5
May.
2017
Yellow

最近のコメント

リンク

/ 2 May. 2017 (Tue.) 「パークス・イン・ザ・パーク」

ロビン。2010年5月。

映画『 PARKS パークス』ポスター。

映画『 PARKS パークス』オリジナルサウンドトラック

7:33
「私たちが一番やりにくいのは大道です。露天です。これはもうどうしようもない。ところが夜なら演れるんです。夜は暗闇というものが全部を包んでくれて、ライトが当りますとそこだけが高座になる」(桂米朝「落語の創造論」『桂米朝集成』第1巻)
9:48
日記を更新。27日付「百年はきっと短い──米朝と新落語」
12:15
それどこ。
17:13
日記を更新。28日付「あんなに持ってたライターがない」
18:34
吉祥寺。
20:03
もんくすふーずはまだあった。

起床時刻のメモは残ってないが、かなり早い時間に目が覚めて、それで出社前に「米朝と新落語」をめぐる文章を書いていた。その途中、参照していた米朝のエッセイのなかからまたべつの一節を取り出してツイートする。それだけ引用しても何のことだかわからないので前後も含めたが、何と言っても痺れたのは、「ところが夜なら演れるんです」というこの実演家の放つ言葉のかっこよさだ。そこにはちょっとばかり、今夜観に行くつもりの野外劇への意識もあったかもしれない。
大学時代、次兄とのふたり暮らしで、吉祥寺にはしばらくのあいだ住んだことがある。夜にある野外劇の会場、井の頭公園の西園にある競技場──「それどこ」となったところ──は、当時ついぞ行かなかったというだけで(もしくは行ったことを忘れてるだけで)、兄と住んでいたその部屋からほどない場所にある。駅から来て「万助橋」のバス停を過ぎ、まだそのまま吉祥寺通りを道なりに少し行ったところに部屋があった。あ、そうそう、(三鷹市)下連雀。部屋からさらにちょっとだけ行ったところ(部屋からで言うと、最寄りのタバコの自販機よりも近い位置)に「三鷹の森ジブリ美術館」ができる、その少し前の頃のことだ。
野外劇の予習のためにと、26日には映画『 PARKS パークス』を観た。ときならぬ桂米朝ブームのために陰に隠れたが、

百年を描いた映画を観た帰り、百年を見ていた噺家の本を買い、百年を思った。
4月27日付「百年はきっと短い──米朝と新落語」

とこっそり言及したその映画は『 PARKS』のこと。以来、ここのところはそのサウンドトラック をずっと聴いている。鳴っている。
『 PARKS』は、この 5月に開園 100周年を迎えた井の頭恩賜公園( 1917[大正6]年5月1日開園)を舞台にした映画で、2014年に閉館した「バウスシアター」のオーナー、本田拓夫の企画ではじまったもの。公園脇のアパートに住む大学生の「純」(橋本愛)のもとに、そのアパートに以前住んでいた女性が亡き父のかつての恋人だったのだという「ハル」(永野芽郁)が訪ねてくる。父についての小説が書きたいのだというハルに促され、その女性「佐知子」(石橋静河)について調べるうちに、佐知子の孫「トキオ」(染谷将太)を含めた三人は遺品のオープンリールに辿り着く。そこに録音されていたのは 50年前の恋人たちの歌声だった。

君と歌いたい曲がある それはこんな曲で
僕らの物語が この公園から始まる

テープの損傷のために途中までしか聞き取れないその曲の続きを作り、完成させることにした三人は、そうして、公園の過去と未来をつなぐ〈記憶と夢の冒険〉へと足を踏み入れていく。
といったようなお話で(要約おつかれさま、おれ)、事前情報からさてはまあ、「曲が完成して(それが歌われて)メデタシ、メデタシ」といったような内容なのかと期待の地平を作っていると、それは見事に裏切られることになる。その裏切りの予感は、あるいは冒頭、自転車に乗って公園を駆けめぐっていた橋本愛の服がふと切り替わっていた瞬間から、すでにあったのかもしれない。ああ、これは巧妙な〈枠〉が仕掛けられた映画なのかもしれないぞ、用心しないといけないぞ、と。でまあ、予感のとおりに映画は、「なんだか鈴木清順っぽいな」という途中々々の印象とも相俟って、終盤、「物語についての物語」「語りをめぐる語り」といった迷宮のなかに雪崩れ込んでいくのだが、それについちゃあ──「ほんとかよ?」ということも含めて──じっさいにスクリーンでたしかめていただくとして。
その映画『 PARKS』のスピンオフ── spin-offの原義としての副産物、副作用に近いそれ──として制作され、今夜一夜かぎりで上演されたのが「ロロ」による舞台『パークス・イン・ザ・パーク』だ。三浦直之が脚本と演出をつとめ、篠崎大悟、島田桃子、望月綾乃(以上、ロロ)、大場みなみが出演した。タイトルに正確に表されているとおり、今作において映画からスピンオフしたのは「映画内の何か(キャラクターなど)」ではなく、物語についての物語であった『 PARKS』にまったくふさわしく、「映画そのもの」である。映画『 PARKS』は、劇中の男女──ひょんな流れから、形式としての「告白」を成立させることなく付き合い出すことになったふたり──が、付き合いはじめて一年目のとある日に吉祥寺の映画館で観た/観ている作品として言及される。その意味で、映画『 PARKS』は劇中において、その実在の固有名のなかに完全に封じ込められているとも言えるわけだが、それは、映画のなかの「恋」の要素が、50年前の過去の時間のなかに完全に封じ込められている(映画冒頭、純=橋本愛は「すでに」フラれている)ことと、逆の相似をなすかのようでもある。
映画と同様、舞台の『パークス・イン・ザ・パーク』でも複数の〈時間〉が同時に扱われるが、そこにおいて〈未来〉もしくはある種の〈永遠〉の位置にあるのが、「このあともついに、何年経っても『告白』を果たすことがないであろう男」である。男としては、その告白およびプロポーズの不成立(とはいえ形式として成立しないだけで、ふたりは付き合い、結婚するのだが)を、自身の優柔さのせいではなく、それぞれの場面で会話に割って入ってきた(そして、告白とプロポーズとをそれぞれ実質的に成功させた)見知らぬ女たちのせいだと主張するのだが、その「ついに告白できない」=「恋は、つねに/すでに成就してしまっている」という状態がある種の〈永遠なる時間〉に結びついているのだとすれば、告白を成立させない役の彼女たち──弁天たち?──もまた、つねに/すでに、恋の原初に立ち会う者として、永遠の、百年の時間のなかにいるだろう。
ともあれ。舞台も客席もなく、何かが「地続き」であることを──たとえば公園からの帰り途、はたしてこのふたりは「告白」を済ませたんだろうか、それともまだなんだろうかというような、微妙な距離を会話に響かせて前を歩く、にこやかな男女のやりとりを聞くなどもして──感じさせたその夜が、とても幸福な、百年の時間を包んでいたことはまちがいない。

Walking: 7.1km • 10,319 steps • 1hr 47mins 4secs • 338 calories
Cycling: 2.5km • 14mins 52secs • 56 calories
Transport: 69.8km • 1hr 23mins 23secs
本日の参照画像
(2017年5月 4日 14:45)

関連記事

トラックバック(0)

このエントリーのトラックバックURL:
https://web-conte.com/blue/mt-tb.cgi/1161