/ 9 Apr. 2018 (Mon.) 「『洒落やないがな』とあのひとに言われました──月亭可朝の死を悼む」
- 18:11
- あぎゃー。
■月亭可朝の訃報を知る。あぎゃー、だ。亡くなった年齢こそちがうが、うっかりまだ聞けるだろうと思っていたこの感じは、志ん朝のときにちかいようなショックがある。そうそう、亡くなった年齢こそちがうが、志ん朝と可朝は同い年で、生年月日もそっくり同じだ( 1938年3月10日)。
■「祝80歳 可朝まつり 第3回可朝のハナシ」はお江戸日本橋亭で 3月11日に予定されていた。当然高座(ネタ出しは「住吉駕籠」と「野ざらし」)が予定されていただけでなく、桂吉坊が聞き手となる、ずばり「初期米朝落語を語る」という対談企画も組まれていた。開催の二週間ほど前になって可朝の体調不良のためにこの会が「延期」となったのは残念だったが、「日を改めて公演を行う予定でおります」としていた主催者のブログをわたしは素直に読んだし、仕切り直されたその日取りが発表されるのをただ心待ちにしていた。今回は主だったところ(?)に声をかけ、チケットを 5枚も取ってみんなで押しかけようとしていたので、また声をかけ直し、チケットをおさえ直さねばとそれだけを思っていた。むしろ、「体調不良で延期だって」と連絡したさいにみんなのほうが「えっ」と絶句しかかるような反応を見せたのを、こちらはなだめてまわってさえいた。だってねえ、公演延期のお知らせに言付けられていた「メッセージ」は、それこそこんなに颯爽としていたのだから。
『この度は、日頃の不摂生が祟りまして、入院加療が長引くこととなりました。可朝80歳を楽しみにしていただいたお客様にはまことに申し訳ございません(満員を頂いていると聞いております)が今しばらく時間を下さい。よりエロくなって高座に復帰いたします。お許し願います。月亭可朝拝』
謹告2 可朝まつり 公演延期のお知らせ | 有限会社宮岡博英事務所のブログ
■けっきょく可朝を生で聞いたのは一回きりになってしまった。2012年5月に川柳川柳とのふたり会を聞いたのだが、例によって肝心なことを日記に残していないわたしだ。ツイートとして残っている当日の興奮はこんな感じ。
可朝、すばらしかった。思っていたとおりだった。
2012年5月27日 15:54ネタこそ軽かったけど、漫談部分も含めて思っていたとおりの、あるいはそれ以上のじつに正統な語り口。言ってる内容をべつにすればまさしく〈米朝〉な心地よさと品のよさ。ま、こちとらハナから「のまれて」もいるしね。やっぱり大阪での独演会も行っとかないとだめかなあ。あ、月亭可朝さんの話っす。
2012年5月27日 23:53
■『ユリイカ』の桂米朝特集( 2015年6月号)を読み返す。ここに載っている可朝のインタビューがいいのだ。じつに冷徹に、理知的に、米朝のことも落語のことも考えているのがわかる。その可朝が、インタビューのなかでやけに南光を買っているのがうれしい。米朝の特集を組むような君らはひょっとすると見過ごすかもしれないが、いいか、南光はすごいのだ、と言っているように聞こえる。
米朝が死んだら上方落語は終わりやということはまったくどこにもありません。かえってそういう〔むしろ江戸風味に近かった米朝とはことなる〕大阪風味の落語がウワーッと出てくる可能性が高くなったと僕はみるべきやと思う。ほんだらそのためのひとがおらんやないかと言われたらおると。桂南光ちゅうのがおるから。
月亭可朝(聞き手=編集部)「上方落語の吹き返し」『ユリイカ』2015年6月号、p.122-123
■若き可朝がその場に居合わせたという、先代馬生と米朝とがふたりで飲みながら「算段の平兵衛」を復元する話はスリリングだ。『ユリイカ』のインタビューにも言及があるが、これについては同時期の記事で、米朝追善一門会を目前に控えた可朝に毎日新聞が取材したインタビューのほうがより具体的なことをしゃべっている。
これ〔「算段の平兵衛」〕はもともと埋もれてたネタなんですよ。米朝師が埋もれてたネタを掘り起こして、今の時代に生かそうと考えてね。僕もそばで見ておりました。(十代目金原亭)馬生師匠と東京の居酒屋で飲んでたときに、この話がぽんと出てきた。「あれはこうやったな」「そうなんですよ、それでね、こういうふうに展開してね」と2人で思い出しながら話してね。
ところが、2人でいくら話しても、どこへはまるか分からなかったくだりがあったんです。(平兵衛が殺した庄屋の死因を偽装するのに)ネタの中では首つりに見せかけ、盆踊りの中で踊らせ、最後は崖から落とす。けど、もう一つ、ヤクザの抗争に巻き込まれたように見せかける、というのがあったらしいんです。でも、噺の流れでどうやってそこへ持っていくのか、どうしても分からなかった。それで結局、今のネタには入ってないんです。あれはどこへ入るんやったんかなあ、というのは何度も言ってたね。
月亭可朝インタビュー「上方落語の『らしさ』出さな」「毎日新聞」2015年7月16日
あー面白い。
■これはブログ記事からの又聞きだが、可朝が語っていたという「名人論」がまたすごい。2010年5月、立川談春とのふたり会でのトークの内容を、いくつかのブログがこう採録してみせている。
面白かったのは、可朝さんが談志さんの落語は二流だ、と当人に向かって言った話。
可朝さんいわく、「情景描写をする前に俺は上手いだろう、と思わせてしまうのは二流」とのこと。その視点からすると、文楽さんも円生さんもそうなんだとか。それに比べて、志ん生は凄かった、という話。
月亭可朝・立川談春 二人会@日経ホール。(長文ご容赦) | AD/Marketing-BIZな日々 by T.Suzuki
「上手い、が先に来る落語家は二流。文楽、圓生、談志といった普通の名人はみんなそう。志ん生だけが一流、上手いと思わせるよりも客全員に客それぞれの情景を思い浮かべさせることができたから」
だそうで。
可朝談春二人会: 日々備忘録
これにうんうん首肯きたい気持ちも山々ながら、しかし一方で、「なるほど」と即座に引き取るのが憚れるような、これは「すごい」名人論だ。ここに語られる「名人」は途轍もない大きさのものであり、そして間違いないのは、可朝が、ものすごく大きな「落語」というものを見ていたということである。ここに言われる「一流」の座に、志ん生が座らされているのはおそらく可朝自身の強烈な志ん生体験があったからだろうが、言ってしまえばその指名さえ(可朝の考える「落語」というもののなかで)偶々のことであって、志ん生ありきの凡庸な序列が語られているのではきっとない。
■『ユリイカ』の米朝特集には米團治のインタビューも載っているのだが、そこに登場する可朝がまたかっこいい。米朝の葬儀の場で、米團治にむかって可朝が「君が米朝を継がなアカンがな」と言ったという話で、いちおう付言すれば、系譜的な名前の上下関係のなかで元来「米團治」は「米朝」よりも大きな名前であり、当時すでに「米團治」を襲名済みである彼がこのさき「米朝」を継ぐというのはふつうの理屈から言うとヘンなのだが(「志ん生」になった人間がそののち「志ん朝」を襲名するような感じか)、ここにあるのはおそらく、そうした名前の大小とはまたべつの、可朝にとっての理屈──米朝という存在への思いと、米團治への思い──なのだろう。
葬儀のときに月亭可朝さんが「君が米朝を継がなアカンがな。時期はあとでええ、せやけど、その覚悟はもっとけよ」とあの可朝さんが言うんですから不思議ですよね。そのときは遺族としてこの名前をもっておいていずれオークションで売りますわみたいなことを言うたんですけど、「洒落やないがな」とあのひとに言われました。
桂米團治(聞き手=編集部)「落語家の名前──桂米朝の家に生まれて」『ユリイカ』2015年6月号、p.97
Cycling: 2.5km • 12mins 50secs • 54 calories
Transport: 70.5km • 1hr 17mins 22secs
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