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Jan.
2018
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/ 27 Jan. 2018 (Sat.) 「小さな声で囁くのは誰か / ウォズニアッキおめでとう」

2016年1月のロビン。二年前もやはり全豪を見ているらしいわれわれ。この赤いユニフォームは誰だろう。

11:53
日記をもう一本と思っていたが書き終わらず、家を出る。きりっとくる寒さ。駅ヨコのヤマダ電機入り口には見知らぬ着ぐるみキャラクターが二体。いっしょに写真を撮るチャンスだという。

そのチャンスを逃しての南武線から、武蔵小杉で乗り換えて一路、横浜・馬車道。東京藝大の校舎内の一室、名は「大視聴覚室」らしいが充分ミニシアター然としてスクリーンと客席とが設えられたその部屋で、東京藝術大学大学院映像研究科による映画専攻12期生修了制作展、つまりは映画を観る。全部で四作品ある修了制作のうちの一本、山本英監督の『小さな声で囁いて』に、大場(みなみ)さんが主演しているのだった(で、わたしが今日観たのはこの一本だけ)。さきに事務的な説明を済ませてしまえば、同作を含むこの「修了制作展」は 3月アタマに渋谷・ユーロスペースでも上映があるとのこと。また『小さな声で囁いて』について言えば、ユーロスペースまでにまだもう少しだけ、ま、大きくは変わらないだろうが手が入る予定であるらしい。といったようなものを、主演女優と並んで観る。面白かった。
公式ページから引くと、『小さな声で囁いて』の梗概はこのようなもの(出来事の序盤までの説明)

11月初めの秋、付き合って5年が経つ沙良と遼は熱海旅行に来ている。有給休暇を使った3泊4日のささやかな旅行だ。遼は沙良と結婚する準備をしているが、沙良は遼と結婚をしたくない。なぜ結婚をしたくないのか自分でも分からない沙良は、旅先でも遼を避けて行動している。二日目の午後、沙良は一人で室内プールに行った。そこで背中に大きな傷を負った山崎という男に声をかけられる。
1/27-28|12期生修了制作展開催! – 東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻

 そうそう、昨年 11月あたりに、どうも熱海にいるらしいと知れる大場さんのインスタ投稿があったのはこの映画のロケ(二週間くらい)だったわけだ。
 それともうひとつ、事前に目にしていた藝大のサイトにはこのような謳い文句があって、

映画専攻は国際的に流通しうるナラティヴな(物語性を持つ)映像作品を創造するクリエイターや、高度な専門知識と芸術的感性を併せ持つ映画製作技術者を育成することを目標としています。
東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻 [太字強調は引用者]

それでまあ「ナラティブ」ということ──ついついジュネット的なそれ──に意識的になっていたということはある。つまり、(いや、これだと全然ジュネット的じゃない=厳密じゃない言い方になるけど、)「 A」「 T」「 A」「 M」「 I」という 5つの章で構成されたこの 110分の物語を、物語るのは誰かといった関心である。
 そうした統一的な語り手を想定しようとするとき、その位置にいちばん据えたくなるのはもちろん主人公である沙良であり、その見方はたとえば『小さな声で囁いて』という作品タイトルが、遼にたいする逆ギレで「怒ると大きな声になるのがみっともない」と指摘する沙良の言葉とつながり合うことや、劇中に唯一、一箇所だけ挿入されるナレーションが沙良のものであることなどと符合するのだけれど、当然ながら、ことはそう単純ではない。
映画の冒頭は走る観光バスの車中で、その窓の外を流れていく風景を固定のカメラがしばらく捉え続ける。そのあいだずっと聞こえているのは女性バスガイドによる観光案内で、手慣れたようでいて気が入っていないとも形容できそうなその説明がこれまた横滑りしていくままに続けられることで、車中の、それを聞いてはいるが耳を傾けられてはいない──案内される風景中のトピックに視線を向けたりはしない──その何者かの意識に、観客は寄り添わされることになる。が、ついに切り替わった次のショットが捉えるのは、通路側の座席で熟睡する沙良の寝顔だ(熟睡する沙良に、もちろんガイドの声が届いているはずはない)。その寝顔を正面からまた充分に捉えたのち、隣の窓側の席で取り残されたように起きている遼へとカメラは切り替わる。これがもし風景沙良というふうに遷移するのであれば(もしくは、沙良の寝顔が遼から覗き込まれるような角度で捉えられるのであれば)、遼を焦点化人物とするかたちで車中のシークエンスに意識的な連続が生まれるわけだが、そうはならず、ここに最初の〈齟齬〉が提示される。そこに挿入される意識の断絶は、文字どおり沙良の無意識=眠りだ。
といったようなことを考えてしまうくらいには、〈文法〉と〈文体〉をもつ映画だった。終映後にスクリーン前で挨拶をした監督が、「この修了制作ではなるべく自分の〈色〉が付かない作品を、と心がけた」といったようなことを言っていたが、「ばりっばり出てるだろ、色」と、この一作しか知らないくせに言いたくなるほどの色であり、文法である。そしてその文法がいよいよわたしのなかで自律し、あれよあれよと動き出したのが後半、沙良のいる「ロマンス座」と遼のいる「芸妓見番」とをカメラが往還し出すところだった。あそこは、すごく「腑に落ちた」のだ。いわばこの映画の〈原始的言語〉について、その〈意味〉はわからないけれども、〈用い方〉はわかったというようなそんな感覚であり、「ああ、なるほどつながるなあ」といった感慨である。だから、初見ではその意味のよくわからなかった研究所(? 2コ目の「 A」の冒頭)のシーンも、再見すればひょっとすると腑に落ちるかもしれないという予感はある。
話は戻るが、そう、あたかも〈語り手失格〉であることを象徴するかのようにして、沙良はよく「眠る」。それでもあくまで統一的な語り手というものに拘泥するならば、あるいはそれはむしろ沙良の〈無意識〉のほうなのかもしれず、そしてその無意識に侵食し、語りを支配しているほんとうの映画的主体がいるとすれば、それは「熱海」という場そのものなのではないかと、そんなことを思う。
観終わって、「映画(への出演は舞台と全然ちがって)はずかしい」と照れることしきりの主演女優と、ちかくの喫茶店へ。紅茶専門店だと謳うそこで大場さんは「ラプサンスーチョン」なる中国茶を、わたしは「イングリッシュなんちゃら」を注文する。あとはまあ、概してくだらない話。なんだっけ、えーと、大場家の正月の風習の話とか。

いやー、しかしこの写真はほんといいね。ハレプの返球がネットを越えず、「勝った」ということを認識した瞬間のウォズニアッキ。(あ、ことによると『小さな声で囁いて』とか「大場みなみ」とかで検索していらっしゃったみなさま、話はもう「全豪」に移ってますんで、ひとつ、すいません。)
帰宅すると第2セットの終盤で、ハレプの執念によってなんとか最終第3セットをテレビ観戦することが叶ったが、それがほぼ奇跡的なことであるほどに途中のハレプの体調不良は絶望的な様子だったという妻の伝。それでもなおファイナルセット、ハレプにもたしかに機はあったほどに両者とも限界ギリギリの、渾身のシーソーゲームの末の、その決着である。これで、「三度目の決勝で初のグランドスラム制覇」(勝っていればハレプにも同じことが言えた)も、「週明けの世界ランキング No.1」もともにウォズニアッキのものとなった。いやまあハレプにとって、「優勝できずに No.1の座だけが残る」という状況よりかはいっそさっぱりする結果だろうけどもと、そんな気の取り直し方ぐらいしかこちとら浮かんではこない。テニスの優勝スピーチでは一般に、第一声のあとまず準優勝者に声をかけ、祝福とねぎらいの言葉を述べる(そののちに優勝の喜びや、チーム・関係各位への謝意を述べる)というのが〈よくある型〉であるように思うが、ウォズニアッキはハレプへの言葉をあとに回し、いよいよ終わり際になって何を言うのかと思えば「 Sorry.(ごめんね。)」を繰り返していた──それにたいしてハレプはつい笑ってしまっていた──のが印象的だった。

22:26
まだちょっと言葉がない。そんなに好きだったんだな、おれ、ハレプ。知ってたけど。

 そうして、やっとこさ(試合終了からじつに 2時間後に)言葉にしたわたしのこのしょぼくれツイートとほぼ時を同じくして、ハレプは、チームの面々とともに笑顔で写るスナップショットをインスタグラムに投稿する(写真そのものが試合後に撮られたものかはわからないが、しかしそうした写真を投稿した)
 そうなのだ。今大会、そのピンチの都度々々において、何度も何度も、とうにあきらめていたのがわたしなのだ。そのわたしとは無縁に、決勝のファイナルセット 4-5、30-40のそのときまでハレプは〈そこ〉に立っていた。決勝までの長い道のりを思うとき、いますでに、もうハレプのグランドスラム制覇はないのかもしれないなあと思っているのがわたしだが、そんな極東に浮かぶ諦念とは無縁に、きっと、ハレプはまた〈そこ〉に立つのだろう。

Walking: 2.3km • 3,778 steps • 48mins 22secs • 109 calories
Cycling: 3km • 15mins 43secs • 64 calories
Transport: 97.3km • 2hrs 23mins 40secs
本日の参照画像
(2018年1月30日 18:03)

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