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Apr.
2017
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/ 24 Apr. 2017 (Mon.) 「米朝と志ん朝、ニュートラルなふたりの相似」

ロビン。抱かれて。2009年12月。

先日観に行った米朝一門会についてのツイートと、そののち更新した日記の更新告知ツイートとを、「米朝一門会」で検索して行き当てたものだろうか、@onlygoodnessさんという方に思いがけずリツイートしてもらった。@onlygoodnessさんについてはプロフィール欄の記述から知れるわずかばかりのこと──上方落語(おもに米朝一門)のファンで、京都在住らしいこと──しか知らないのだが、なんだかうれしくなって、二、三の会話も交わした。
で、それをきっかけに過去の自分の日記をいくつか読み返したりもしたのだが、思っていた以上に、こと米朝にかんしては「あんまり書いてない」のだった。だから、ちょっと書いておこうと思ったのが以下の話。とりとめならないし、べつに目新しい話でもない。
どこで読んだものか、いまその出典を探し出せずにいるのだが──記憶では、米朝の何かの噺のビデオパッケージに付いていた、米朝自身による作品解説じゃないかと思うのだが──、「上方落語には、もとは別個の二つの噺を無理やりくっ付けるという成り立ちかたをしているもの、そのために前半と後半で趣きが大きくことなるものが多い」といったような趣旨のことを、米朝が書いていたのがやけに印象に残っていて、その指摘がわたしの上方落語理解のひとつの礎になっているところがある。そうした噺にはつまり、本来は異質な二つの噺の接合面があって、「くっ付ける」の接頭語を借りてわたしのイメージを言うならば、〈くっ、となってる〉部分がある。そのフォルムの具合を指して、米朝が「ヘン」と言っていたか「いびつ」と言っていたか、はたまたそうした評価は何も言っていなかったか、その記憶はなおのことあやふやなのだが、ともあれわたしには米朝が、上方特有の噺のフォルムのいわば「ヘン」さを、「ヘン」さのままに──もちろん近代的な演者の立場から、そうした〈変調〉のある噺をあくまでひとつの統一された噺として違和感なく処理するために苦労させられつつも──愛しているように思われたのだ。
だからたとえば自作の「一文笛」にしても、あれがああしたかたちをしているのは、ひとつにはそうした〈接ぎ木的な自在さ〉への意識があったからだろうと思われる。
わりあい気に入ってる文章なので、自分で何度も引用していて申し訳ないのだが、

▼かつて我々が「プロレス」だと思い、それゆえに「プロレスが好きです」と言ってきたものが、今となって実は「猪木」だったと分かるように──喩えて言えばそういうことなのだが──、ひょっとして我々が「上方落語」だと思っているものは「桂米朝」なのではないか。そう思ってしまうだけの名人が、目の前なのだった。
コーナーの日記/2001年GW特別篇「今しばらくの、うわの空」

というこの 2001年5月の日記(大阪・トリイホールで「古手買い」と「肝つぶし」を聞いたときのもの)で、「猪木」と「プロレス」の比喩を使ってわたしが言っているのは、逆から言うと、われわれが享受し、堪能する「桂米朝」なるものは、ことによると本来の「上方落語」的なものからは遠く隔たった何かなのかもしれない、ということでもあった。そしてそこにおいて、「米朝」的なるものと、「志ん朝」的なるものとが結びつく。「似てる」という物言いの〈何も言ってなさ〉にひとまず目をつぶっていただくならば、端的に言って、志ん朝は米朝に似てるのであり、米朝は志ん朝に似てるのだ。
これは 2001年11月、東京の日経ホールでの独演会(「天狗裁き」「たちきれ線香」)をいっしょに聞いた長兄が、その後に送ってきたメール。

達者で、上品で、明るくて、
人情噺でも泣かせに走らず、どこか突き放したような
ニュートラルな心地よさとでもいうか・・
って、志ん朝さんの誉め言葉ではないですか
方言の違いが災いして、うっかりしていました
芸の質が志ん朝に最も近いのは米朝でありました
志ん朝さんの喪失感1]を味わった諸兄は
米朝さんに行きましょう

たちきれ線香、小糸の三味が流れてサゲまで数分、
妻子を見捨ててきたに足る2]
至高の時間でした

1:志ん朝さんの喪失感

志ん朝の急逝は 2001年10月。「この『戦後』には、志ん生がいない。」とわたしはその日の日記に書いた。

2:妻子を見捨ててきたに足る

茨城県在住である長兄は、娘の誕生日でもあったこの独演会当日、さらには嫁が四十度の熱をだして「どうか行かないでくれ」ともっともなことを言うそのなかを、逃げるようにして東京に出てきた。

両者の高座が「似ている」ことについて、わたしは長らくそれ以上の言葉を持っていなかったのだが、そんななか、『米朝落語全集 増補改訂版』第8巻にあったこの文章にはちょっとどきりとさせられた。

 さらに大阪のつらいところは、明治以来、標準語教育のおかげで、東京弁はよくわかるが、大阪弁は、関西一円しか通用しない。これも東京落語に押されるゆえんであろう。
 ただし、これは別の見方ができる。江戸落語は江戸の方言、東京の言葉でしゃべられた。大阪は上方の方言でしゃべられた。それが、標準語というものができたために、東京の言葉もこれに影響されて、本来のニュアンスが失われ、普遍的ではあるが、味わいの薄いものになってしまった。元来の江戸言葉でしゃべられたら、おそらく現行の大阪弁よりもっとわかりにくいのではないかと思われる。
桂米朝「上方ばなし『上方落語の前口上』」、『米朝落語全集 増補改訂版』第8巻、p.148。初出は「上方趣味のなにわ」昭和31年8月号。太字強調は引用者。

 さすがは米朝、見ている時間の射程がちがう。文章の初出は 1956(昭和31)年であり、ここで「本来のニュアンスが失われ」ているはずだと言われている江戸落語は、何も〈昭和の名人たち以降のそれ〉というわけではなく、〈昭和の名人たちそのもの〉のことである。
 さてそこで、志ん朝だ。亡くなったとき、「これで江戸言葉が消えた」といった言われ方もされた志ん朝だが、そういう存在である志ん朝なればこそ、「(江戸言葉の消えゆく)現代」との対比においてではなく、むしろ「元来の江戸言葉」との関係においてこそ捉えられるべきなのではないか。この文章が教えてくれるのは、そうした視座だ。
 つまり、志ん朝の江戸/東京言葉がわれわれの耳に心地よかったのは、たんにその生粋のしゃべり手であったからなのではなく、ニュアンスの〈淵源〉をも覗き得た生粋のしゃべり手として、そのローカル性を〈普遍〉の側へと開いていく意識も持っていたからなのではないか。そう考えたときにあらためて、〈ローカル〉と〈普遍〉との両方を眼差すことのできた「ニュートラル」なふたり──米朝と志ん朝──の相似を、そこにおいても見ることができるのではないかと思ったのだ。
それにしても、米朝の見ている時間の射程は遠い。『米朝落語全集 増補改訂版』の刊行を終えた 2014年、米朝が「あとがき」の最後に寄せるのはこうした言葉だ。

 昔から申してきましたが、私は落語という芸はどんなに時代が変わろうが、なかなか滅びるもんやないと(おも)てます。なにしろ世界に類のない話芸でっさかいな。けど、それをうまいこと高座にのせられるかどうかは、すべて演者次第。
 百年先、二百年先の噺家(はなしか)に、この本が少しでも役に立ったら幸いです。
桂米朝「『増補改訂版』完結に接し(新版あとがき)」、『米朝落語全集 増補改訂版』第8巻、p.284。ルビは原文。

Walking: 3.5km • 4,770 steps • 49mins 42secs • 165 calories
Cycling: 2.7km • 13mins 10secs • 58 calories
Transport: 69.3km • 1hr 12mins 14secs
本日の参照画像
(2017年4月27日 19:14)

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