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Mar.
2019
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/ 1 Mar. 2019 (Fri.) 「予行演習を終えて、春 / ベルリンは晴れているか」

深緑野分『ベルリンは晴れているか』(筑摩書房)。

2月の日付をいくつか飛ばして、さあ、3月だ。春めく陽気にさそわれて日記もここからが本番である。2月までの日記といったい何がちがうのかと問う向きにはきっぱり答えたいが、まずもって 3月からの日記はまるで気合いがちがい、くわえて、語尾が伸びがちになるー。それとー、句読点がー、、余分に付くー。。まあ、あまつさえ花粉で目がしょぼしょぼしているので、何を書いているのか、あまり見えていないということも 2月とのちがいのひとつだ。
。思い出したように南波(典子)さんのサイトのブックマークを開き、ここ一、二ヶ月かの近況をまとめて読んだが、するとそのなかで、前にわたしが薦めた『ベルリンは晴れているか』を読んでくれていた。日記には読み終えたとあり、ならばもう、何憚ることなく、ここでネタバレに興じたらいいのではないかという思いにかられるけれど、ま、そりゃ、憚ったほうがいいんでしょうな。

そして今読んでいるのは『ベルリンは晴れているか』。これはすごいなあ。どうやって調べたのかなと思いますが、第二次大戦中と戦後のドイツの様子、様々な立場の人たちの苦しみ、生き延び方、振る舞いというのが非常に細やかに描かれていて、しかもエンターテインメント性が高い。『すべての見えない光』のような、脳がひりひり、皮膚がざわざわするような感覚はありませんが、のっけから「あ、これは面白いな」と惹きつけられ、今中盤で、さらに「ぎゃ、すごい、面白い!」という展開になっております。本屋大賞とったらいいなあ。
みんなでリセット | しいたけ園←ブロッコリー

 それでわたしはいまさしあたり、南波さんが味わった、この「中盤」の「ぎゃ、すごい、面白い!」が具体的にどこなのかというのを言い当てたくてしょうがないのだが、おそらくね、「 II」の終わり、ヴァルターの「試作品第一号」が走り出すところなんじゃないだろうか。いや、ちがってたってかまやしないのだが、あそこの疾駆感と万能感はほんとにね、小説が全方位に向かって光り出すのを感じるのである。

『ベルリンは晴れているか』読み終わりました。
後半どんどん戦況が悪化し、読んでいて辛くなる描写がいくつも出てきましたが、これはミステリー小説なので、途中で読むのをやめられない。
最後に謎がバンバン解き明かされていく形態が「ずっとこの形でいいのかな」と思ったりもしましたが、それにしても、戦中戦後のことがよくよく細かく描かれていて、これは小説ですけれども、戦争について、こういう語り継ぎ方というのがあるんだなと、思いました。『この世界の片隅に』とか『ペリリュー 楽園のゲルニカ』なんかも、そうですね。最後に参考文献がたくさん書いてありましたが、作者の深緑野分さんの、責任の引き受け方、覚悟が半端じゃないものと思われ、もうただただすごいなと。勤務先の中学校でも、戦争関係の本をホラー本と同じように怖がる子がいますから、こういう、多くの人の心を惹きつける表現で戦争のことを伝えてくれるのは、とてもありがたい。
そして読み終えてさらにわかるのは、これは面白いミステリー小説であり、戦争について伝える小説でもあると同時に、ひとりの少女がどうやって正義を貫こうとしたか、という物語なんだなということ。
もう一回読みたいな、ゆっくりと。そして『戦場のコックたち』も読みたい。
チク、チク | しいたけ園←ブロッコリー

でまあ、『ベルリンは晴れているか』についてはやはり、〈希代の深緑野分読み〉として知られるところの「安眠練炭」さんのツイート連投にとどめを刺すように思われるのだが、とはいえ、さすがに全部引用するとなるとけっこうなツイート数なので、ここでは抜粋して引くにとどめたい──いやまあ、「とどめを刺す」と言うにはそのツイート群ももちろん充分にネタバレへの配慮がなされていて、それもあってかやや迂遠ではあるのだが、その範囲内の評としては充分に「とどめを刺す」だろう。
それでまず、先に些細な話からさせてもらうなら、安眠練炭さんも軽くツッコんでいるように、本のオビにある「歴史ミステリ」という言葉はこの場合ちょっと語弊があるというか、余計なミスリーディングを誘うものであると思う。というのは、一般に「歴史ミステリ」という場合、「歴史上の謎」──本能寺の変はじつはこういうことだったとか、そういうの──が扱われているミステリを指すことが多いからで、だからわたし、物語内時間が「ポツダム宣言の受諾前」だということがわかる序盤のあたりでは、「んー、主人公の行動選択が企図せず原爆投下につながる、とか?」といった、まるであさってな方向の結末予測を立ててしまったりしたのだった。ぜんぜんちがったさ。

@aNmiNreNtaN: ここでひとつ注意していただきたいのですが、私は非常に偏向した読書傾向を有しており、その中心には常にミステリがあります。全くミステリとは無関係な小説を読むときでさえ、強いジャンル意識の影響下であれこれ考えながら読むわけです。当然、『ベルリンは晴れているか』もそのように読みました。
2018年10月24日 15:52

@aNmiNreNtaN: 『ベルリンは晴れているか』のオビには「歴史ミステリ」と書かれていますが、実際のところ『ベルリンは晴れているか』はミステリかどうかはかなり疑わしい小説です(ミステリと言えなくもないかもしれませんが、歴史ミステリではなく時代ミステリに分類すべきではないか……と余計なツッコミ)。
2018年10月24日 15:56

@aNmiNreNtaN: ですが、むりやり『ベルリンは晴れているか』をミステリの枠に押し込めて読んでみると、これは「探偵小説が成立しえない世界を舞台とした探偵小説」だといえます。なぜここで「ミステリ」ではなく「探偵小説」という語を用いたかというと、羽志主水の傑作短篇「監獄部屋」の一節の捩りだからです。
2018年10月24日 16:00

@aNmiNreNtaN: 「監獄部屋」に寄り道している余裕はないので割愛しますが、「探偵小説が成立しえない世界を舞台とした探偵小説」というのは私が以前「氷の皇国」を読んだときに思いついたフレーズだということは書いておかないといけないでしょう。そしてまた『ベルリンは晴れているか』も同じです。
2018年10月24日 16:07

@aNmiNreNtaN: ミステリ的なギミックは基本的には平和である程度民主的で社会秩序が確立した世界でのみ意味をもちます。「氷の皇国」のような絶対的権力のもとでは、あるいは『ベルリンは晴れているか』のような戦後の荒廃状況では、名犯人も名探偵も出る幕がありません。
2018年10月24日 16:14

@aNmiNreNtaN: では作者は如何にして「探偵小説が成立しえない世界を舞台とした探偵小説」を書いたのか、というのが(私のような読者にとっては)非常に興味をそそられる点であり、以前「氷の皇国」を読んだときと同じく『ベルリンは晴れているか』にも大いに感心しました。
2018年10月24日 16:18

@aNmiNreNtaN: とはいえ、それが『ベルリンは晴れているか』をして傑作たらしめた主要因というわけではありません。先ほども書きましたが、この作品はミステリかどうかはかなり疑わしく、そういう観点を頭からすっぽり抜いて読んだほうがより充実した読書体験が得られるかもしれません。私にはできないのですが。
2018年10月24日 16:20

@aNmiNreNtaN: では『ベルリンは晴れているか』はどこがどう優れていて傑作なのか、ということをうまく書ければいいのですが、残念ながら私にはこの作品の特質を的確言い表す術はありません。ただ、「凄かった!」とか「よかった!」とか、わめきたてるのが関の山です。
2018年10月24日 16:23

この前後にまだツイートは拡がっていて、このあとには、南波さんもどうかと思ったらしい謎解きの駆け足感、詰め込みすぎ感への言及もある。あれはどうしたって構成的には瑕疵に映り、「『ベルリンは晴れているか』ならあと100ページくらい長くても退屈せずに読めたと思」うものの、「それだと上下巻になってしま」うという「営業」上の「尺」の問題があったのではないか、というのが安眠練炭さんの想像だ。
で、その構成上の瑕疵に関連して、安眠練炭さんは「幕間 V」の「据わりの悪さ」──「幕間とは幕と幕の合間のことだから最後が幕間というのはおかしい」──についても指摘しているが、この、最後に置かれるのが「幕間」であることのほうには、ある種の擁護を試みたいと思うわたしがいる。というのも、まずは単純に、その「幕間 V」のあとにつづくであろう、物語の枠外にある「幕」の存在──当然読むわたしたちの〈現在〉も含む、戦後という長い幕のその「地続き」っぷり──を暗示する役目が「幕間 V」には指摘できるからだが、さらに、これを円環構造として捉えて、「幕間 V」のあとに冒頭の「 I」が来るというふうに読んでみるのはもっと刺激的かもしれないと、たったいま考えたのである。
「幕間 V」においてふたたび主人公の手元に戻ってくる「黄色い本」、『エーミールと探偵たち』は本書においてはたんなる一冊の本、一個の小説ではなく、小説という営為全体を象徴するメトニミーとして機能するのだが、その小説の自由さ・面白さの象徴である『エーミールと探偵たち』はくわえて、本書『ベルリンは晴れているか』自身のメタファー/分身であるようにも読めるだろう。『エーミールと探偵たち』と大文字の〈小説〉と『ベルリンは晴れているか』。この三つをすべて等号で結んでしまうような読者の読みを、あるいは作者・深緑野分は謙遜から否定するかもしれないけれど、しかしわれわれはその等号が結ばれうることを、『ベルリンは晴れているか』のわくわくする読書体験のなかで充分に知っているのである。

 自由だ。
 もうどこにでも行ける。何でも読める。どんな言語でも──
 失っていたと思っていた光が、ふいにアウグステの心に差した。そしてその光は、今のアウグステには白く、眩しすぎた。
「幕間 V」、p.469

 やがて時が経ち、目が慣れて、このときには「眩しすぎた」白い光が収束したそのときに眼前に像を結ぶもの、それこそが「 I」からはじまるこの小説『ベルリンは晴れているか』──「小説を読んだから小説を書くのだ」という後藤明生の言葉よろしく、ついに過去の体験を小説として語りはじめる老アウグステ!──だと夢想することは、あながち悪い夢想ではないように思えるのだ。
なんていうのは、いかが?

本日の参照画像
(2019年3月 4日 18:27)

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