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Jun.
2018
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/ 8 Jun. 2018 (Fri.) 「『ドードー』の感想」

あらためて『ドードー』のチラシ。

チラシの裏面に使っている絵のオリジナル(薄くする前)。

もう一枚。

それで『ドードー』だけれども、6月1日と 2日の二回、いずれも夜の回を観た。よかった。
冒頭、「わたしには名前がない」ということから語りはじめるその女性・治子は、ネット上でコミュニケーションを取るためのいわゆるハンドルネームを決めかねている。ブログ、掲示板、メールといったメディアがおもなコミュニケーションの場となっているそのインターネットには「いったいいつの/どこのインターネットだ?」という思いがよぎるが、そもそも、舞台上のそれはある特定の時代や Webサービスを描くのではなく、この 20年くらいのそれらが渾然となったようなものとして、それ自体がいわば〈無名のインターネット〉として登場させられているように思われる。
というのはたとえば1]、そのハンドルネームが最終的に「のろま」に決まるまでのあいだに治子はいくつかの候補を「これも(すでに)使われてる」という嘆息とともに却下していくが、それはアカウント作成のさいにユニークなユーザー名を求められるツイッターやインスタグラムといった Webサービスでの体験を想起させるもので、個人サイトに設置されるような掲示板一般や、ブログのコメント欄への投稿に当てはまるものではない、といった具合である。

1:たとえば

あとついでに言うなら、後半にアイテムとして登場する「 Pokémon GO」で、治子の弟はポケモンキャラである「ドードー」を捕まえるためにスマホの画面をタップ連打しているが、「 Pokémon GO」でタップ連打は(少なくとも捕まえるときには)しないと思う。

てなことを指差し確認しているのはべつにツジツマのアラを探しているのではなくて、むしろこの作品においては、そうした〈いつかのどこかのインターネット〉がモザイク状にうまく継ぎ接ぎされていると感じるからだ。〈こんなだった気がする〉という記憶とイメージの集積としてのインターネット2]は、そこに現れる〈いま〉さえも、すでに一度過ぎ去った出来事として遠く沖のほうへと押しやるような感覚がある。

2:〈こんなだった気がする〉という記憶とイメージの集積としてのインターネット

言うまでもなく、そこにおいてこそ存在可能なのが、「鶏のムネ肉をわらび餅のようにする」奇跡的なレシピだ。

物語のはじめと終わりとを対応させ、作品の〈枠〉として捉えたくなる読みの欲望からすると、「では終幕にさいして、彼女ははたして〈名前〉を手にすることができたのか?」という問いを立てたくなるところだけれど、観るかぎり、彼女は何を獲得するのでもなくて、ラストではいよいよ茫洋とした無名性──あるいは複数性──のなかに溶け出し、消えていくように思える。けれど、それは彼女──や、その弟、父、「ブー子」さん、「カバ子」等々の存在──が固有性を持たないということではけっしてなく、逆にその無名性や複数性によってこそ、彼女の固有性──あるいは彼女であったかもしれない〈私〉によって照射されるところの〈彼女〉の固有性──が生まれるのだということをわれわれは目撃する。
その意味で、「のろま」と「治子」というふたつの名前の対称性は象徴的だ。他に使用者のいない、世界に唯一の IDであることを要請されて付けられた「のろま」は、そのじつたんなるラベリングでしかなく(彼女はまさしく「オードリー・ヘップバーン」にもなり得たのだ)、そもそも、その世界に参加するための資格の一部として〈ユニークであることを強要される〉という事態は、逆説的に、その世界では固有性=単独性が保証されていないことを示している。いっぽう、彼女の父によってその命名の謂われが語られる「治子」──ホームラン王の王貞治から一字を取った──は、王貞治の当時の影響力からしてあるいはその年相当な数が生まれたのかもしれない「治子」のなかのひとりであるという意味で何らユニークな名前ではないが、しかし、その謂われを語る父、その父を見舞ってうわごとのような父の話を聞いている息子、その彼の口から父の様子を伝え聞く姉=治子という語りの〈複数性〉と〈隣接性〉のなかで、たしかにそこに、彼らの存在の〈跡形〉があるのをわれわれは観ることになるのだ。
もちろん、だからといって、ネットのハンドルネームが虚構で、本名がリアルであるというような単純な二元論ではないのは、「のろま」と「ブー子」というふたつのハンドルネーム──両者はともに、ネット内での嘘に支えられた虚構的存在でもある──のあいだにもまた、お互いの固有性に根差したつながりが生まれる〈かもしれない!〉という、その奇跡の跳躍に向かってこそ、物語は走り出すからである。
印象的だったシーンのひとつは、治子が両肩の付け根のあたりに発作的な痛みを訴えるあのシーンだ。痛みのあまり肩の付け根を押さえて腕を後方にねじるようにする治子の仕草は、いっぽうでは「手が後ろに回る」という慣用句をストレートに想起させる(前後して、治子は万引きの常習者であることが語られる)のだが、と同時に、その肩からついに〈飛ぶための〉羽が生えようとしている、その身体変化にともなう痛みなのだとも見てとれる。そののち治子は、いよいよ飛ばんとするかのように脚立に登るのだったが、しかしけっきょく、ドードーが飛ぶことはやはりなかった。
こうして、記憶の集積から力を得たドードーは毎夜、もういちど絶滅する。感想は何もない。ただ踊り子ありという俳優の魅力だけを残してひっそりと、ちょうど芝居がひとつハネるように、絶滅するのだ。それがとてもよかった。

本日の参照画像
(2018年6月18日 22:54)

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