/ 18 Apr. 2018 (Wed.) 「志ん好の『ねずみ』」
- 0:30
- 9日付「『洒落やないがな』とあのひとに言われました──月亭可朝の死を悼む」。
■ぐずぐずといつまでも推敲していたらいまごろの更新になってしまった。9日に飛び込んできた月亭可朝の訃報から出発するあれこれが上の日記。「あぎゃー」のうめきに代えて。
- 14:34
- パパ勝。 #杵屋勝東治
■
- 20:42
- 4/18 落語しんこうどう・その27@日暮里サニーホール。鈴ヶ森/志ん好、一年生/粋歌〈仲入り〉ねずみ/志ん好。
■古今亭志ん好は 1月の「廓噺研究会」以来。ネタ出しが「ねずみ」だと聞いて駆けつけたのは、かつて先代志ん五のその高座( 2008年7月)に震えたからだ。是が非でも、志ん好に継いでほしい噺のひとつである。
■その志ん好の「ねずみ」は無事及第。「でもまだ及第、ぜんぜん及第」とこちらの欲を掻き立てられるくらいにはニヤニヤ聞けた。あとは場面々々の解像度を上げることと、場面から場面へスッスッと〈ただつないでいく〉その技術かなあ。ってそれ「全部」か。まあでも、手応えのあるいい「ねずみ」だった。あとはもう、ひたすらうまくなってもらうしかないよ。
■志ん五は「ねずみ」と「大工調べ」の二席。収穫は「ねずみ」。口はばったい言いようながら、いま、「古今亭」のもつ最良の部分をもっとも体現できるのは(あるいは、その可能性があるのは)やっぱりこの人なのだと再確認させられる一席。演りようによっては粘っこくも描写できるだろうところを軽く、すっすっと筋から筋へつなげていきながら、それでいて個々の場面(ショット?)は非常に解像度が高いというようなそんな印象で、たとえば甚五郎の二度目の仙台行きにほぼ藪から棒に同行する大工・政五郎の江戸っ子ぶりなどはもう一種のクライマックスである。
2008年8月7日付「さかのぼって志ん五のことなど」
あー、そっかー、「政五郎がクライマックス」かー、そりゃすげえと、いま当時の日記を確認して志ん五のすごさをあらためて。あと、今夜とりわけ物足りなく感じたのは最後のねずみ自身で、志ん五の高座にはあそこ、「ねずみがしゃべってる!」と感じさせる何か工夫があったように思う。ごく些細な工夫だったような気がするが、とにかく、「あっ、(いま話者は)ねずみだ」とごく自然に(しかしはっきり意識させられて)思わされた記憶がある。「政五郎のクライマックス」を経た最後、「ねずみ、しゃべるのかよ」という得も言われぬ気持ちよさの到来が、やはりこのファンタジーの成就には必要なのだ。
■助演の二ツ目、三遊亭粋歌ははじめてだったが、なるほどとそのスタイルが伝わった。噺のなかに〈巧まない女性〉をいかに出すかといった感じで、おのずと登場人物全員が巧まない存在となるのだが、そのことと、いっぽうでまっすぐ衒わずに巧まれたマクラや筋、サゲとが矛盾しないのが魅力だろう。なぜか(ってこともないか)、大師匠の圓歌を思った。
■あ、そうそう、粋歌さん、この 4月からは NHKラジオの「すっぴん」にも隔週で出ているそうで。
Cycling: 1.3km • 6mins 42secs • 28 calories
Transport: 92.2km • 2hrs 6mins 3secs
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