/ 27 Apr. 2017 (Thu.) 「百年はきっと短い──米朝と新落語」
- 19:19
- 日記を更新。24日付「米朝と志ん朝、ニュートラルなふたりの相似」。
■駆られ、またぞろ長ったらしいものを書いてしまう。後半で取り上げている『米朝落語全集 増補改訂版』第8巻はついこないだ買ったものだ。百年を描いた映画を観た帰り、百年を見ていた噺家の本を買い、百年を思った。
■ところで、『全集』に付いているスピン(栞の紐)は、定式幕の三色で三本(黒、柿、萌葱)なのだった。きれい。
■これも『全集』第8巻の小論・随筆編に収められた文章で、「新作落語について」という 1966(昭和41)年に書かれたエッセイがある。はじめはふんふんという感じで読んでいたのだが、やがて思いがけぬところへ話は至り、あっと思わせられる。
さて、私の述べた新作落語は、現在までのものについてでしたが、未来の、待望される新作落語はとなると、別に稿を改めて書きたいのです。それはもう一段、高い段階の話芸を示すもの、あるいは過去の無数の落語のうちのよりすぐった佳作名品を高度の技術で演じた落語に匹敵するだけのもの──。
それをつくるためには、私は古典をもう一度新しく演出し研究し直して、「落語」という芸のここ百年ぐらい大丈夫という、型なり演出法なりの基礎固めを行ってからそれに則ってつくりだす、「新作落語」であらねばならないと思っています。新作落語は、新しい落語──まだ聞いたことのない落語というだけでなく、真に新しい狙いと感覚をもった、新しい境地を開いてみせるものであるべきです。新作落語でなく、新落語であること……ゆえにこれはむつかしい大変な問題なのです。
桂米朝「新作落語について」『米朝落語全集 増補改訂版』第8巻、p.170。初出は『こてん』第5号、関西学院大学古典芸能研究部、昭和41年9月。
ものすごいことを言い出した、ときに 40歳の米朝である。もとより、人ひとりの生涯で足りるスケールの話ではない。となればもちろん、聞く側とて同じことだ。米朝の夢想したこの「新落語」がはたして成るとして、それはわたしの生きているあいだのことではないだろう。
新しい落語づくりはむつかしいものです。毎日聞くたびに変わっていく新しさ、新しいギャグを盛り込んでいく新鮮さ、あるいは古典を忠実に守って、しかし新しい演出を加えていくやり方、またはオーソドックスな落語演出法で、何回聴いても変わらない手堅さ……それらに共通して、正しい芸ならどれにでも当てはまるような、法則というか、落語の理念を探り出したい。これが新落語につながるものと私は今、考えています。
同上。
けっきょくこのあと(いやもちろん、時系列で言えばこのエッセイが書かれるもっと前からだけど)、米朝は「落語の理念を探り出」すためにむしろ過去に参照し、滅んでいた噺、継承の途絶えていた噺の〈発掘〉という方向へとむかう。その〈発掘〉は、よく言われるようにそのじつほとんど米朝による〈創作〉と言ってもいいような作業だったわけで、あるいはそれこそが、米朝にとっての実質的な「新落語」だったのではないかという気もする。
そう、上の引用で語られるような壮大な「新落語」計画がはたして成ったとして、そのとき、それはいったい「新しい」のだろうか──米朝の言ってるようなものを想像していくと、存外、新落語もまた「毎度古いハナシを聞いていただきます」と語り出されるのではないか(笑)──と、そう思ってしまわないでもない。
■それでまあこの「新落語」構想を追いかけて、けっきょくわたしは『桂米朝集成』の第1巻まで買ってしまったのだが、そこに前掲の文章から 3年後の、1969(昭和44)年に書かれた論考があり、その末尾付近にあるこの箇所などは、「新落語」構想のいわば変奏というか、さらに 3年が経ってみての結論と決心のように受け取れるのである。
……ここまで進歩してきた独特の話術、特殊な話芸、その力を用いてお客を魅了することができたら、古典落語と呼ばれようと、古くさいと言われようと、大衆芸能でなくなろうと、やれるところまでやってみよう。いや、もうそうなったら真の古典と呼ばれる価値のできるところまで、この話術を磨きに磨いてみよう。私の代では中途半端な段階で了るに違いない、あるいは私の次の世代でもどっちつかずかもしれない。
また、この私のやり方に反撥して、あくまで泥まみれになっても大衆芸能として、悪戦苦闘する者もいよう。そしてその中から、新しい話芸や手法が生まれてきて、大成させる者ができるかもしれない。そして落語は二分されるかもしれない。そうなったら、むしろ喜ぶべきことと言えましょう。 桂米朝「落語の位置」『桂米朝集成』第1巻、p.112。初出は『帝塚山演劇学』第2巻・第1号、帝塚山大学演劇研究室、昭和44年5月。
そして 1977(昭和52)年にはじつにあっさりと、
だから私は古い噺を新しくするということで新落語と名づけてます。これは新作落語ではなく、昔からある噺を削ったり、つけ加えたりして今の人に充分共鳴してもらえる落語にすることをそう言うたんです。 桂米朝「落語の創造論──今日の落語、明日の落語──」『桂米朝集成』第1巻、p.175。初出は『創造』146号、大阪シナリオ学校、昭和52年12月。
と述べてしまうまでになっているのだが、ここに至るまでにあった '66年の夢想と '69年の決心──歴史的につねに「新作」でありつづけた落語と、いま「古典」化を余儀なくされる落語との双方に引き裂かれつつ、たんなるラベリングでしかない「新作」「古典」の謂からは離れて、愛した「落語」そのものをそこから抽出しようとした苦悩と奮闘──にこそ、まずは目を瞠りたい。
■少し前、笠木(泉)さんと会ったときにちょっとだけ落語の話になり、新作落語の話になって、「なぜわれわれ(この「われわれ」は、端的にわたしと笠木さんの二人を指す)は、新作を楽しめないのか」というような問いを互いに持ち帰ることになったわけだが、その問いを考える一助にもなるだろうかという、今日はそんな話。
■いやあ面白いですね、米朝。
きょうのひとこと
その証拠に松島の現長の
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Transport: 70.2km • 1hr 19mins 31secs
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