──をもつ同級生を想像することもまた、この高校においてはきっと可能であるだろう。
vol.1においてまず最初にもたらされる白子についての情報は「茉莉」による、「自殺未遂の子」というものだ。

茉莉
あのこ。自殺未遂の子だよ。
瑠璃色
なにそれ超おもしろそうじゃん。
茉莉
みたことない? いつも、窓の外さ、じーって。
瑠璃色
あ、あー、あーあー、はいはいはい。音楽室でみましたみました。
茉莉
音楽室にも? 自殺する場所探してるらしいよ。
瑠璃色
学校で? なにそれ、じけんせいー。

「三度の飯より噂話が好きで、学内の噂はほぼすべて知り尽くしている」(登場人物紹介)とされる茉莉の、この情報をどう扱うべきか。噂好きというのはただ噂話へのアンテナ感度が高いだけではなく、過度な感度の良さによって自分好みの話を組み立てる/呼び込む能力のことでもある。「朝」が「将門」といっしょにグラウンドで「太郎」を追いかけているのを窓から見かけ、「恨みあったのかな」という想像を即座に組み立てる茉莉が、基本(話の受け手である瑠璃色が反応しやすいところでもある)「じけんせい」を志向しているのはあきらかだろう。少なくとも「自殺する場所探してるらしいよ」という部分は、昼休みにグラウンドを走る太郎を見るのが好きな白子が、もっともよく見えるベストポジションを探してあちこちの教室からそれを眺めてみていたという事情と合致するのであり、その行動を目にした者たちによる話から茉莉が組み立てた(もしくは選んだ)「尾ひれ」である可能性が高い。
 問題は「自殺未遂の子」という言葉のほうだが、それがたんに「自殺の場所を探してるらしい子」という話それ自体を指していて、端的かつ劇的に言い換えただけなのか、はたまた、その「場所探し」という尾ひれ部分の核となるまたべつの話が存在するのかはちょっと判断がしがたい。冒頭ちかくのこの茉莉の発言以外に「自殺未遂の子」という情報を補強する材料はけっきょくないのだが、いっぽうで冒頭のこの発言があるために、後半にある白子と「シューマイ」との〈道行き〉の場面がまさに道行き(心中)めいた色合いをもつのも事実だし、また白子が机の上に広げるミニチュアのグラウンド(と、もろもろ)がどこか箱庭療法的な世界技法(ワールド・テクニック)を思わせ、そこに治癒/治療されるべき何かがあるのではないかという予期を持たせられるのもたしかだ。

白子
わからない? 机の上に、ぎゅって、世界、敷き詰めてる。

 以上のことを勘案し、で、ぼくとしてはその情報をどう考えるべきかということだが、さしあたり「気にしない」ってことでいいんじゃないかと思う。そんなことよりも目下、白子のことが好きなぼくにとって、もっと気にすべきことはあるからだ。
vol.1、vol.3においてあきらかに、白子の眼差しは太郎へと向けられている。白子にとっての「世界」は太郎の走るグラウンドだし、太郎の走行距離に合わせ、Googleストリートビューを使っての〈旅〉をつづけていた白子は、その〈旅先〉での写真をまとめたものを手紙にして、太郎に渡そうともする。これはちょっと、気が気ではない。

白子
ずっとこの時を待っていたのだ! 二人になるこの瞬間を! 告白じゃありませんから!

というこの白子のセリフは、その言表とは裏腹に、まさしく「告白」めいた行動とシチュエーションのもとに発せられる。「告白じゃありませんから!」という白子の言葉を彼女なりの〈照れ〉と読むことも、はたまた、その行動を彼女自身も意識しえていない恋の発露だと読むことも容易かもしれない。しかし同時に、はたしてそうだろうか──彼女の言葉をそのまま字義どおりに受け取ることはできるし、そうすべきではないか──ということがいっぽうにはある。「告白じゃありませんから!」というその叫びの裏にある葛藤と苛立ちは、たとえばこういうことかもしれない。

@ninety_deg: 「その人のことが好きでね」「えっ、恋?」「違うよ、そういうんじゃなくて……なんだか気になるというか……好意を抱いているというか……」と言い淀みながら、この世では気になるも好意も恋の意味じゃないか、語彙が恋愛に侵食されていやがる!と歯痒かった。
2016年12月16日 21:10

@ninety_deg: 「違うよ、そういうんじゃなくて……」まで含めて恋愛のパターンの内だというんだから、まったく度し難い。あらかじめ言葉を奪われている。
2016年12月16日 21:22

@ninety_deg: 私が好きな人と言ったら好きな人なんだよ。わかっておくれ。
2016年12月16日 21:23

 「告白じゃありませんから!」という断りを添えてみせる白子は、自身の言動が「告白」という文脈のもとに読まれうるものだということを充分に自覚している。自覚しているからこその「そういうんじゃない」なのであり、そして、先のツイートが言うように「そういうんじゃない」まで含めて恋愛のパターンのうちであるというもどかしさが、その叫びには込められているのかもしれない。とすれば、ここにいるのは〈恋愛のレトリックから逃れる〉ことをのぞむ白子だ。
 白子がなぜ二人だけになる瞬間を待っていたのかということも、その文脈のなかである程度は説明ができるかもしれない。つまり、二人の関係を〈恋愛のレトリック〉のもとに読んでしまうかもしれない第三者の眼差しがない空間で、彼女は太郎に写真を渡したかったのである(ほかならぬ太郎が、それを〈恋愛のレトリック〉のもとに読んでしまう可能性は残るとしても)
「白子の眼差しは太郎へと向けられている」とさっきは書いたが、これにも留保が必要だろう。

白子
太郎が200メートル走るごとに、あたしも、この学校から、200メートルずつ進んでいって。太郎のつもりで旅するの。太郎の視界だとおもって、走ってるつもりで。
白子
うん、春だね、きっと。いまは、春で、ここは南アルプス。その景色をあたしとシューマイがみてる。あそこの校庭で走ってる太郎の視線を通して。

とあるように、Googleストリートビューを使っての擬似旅行において白子は太郎の眼差しを〈借りて〉いる。その意味で、じつは白子の眼差しは校庭を走る太郎へと向けられているのではなく、太郎の眼差しそのものを──そのベクトルを──自らのうちに獲得しようとしていると言える。ミニチュアのグラウンド同様、太郎の眼差しは白子のなかである種の媒介装置として機能しているらしいのであり、だから、撮り溜めた写真をすべて太郎に渡すことは、借りていたその視線を〈返却する〉という行為でもあったはずだ。そのことによって、白子はやっと自身の眼差しを取り戻すのかもしれない。

新名
いけばいいのに。
白子
え?
新名
実際にさ。
白子
ああ……。そうかも。
新名
うん。
白子
でも君に言われると腹たつね。

「君に言われると腹たつね」と言われてしまうシューマイ(新名)は、無価値化された「ごめん」という言葉の煙幕によって人との交流を咄嗟に遮断してしまう者であった。しかし、白子はそのシューマイの「ごめん」をいちいち、あくまで字義どおりに、価値のある謝罪として受け取ろうとする。あるいはそれは、言外の意味を読むこと──それは〈恋愛のレトリック〉にも通じるものだ──への拒否なのかもしれない。もちろん、「君に言われると腹たつね」と指摘してみせているように、白子は「ごめん」の言外の意味──シューマイのコミュニケーション遮断癖──にも気づいているのであり、そのうえであえて言外のメッセージを受け取ることを拒否していると言える。またそのことは、「やっぱり」というオトコ(パートナー)の物言いに敏感に反応してみせる彼女の態度とも通じているように思える。

新名
ほらあ! やっぱり間違えたんだよ道。
白子
やっぱり? シューマイってやっぱりとか言い出すタイプだったんだあ、やっぱりなあ。

ところで、白子が興味を抱いた太郎の眼差しとはいったいどんなものだったろうか。それは、グラウンドを時計回りに逆走することと何か関係があるだろうか。元カノである「海荷」とのデートでは「行き」ではなく「帰り」が楽しかったという太郎だが、グラウンドのトラックにおいてはその円環構造によって「行き」と「帰り」という対立が無効化されているようにも、逆走することで永遠の「帰り」を手に入れているようにも思える。
いや、いいんだよべつに太郎のことなんか。そうじゃなくて白子だ。うーん。
何を言い募ったところで、渡り廊下での風景に気が気ではないのは変わりないのだけれど、上に見てきたような読みがある程度当たっているのだとすれば、太郎に写真を渡すその行為はやはり彼女の言うとおり「告白ではない」のであり、なにがしかの儀式のようなもので、けっしてそこに恋愛対象としての太郎が見据えられているわけではないということになる。その推測は〈手強いライバルとしての太郎〉という危惧を消してくれはするが、同時に、〈恋愛的なものから身をかわそうとする〉かのような彼女の振る舞いが浮かび上がりもし、むしろそのことのほうが、ぼくの片思いにとっては厄介なのかもしれない。そんな白子にたいして「対策」のようなものがあるとしたら、やっぱり、それは「気にしない」ってことしかないような気もする。まあね、長々書いてはみたものの、白子のことはよくわからないのだ。vol.3の終盤、写真を渡すという儀式を通じて〈太郎の眼差し(から世界を見ること)〉を手放し、ついに自身を取り戻したかにみえる白子は、ぼくにとって都合のいい方向に、何か変わってくれたろうか。
けっきょくのところ、明日、学校で、「好きなんだよね」と言うところからはじめるしかないのだろう。言えるだろうか、それ、ぼくに。いや、言うしかないんだけどね。明日、白子がまだ、そこにいてくれることを信じて。
あー! 付き合いてえー!

Walking: 106 meters • 168 steps • 2mins 47secs • 5 calories
本日の参照画像
(2017年4月 4日 09:31)

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