/ 9 Jul. 2007 (Mon.) 「ケンタウロス」
■書こうと思って忘れていたのは、東京都立川市の「立川市男女平等参画基本条例」のことだ。ポストに投函されていた「広報たちかわ 7月10日号」[PDF, 3.7MB]の表紙に紹介されていたのをざっと読んだのだ。そこには、「条例の基本理念」として次のようにあった。
- 男女が、性別により差別されることなく、個人としての人権が尊重されること。
- 男女が、個人の意思と責任により多様な生き方を選択することができ、かつ、その生き方が尊重されること。
- 男女が、家庭、地域、職場、学校その他の社会のあらゆる分野の活動に対等な立場で共に参画し、責任を担うこと。
- 男女が、社会の対等な構成員として、あらゆる分野における政策及び方針の立案並びに決定過程に参画する機会が確保され、その個人の能力が十分に発揮できること。
内容のこまかい検討をしたわけではないし、それに見合う見識を私が備えているとも思わないが、ひとまず問題にしたいのはこの「男女が」と繰り返される主語それ自体だ。つづく述部に関してはさしあたり否定のしようもなく、立派なことが書かれているとしか言いようのないものだと思う。しかし、その主語がなぜ「男女が」でなければならなかったのか。どうして「人それぞれが」とすることができなかったのかとそのことを思う。人を、「男/女」という二分法のなかに決定的に押し込めてしまうことこそが、いわゆる〈ジェンダーフリー〉がそこから逃れようとした枠組みではなかったか。
つまり「男」と「女」しかないのかっていうことなんです。二つしかないのか、っていう。このあいだに、実際はもう少し幅があるんです。
宮沢章夫『東京大学「ノイズ文化論」講義』(白夜書房)、p.281
宮沢さんの言葉でいえば、これにあたるだろう。
■ま、もちろん〈段階論的な意味合い〉とかね、そういう側面はきっとあるんだろうけど、それを置いてまっすぐ先を見て、「男女が」という主語の限界は見据えておかなければならないだろうと、そういうことです。
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