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Mar.
2018
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/ 31 Mar. 2018 (Sat.) 「安倍加憲の『幼稚』に立ち向かうために」

ロビン。2016年11月。いよいよ写真は残りわずかとなってきた。

同じく。

日比谷図書文化館の大ホールで開催された公開討論会「安倍加憲論への対抗軸を探る」を聞きに行く。かもがわ出版の松竹伸幸さんが「やりますよ」と宣言した企画に、毎日新聞社のメディアカフェが主催を買って出た。ここに言う「安倍加憲論」とは、自民党・安倍政権から提出されると想定されている「現行の 9条の条文はそのままに、そこに自衛隊を明記する条文を書き加える」改憲案のこと。じっさいに国会で発議されれば、国民投票においては「その案にたいして」賛成か反対かを投じることになり、賛成・反対のうち過半を得たほうが結果となる(有効投票数の過半なので、投票しなかった人や無効票は分母に入らない。投票率が何%以上でなければ無効といった規定はいまのところない)
登壇の四氏──伊勢崎賢治、伊藤真、松竹伸幸、山尾志桜里(五十音順)──の選択はいずれも加憲案にたいして「 NO」なのだが、NOを言うさいのその〈視座〉がそれぞれに異なっていて、たとえば伊勢崎さんは「安倍加憲に NOを言う、その NOは『護憲』ではない。『護憲』ではダメなのだ」と言う。もちろん、何を指して「護憲」と言っているのかということはあって、そこで言われているのはまず、現行憲法の「条文を守る」という意味での護憲だ。それにたいし、「精神を守る」という言い方が的確かどうかはともかく、現行憲法がその出発点において希求したはずのもの──非戦へむけた人類的な営みとともにあろうとする思い──を大事にする態度もまた「護憲」と呼ばれるケースがあるだろうが、そのふたつ(現行 9条の条文と、その精神)はいま現在競合しあうものとなっており、並び立つことができないのだというのが伊勢崎さんの主張である。
どういうことか。
「国の交戦権は、これを認めない」とする 9条2項を額面どおりに読むならば、ここでは集団的か個別的かを問わず、自衛のための戦争そのものがまるごと放棄されているはずだ(これについて、改憲にたいするスタンスとはべつの個人的意見というレベルにおいては伊藤真さんも同じ解釈だと言う)。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とする表明とも併せ、いうまでもなく、自衛隊は違憲である。そうでありながら、(民主党政権を含む)歴代政府は自衛隊は「戦力」ではなく「実力」であり、「交戦しない」という理屈でもってその存在を合憲だとしてきた。そしていまや、日本の自衛隊は「世界五指の通常戦力」と言われるまでになっている現実がある。
「交戦しない」からいいのだと言うとき、「交戦権」は「交戦する権利」として読まれているのだろう。もっとニュアンスを込めれば、「自衛ではない侵略・破壊のための戦闘をこちらから仕掛ける権利」だ。ここまで噛み砕けばおのずと気づくように、そんな権利はいまの国際社会において、9条に言われるまでもなく、もともとない。日本国憲法が発布されるより以前の 1945年の国連憲章において、そして理念的には 1928年のパリ不戦条約においてすでに戦争は放棄されているのであって、いま現在、「 9条の日本」だけでなく全世界的なルールとして、許されているのは「自衛のための戦争」だけなのである(そしてそこにプラスして、集団安全保障=国連的措置としての PKOがある)。だから、少なくとも「交戦権」を「交戦する権利」として読むならば、「 9条の日本」と誇るような先進的なことを 9条は何も言っていない、ということでもある。
「交戦権」と訳されたその原文は「 The right of belligerency of the state」だが、これをより精確に訳すなら「交戦主体(交戦国)となる権利」なのだろうと伊勢崎さんは言う。きっかけがどうであれいったん戦端が開かれたときには、戦時国際法にもとづき、紛争の当事者たる国家はそれぞれが「交戦主体」となる。と同時に「交戦主体」には、戦時国際法にもとづいてさまざまな禁止事項が課される(敵の戦闘構成員以外を攻撃してはいけないとか、捕虜を虐待してはいけないとか、これこれの武器を使ってはいけないとか)。故意であれ過失であれこの禁止事項を破ることがすなわち「戦争犯罪」であり、戦時国際法の別名が「国際人道法」だ。逆に言えば、戦時国際法の定める交戦法規に律される存在としてのみ「交戦主体」はあるのであり、有事が起こり、紛争当事国となった瞬間から同時に「交戦主体となる」ことは、権利ではなく、むしろ国際社会における義務であると捉えたほうが正しい。自衛隊を〈外〉に出さなければいいという問題ではなく、領土・領海・領空内でも事態は変わらない。防衛出動が可能なボーダー上でまさに「自衛」の身振りから戦端が開かれてしまったそのとき、われわれは国際社会のなかで「交戦主体」とならなければいけないのであり、そうした主体とならないことは「非人道的」なのだ。
しかしいっぽうで、人類(国連)はいまだ国際的に強制力のある司法制度を持っていない。そこで、国際人道法にたいする違反行為を審理する責任は各国自身が負うことになり、戦争犯罪を想定した各国の国内法廷──いわゆる軍法、軍事法廷──がそれを裁くことになっている。言わずもがなのことだが、たとえば「過って民間人を撃ち殺してしまった」というような〈事故〉が起こった場合に、撃った隊員個人──彼は国に「撃て」と言われたから撃ったのだ──にその責を負わせるのは無理であり(責を負わされるのだとしたら、彼は「撃てない」)、その過失の責はあくまで国が負うべきものであるから、通常の刑法や民法とは理屈の異なる軍法が必要になるわけだ。したがって、自らの戦争犯罪を裁くことのできる法体系を国内に持つこともまた「交戦主体」と不可分なのだが、そう、日本には軍法がない。
もちろん軍法がないことのより直接的な原因は 9条ではなく 76条(特別裁判所の設置禁止)のほうに求められるのだが、同時に、自衛隊は「交戦しない」から「戦力」ではないのだ──軍隊がないタテマエなのだから軍法があるのはおかしい──とする〈合憲〉状態がそのことを無視させてもいる(なお、国際的にみればコスタリカのように、常備軍は持たないが軍法は持っているという例もある)。個別的自衛権を主張する気がある──少なくとも殴られたら殴り返す気がある──にもかかわらず交戦主体としての自覚を持たないことの「非人道性」は、9条を護持することの〈恍惚〉のなかで〈忘却〉させられているのだ、と伊勢崎さんは表現してみせる。前述したように「交戦権」は、〈そもそも、そんなものはない〉ものであるにもかかわらず──「交戦する権利」と捉えるならば 9条以前にとうに否定されているものだし、「交戦主体となる権利」と読む場合も、個別的自衛権を放棄しないのであれば、「交戦主体にならないこと」は選択肢として存在できない──、その〈ないもの〉を否定することによって、どうやらわれわれは〈恍惚〉を得ているのだ、と。

 「戦力」の過失を審理し統制する法体系を持たないことは、国際人道法の観点から「非人道的」なのである。繰り返すが、国際人道法の違反が、いわゆる「戦争犯罪」であるからである。そういう法体系は、「戦力」を自覚しない限り、生まれない。
 だから、「戦力」であることを自覚しない「戦力」は、「非人道的」なのである。
シンポジウムで配布された資料「安倍加憲案に対抗する私の立場」より、伊勢崎賢治さんの文章、p.7

そして、われわれのこの非人道性が、いま現に臨界に達している場所がある。自衛隊が PKOで派遣されている北アフリカの小国ジブチだ。1999年のアナン事務総長の告示以降、国際人道法の遵守は PKO要員にも求められている。「国際人道法を遵守する」というのはつまり、「交戦主体となる(覚悟をもつ)」ということである。結果的に 100万もの住民を見殺しにしてしまった 1994年の「ルワンダ虐殺」をトラウマとして抱える国連は、ついに 1999年に一大方針転換をし、「内政不干渉」の原則よりも「住民保護」を優先させることを決める。以降の PKOは、「保護する責任をまっとうするため、交戦主体となることもいとわない」存在となったのだ。だから PKOの派遣国は、その受け入れ国とのあいだに「地位協定」を結ぶことになる。PKO部隊が現地で起こした軍事的な過失について、現地国に裁判権を持たせず、派遣国側の国内法廷で裁くことを定めるのが地位協定だ。これを、日本はジブチと現に結んでいるのである。そう、軍法がないのに1]、だ。

1:軍法がないのに

軍法がないため、適用させるなら刑法しかないのだが、さらには刑法の「国外犯規定」により「業務上過失致死傷」などをあてはめることができないため、たとえば自衛隊員が過って住民を殺害してしまった場合などには「たんなる個人が行った殺人事件」としてしか裁けないことになる。この状況は派遣される自衛隊員にとっても、そして現地国のひとたちにとっても絶大に理不尽である。

 「日米地位協定」の被害者である日本国民がなぜ、(じっさいには軍事的な過失を裁ける国内法廷を持っていないという意味で)それよりも理不尽な地位協定をジブチ国民に押しつけて平気なのか、というのが伊勢崎さんの憤りである。
「おっしゃっていることは 120%正しい。けれど護憲派として、憲法の矛盾にたいしては発議できない」。上記のような矛盾を訴え、その根源にある憲法の問題を指摘したときに、「護憲派」と呼ばれる議員のほぼ全員(名前こそ挙げなかったが、言えば誰もが知っているようなリベラル派の面々)から返ってくる答えが、これだという。「これが〈護憲派〉なんです」と、伊勢崎さん。

@isezakikenji: 『理論的に正しいことと、政治は別?』冗談じゃありません。間違った理論でやって成果が上がっても、そうやってつくられた「権力」は運動の「支持」の手前、間違った理論を自ら正すことはないからです。野党結集は正しい理論の下に。欠陥条項である9条2項の「護憲」は理論的に間違いです。
2018年4月4日 10:23

ちなみに、では、伊勢崎さんの考える改憲の条文案とはどんなものかというと、それはこうしたものだ。

【伊勢崎さんの9条改憲案】

9条を以下のように改定し「永久条項」とする。

  1. 日本国民は、国際連合憲章を基調とする集団安全保障(グローバル・コモンズ)を誠実に希求する。
  2. 前項の行動において想定される国際紛争の解決にあたっては、その手段として、一切の武力による威嚇又は武力の行使を永久に放棄する。
  3. 自衛の権利は、国際連合憲章(51条)の規定に限定し、個別的自衛権のみを行使し、集団的自衛権は行使しない。
  4. 前項の個別的自衛権を行使するため、陸海空の自衛戦力を保持し、民主主義体制下で行動する軍事組織にあるべき厳格な特別法によってこれを統制する。個別的自衛権の行使は、日本の施政下の領域に限定する。

『新国防論 9条もアメリカも日本を守れない』著者・伊勢崎賢治さんインタビュー|通販生活®

もちろん、伊勢崎さん自身が言及するように、この改憲案は「日米地位協定を改定することが大前提」のものでもある。さすがに紙幅が(尽きちゃいないけど)尽きたのでごく手短に触れておくが、日米地位協定のもとで〈戦争するアメリカ〉を体内に置いている(そして現に、在日米軍基地を他国への攻撃に使わせている)日本は、「戦争をする主権はおろか、戦争をしない主権がない」のである(ほんとうは、出撃するなと相手に言える関係を「同盟」と言うのだ、と伊勢崎さん)。そしてさらには、そうして〈戦争するアメリカ〉を体内に置きつづけることこそが、「テロとの戦争」以降の世界において、中国(言っときますけど秩序の側にいる「戦勝国」なんですよ、彼らは)なんかより、よっぽど国防上の脅威となり得るのだと伊勢崎さんは指摘する。
シンポジウムの席上、山尾志桜里さんが「安倍加憲案については、そもそも発議させないことが重要だと思っている」と述べた。これは、いま発表されている自民党の条文案が、それをもとに議論しても何の実りもないようなバカげた案2]であって、それに国民投票の労力を費やすのは無駄であるという理由からは正しい。けれど、これが「改憲の恐れを回避さえできればそれでいいのだ」という考えに接続されてしまうならば、それはまちがいだと言わなければならない。そうした態度はつまり、国際社会にむけてすべての矛盾を一気に露呈させてしまうに充分な、たった一発の〈事故〉がジブチで起こってしまうことを、ただ待っていることと同じなのだから。

2:バカげた案

この点についての伊勢崎さんの指摘は単純明快だ。戦後初の憲法改正としてそれなりのニュースバリューをもって世界に発信されるだろう条文を、英語で考えてみてくれ、と。つまり、9条2項をそのまま残しつつ自衛隊を明記するということは、9条2項で「戦力」=「 forces」の不保持を言っておきながら、そのすぐあとに「自衛隊」=「 self‐defense forces」の保持を言うということであり、これは完全な「法理の崩壊」なのだ。「 self‐defenseな forces」なのだから「 forces」とは違う、と言い張ろうにも、国連憲章によって保持を認められている forcesは self-defenseなものだけなのだから、このふたつは完全に同じものを指すのである。こうした批判にたいしておそらく自民党は、ローマ字表記で「 Jieitai」と書く、といった対応を用意しているのだろうが、つまり、その対応自体がずばり現しているような、バカバカしさをもった条文なのである。

 安倍加憲とは、「 9条もスキ、自衛隊もスキ」のポピュリズムを単純に解釈改憲から明文改憲するだけでそのポピュリズムに応える幼稚な「お試し改憲」にすぎないが、この憲法の“完全破壊”の危機に、護憲派は深く自省を込めて覚悟すべきである。9条を解釈改憲することにここまで慣れ親しんだ世論とメディアに十分な批判能力はない。そして、護憲派自身も「安倍の悪魔化」にしか反対の発露を見出せない、ということを。
シンポジウムで配布された資料「安倍加憲案に対抗する私の立場」より、伊勢崎賢治さんの文章、p.7

 今こそ、右/左、保守/リベラル、改憲派/護憲派、双方の「知性」が一致団結して、安倍加憲の「幼稚」に立ち向かう時だ。
同、p.9

Walking: 2.5km • 3,902 steps • 41mins 26secs • 117 calories
Cycling: 2.7km • 13mins 50secs • 60 calories
Transport: 75.1km • 1hr 25mins 51secs
本日の参照画像
(2018年4月11日 14:59)

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