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Apr.
2017
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/ 5 Apr. 2017 (Wed.) 「少女像に慰安婦しか見ない者よ。慰安婦すら見ない者よ。」

ロビンとピーとポシュテ。2008年12月。

@soma1104: ふ・ざ・け・る・な。
2017年4月4日 23:48

と、慣れない中グロの使い方までして、怒っていたらしいわたしだ。あるいはこの中グロを「カ・イ・カ・ン」とか「ト・キ・メ・キ」のようにして読んだ方もあったかもしれないけれど(それ、どう読むんだかよくわからないけれど)、ま、沸々と沸きたつような怒りがあったのだとご理解願いたい。
ツイートをしたときは家のちかくの中華料理屋で、木須肉(ムースーロー)(きくらげと豚肉の卵炒め)を食べていた。店のテレビからは消音でニュース番組が流れていて、ちょうど今村復興相の記者会見での激昂の場面を映していた。ただ、ツイートにつながった怒りの発端はそれではなく、韓国での「少女像」設置をめぐるもろもろである。脇に置いた iPhoneで、ツイッター上のそれらの話題を追っていたのだ。
慰安婦そのものを見ようとしない者は、少女像に慰安婦しか見ない者でもある。国家も介入した日本の歴史修正主義に敏感に、まっとうに、毅然と反応するかたちで、海外において、少女像は日韓のあいだの慰安婦問題──旧日本軍(および現日本政府)の暴力を問うもの──という枠組みをもはや越え出て、広く女性への性暴力そのもの、戦争そのものへのメッセージとして機能するようになっている。その、より大きな枠組みの上でなお、

私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。
平成27年8月14日 内閣総理大臣談話(いわゆる「戦後70年談話」)

と述べる者らが、なぜ連帯することができないのか。
というような、出口のない苛立ちのほうへとついつい吸い寄せられてしまう夜。「その言葉じゃあ、たしかにどうにも出口がないよなあ」とは思い直しての、「ふざけるな」(止まり)だった。それでまあ、ひとつ立ち戻って、「連帯」ということについても考えているが、それについてはたぶん長くなるというか、まだ整理しきれていないのでまた今度。
閣議決定という名の歴史修正主義。はたまた「閣議決定(ポスト・トゥルース)」。その濫用はある面たしかに幼稚で滑稽だが、しかし笑ってもいられないのは、ときにその内容の空疎さゆえ、〈閣議室の上にあてどころなく漂うフキダシの、その中だけのもの〉とも映ってしまうそれが、いま、充分な〈実体〉をもつための回路をすでに手にしているからだ。それもあろうことか、教育という場において。

閣議決定その他の方法により示された政府の統一的な見解又は最高裁判所の判例が存在する場合には,それらに基づいた記述がされていること。
義務教育諸学校教科用図書検定基準及び高等学校教科用図書検定基準の一部を改正する告示、2014年1月17日

 2014年の改正時に導入された、この教科書検定の新基準のひとつがそれだ。このことをわたしは去年、『海を渡る「慰安婦」問題』 を読んではじめて知ったのだけど、その〈やり口〉には「そっかー、そういう手かあ」と単純に唸ってしまった。と同時に、同書にある指摘のなかでわたしがもっとも焦燥を覚えたのもこの点であり、いわばフリーハンドのただのシロウト(=閣議室のひとたち)が、歴史家をはじめ、各事項の専門家と同等の筆をもつことになったわけである。

一五年に検定を通過した中学校の歴史教科書で唯一、日本軍「慰安婦」問題に関する記述を行ったことで注目を集めた「学び舎」の教科書は、〔中略〕新基準により、「軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような資料は発見されていない」と付記することを余儀なくされた。
能川元一「おわりに──浸透・拡散する歴史修正主義にどう向き合うか」、『海を渡る「慰安婦」問題』(岩波書店)、p.141

しかしですよ、〈歴史はいずれ記述者/語り手の主観を排除できず、どこまでいっても物語/レトリックでしかない〉という見識はたしかに見識としてあるとしてもです。そんなね、〈諸説あり=何でもあり〉みたいな雑な話じゃないわけですよ、それは、ぜんっぜん。少なくともいまや、ギンズブルグのこの毅然とした決意の言葉を踏まえたうえでの歴史であり、レトリックであるわけで、ね。

資料は実証主義者たちが信じているように開かれた窓でもなければ、懐疑論者たちが主張するように視界をさまたげる壁でもない。いってみれば、それらは歪んだガラスにたとえることができるのだ。ひとつひとつの個別的な資料の個別的な歪みを分析することは、すでにそれ自体構築的な要素をふくんでいる。しかしながら、以下の諸章において明らかにしたいとおもっているが、構築とはいってもそれは立証と両立不可能であるわけではない。また、欲望の投射なしには研究はありえないが、それは現実原則が課す拒絶と両立不可能であるわけでもないのである。知識は(歴史的知識もまた)可能なのだ。
カルロ・ギンズブルグ『歴史・レトリック・立証』(みすず書房)、p.48、太字強調は引用者

Walking: 3.8km • 5,424 steps • 54mins 15secs • 182 calories
Cycling: 2.7km • 11mins 31secs • 58 calories
Transport: 69.7km • 1hr 9mins 19secs
本日の参照画像
(2017年4月 7日 15:17)

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