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Feb.
2018
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/ 18 Feb. 2018 (Sun.) 「霊的ボリシェヴィキ / 星座占い・前編」

届いたっ。

手前からピー、ポシュテ、ロビン。2016年10月。

児玉(悟之)君の日記がまた閉じられる(そしてまたまっさらになったサイトの上に書きはじめられる)らしい。その今期最後の回にあったセンテンス。

何かを言っているようで、何も言っていないひとがいる。それは卓越した技術だ。排気ガスだけ撒き散らし、1mmも前に進まない。事故は起こらない。どこにも出かけない。
Sat Feb 17 2018 – KODAMA Satoshi

 ああ、おれだな。おれのこと言ってるな、と思ったのだった。
月曜社の新雑誌『多様体』(第1号:人民/群衆)が届く。かなりボリューミー。待ちに待った。まずはやはりアレクサンドル・コイレ「嘘についての省察」から読むことにするか。
16日には渋谷・ユーロスペースで『霊的ボリシェヴィキ』(高橋洋監督・脚本)を観た。いやその、ホラーにかんしてはまったく素地がないのだけれど、ツイッターで目にして、主演が韓英恵(『ピストルオペラ』の少女・小夜子)だってこともあるのだが、なんだかほいほいと観に行ってしまった次第。面白かった。
鑑賞後にパンフレットで知るのだが、「霊的ボリシェヴィキ」というこの言葉は高橋監督による造語なのではなく、いちおうの参照先とされるのは武田崇元である。『(復刊)地球ロマン』( 1976〜77)、『迷宮』( 1979〜80)といったオカルト雑誌の編集長を経て出版社の八幡書店( 1981〜)を設立、また『ムー』( 1979〜)の創刊にあたっても顧問を務めたとされるところの人物だ。ネットにあるかぎりの資料( 90年代の『宝島』のインタビューを全文 OCRで載っけてる掲示板とか)を読んだだけで原典に当たれてはいないのだが、その武田が『迷宮』時代あたりから 80年代にかけて言っていたのが「霊的ボリシェヴィキ」(もしくは「霊的ボリシェヴィズム」「霊的革命」などなど)で、それが 95年の地下鉄サリン事件後、中沢新一が、事件以前のオウム真理教をそれでも一定程度「評価」しようとしたさいにこの武田の概念を持ち出したことで再度(一部では)脚光を浴びたという経緯があるらしい。武田自身は 96年当時のインタビューでオウムをきっぱりと否定しており、中沢による「霊的ボリシェヴィキ」の概念理解もまったく間違っている(独自解釈である)としているが、高橋監督がこの言葉を目にし、その響きに惹かれたのはこのタイミングであったようだ。
パンフレットには武田崇元と高橋監督の対談も載っていて、そこでの(往時よりかは穏健になっているのだろう現在の)発言も総合すると、武田のいう「霊的ボリシェヴィキ」においてはどうも、「記紀神話からは抹消されたオリジンの断片」への想像力が主たる問題とされており、そのことは『地球ロマン』にはじまる武田製ポップ・オカルティズムがまずおもに「偽史」というテーマを扱ったことともつながっている(「霊的」の内実はそうした「オリジン」で、さらに出口王仁三郎=大本教が「型」と言い表した〈特定集団の前衛性〉がレーニンの「ボリシェヴィキ」に重ね合わされている、感じ、なのかな?)

 さて、本号では、これらの「偽史」を特集する。特集するに当って、これらの「偽史」が従前被せられてきた、面白半分な形容を取り除き、「偽史」が主張しようとしている「何か」を捉えるべく、生のままで提示したいと考えた。蓋し、「偽史」の原文の持つボルテージは、それが単なる「奇説」以上のものを持っていると考えるからである。
 従って、本特集は、「偽史」を「歴史異説」「意外史」としては取りあげない。そこに述べられている、皮相的な歴史の真否を問うのではなく、これらの「偽史」を「つくる」人間のパトスを、彼等が「歴史」に託して主張しているものは何かを、問いたいと考えている。
「偽史に憑かれた人々」(編集部)、『地球ロマン』復刊1号(特集=偽史倭人伝)、p8

てな話に付き合ってるときりがないので映画に戻ると、まあ、描かれるのはいわゆる「百物語」的な儀式/実験1]なのだが、そこで語られる体験談のうちもっとも印象的だったのは霊媒師・宮路(この霊媒師自体はわかりやすく狂気側にいるのでそんなに怖くないのだが)による〈山の稜線を這っていた、見てはいけない「あるもの」〉の話だった。パンフレットによればこの話には出典があり、それは吉行淳之介がエッセイに書いている「クラブのママから聞いた少女時代の体験」とのこと。
で、その吉行淳之介のエッセイ「恐怖について」(新潮社版『吉行淳之介全集』第13巻所収)を読んだのだが、そのテクスト本文を読むかぎりではパンフレットの説明(高橋監督の記憶)と若干の相違がある。吉行にその話をしてみせる女はただ「女」とされるだけで「クラブのママ」等の説明はなく、また、その話は女自身の体験談ではなく、知人の占い師が体験したものとして女が語るものだ。女によれば、いまでは占い師になっているその「七歳の少女が二つ下の弟と一緒に山に遊びに行って、何気なく斜め上に眼を向けると、見てはいけないものを見てしまった」。

 「それは、なんだ」
 その話をしてくれた女にたずねたが、黙っている。その女は、占い師の知人だそうである。
 胞衣(えな)が宙に浮いていて、そこから胎児の頭と手足の先が突出しているようなものか、と私は頭に浮かんだことを口にしてみると、
 「そうそう、いいセンだわ」
 「気を持たせないで、教えてくれ」
 「わたしも、それに似たことを考えて言ってみたんだけど、違う、って」
吉行淳之介「恐怖について」(初出は『波』1978年1月号)

 やりとりを字句どおりに受け取るなら、女の「いいセンだわ」という返しは占い師がじっさい見たものとの近さを判定しているのではなく、吉行の想像が自分の発想と近いことを褒めているだけだとおぼしいのだが、それにしても、いったいなぜ吉行は唐突に胞衣などを思い浮かべたのか、ということのほうにちょっとした驚きはある。まあ、一般に言われるところでは吉行はミソジニー傾向の強い作家であったらしいので、そのある種の発露ということも言えるかもしれないものの、しかしいまここの霊的文脈においては、やはり「胞衣信仰」(中沢新一『精霊の王』!)との連環を思わずにいられないのだ。

しかも芸能の徒の守護神シャグジには、胎生学的なイメージが濃厚である。猿楽の祖秦河勝ははじめ胞衣状の容器に入ってこの世界に出現し、終わりには胞衣を思わせる「うつぼ船」に乗って西海に去り、漂着した坂越(しゃくし)の浦では大荒神となって、猛威をふるった。その理由を金春禅竹は、このとき宿神は荒神としての胞衣の本質をあらわにしめして、猛威をなしたと説明している。
中沢新一『精霊の王』、p.63

 そしてパンフレットにあるとおり、高橋監督はまずこの吉行のイメージ、「胞衣が宙に浮いていて、そこから胎児の頭と手足の先が突出しているようなもの」の映像化を模索するのだが、結果、直接の視覚化を断念した監督が本作で代わりに用いるのが、すでにインチキであるという評価の定まった(コナン・ドイルが騙されたことでも有名な)、かの「妖精写真」なのだった。霊媒師・宮路が劇中で説明するとおり、この妖精写真は宮路が見た「あるもの」とは全然ちがう(視覚的に似ているのではない)のだが、自身が触れてしまった世界の感触として、この写真のもたらす印象がどこか似ているのだとされる。
 そう、ここでふたたび「偽史」が──というよりも、「偽史」を特集した『地球ロマン』編集部の巻頭言が──よみがえってくるのだ。そこにおいては写真=胞衣信仰=少女の見たものの〈皮相的な真否〉は問題とされず、〈それを「つくる」人間のパトス〉、〈それが主張しようとしている「何か」〉が〈生のまま〉提示される、のである。
さて、一点だけ指差し確認をしておきたいと思ったのは、例の「一番怖いのは人間」のシーンについてだ。パンフレットに寄せられた切通理作の文章から引くとこういう場面である。

 そんな、一人目の話が終わった時、聴いていた青年が言う。
 「一番怖いのは人間ってことなんじゃないですか」
 その途端、青年は杖で打ち据えられる。
 脚本家の小中千昭は、かつて、ホラーの作り手としてもっとも許せない態度は「一番怖いのは人間」という考えの表明だと語っていた。
 純粋に怖がらせるという事に奉仕しない「潔くない」態度に感じられたのだ。
切通理作「真実とは「出会い」そのものなのだ 『霊的ボリシェヴィキ』体験記」、パンフレット p.9

 で、切通理作がこのシーンをこう読んでいるというだけでなく、パンフレット編集部によるキーワード集のページにも、

結局、一番怖いのは人間……

このような通り一遍の人間認識で恐怖を語ることへの憤りを、後に Jホラーと呼ばれる表現に携わった作り手たちは共有していたのである。
「『霊的ボリシェヴィキ』キーワード」、パンフレット p.10

というふうに記述されるのだが、しかし青年・安藤はこのシーンにおいて、一人目の男・三田の話が「怖くない」ことに苛立っているようにも見えるのである。じっさい、三田の話の腰を折るように直前に茶々を入れてもいた安藤が言い放つ、

僕が今の話を聞いて思ったのは、結局一番怖いのは人間じゃないかってことですがね。

は非難がましい響きを伴うのであり、「結局一番怖いのは人間じゃないか」という思いしか自分にもたらしてくれない三田の話への失望を表明しているふうでもある。これがもし、三田の話に感心してみせたうえで「一番怖いのは人間ですね」という感慨を吐露したのであれば、上記の「憤り」の対象として物語上の懲罰を受けるのも至極道理なのだが、そうではなく、(あくまで安藤による評価ではあるものの)「一番怖いのは人間」だという感想を喚起しやすい話を選択してそれ以上の「怖さ」に貢献していない三田に苛立ってみせている安藤は、ある面で、上記の「憤り」を共有する側に立っているとみなすことも可能ではないだろうか。
 にもかかわらず、青年は発言の趣旨によってではなく、「一番怖いのは人間」という語句の発声のみによって打擲されてしまっている。いや、だからどう、というふうに展開させる論の持ち合わせはないのだけれど、そこに参加者間の〈微細だが決定的な齟齬〉のひとつを見ることはできるのではないか。とか。

1:「百物語」的な儀式/実験

あ、いま思い出したけどそういえばわたし、小学生のころに友達何人かと家(というのはわたしの場合「寺」だが)で百物語をやったことがあったんだった。で、その結果わたしが思い知ることになったのは、部屋でロウソクを点けていくと 20本ぐらいでもう「怪談どころではなく暑い」ということである。

話は変わって、こちらは世界のタイムラインから。笠木(泉)さんとのくだらないやりとり(いや、わたしが巻き添えにしただけで、笠木さんのツイートはべつにくだらなくないですけどね)

@izumikasagi: 急に誰かに手相を見てもらいたくなった。私の手相、人よりも薄い気がするのだ。誰かいないかな。
2017年2月16日 16:51

@soma1104: @izumikasagi 「薄いですね」っていう診断でもよければ、わたしが。
2017年2月16日 17:51

@izumikasagi: @soma1104 じゃあ、腑に落ちないけど、お願いするよ!
2017年2月16日 18:17

@soma1104: @izumikasagi オッケー。
2017年2月16日 18:18

 で、占いといえば、いまわたしは「星座占い」もたしなんでいるので、ご用の向きがあれば言っていただきたい。わたしのは誕生日を聞いて、そのひとの星座が何かを占う、人呼んで「星座占い・前編」だ。その星座であった場合に、ではどういったことが言えるのかについては「星座占い・後編」へと引き継がれるわけだが、それはわたしの任ではない。けっこう当たると評判の「星座占い・前編」である。

Walking: 96 meters • 136 steps • 2mins 29secs • 5 calories
本日の参照画像
(2018年2月22日 11:41)

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