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Feb.
2018
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/ 9 Feb. 2018 (Fri.) 「ああ『内面生活』」

ロビン。2016年8月。

紅野謙介『物語 岩波書店百年史 1』は第3章「『知識』から『教養』へ」まで。面白い。さすが「物語」という筆の運びも所々見え、まあ何というか、盛り上がるのだった。

 岩波茂雄は教師を辞めたら、いずれ晴耕雨読の田園生活に帰るつもりであったという。その前に「市民」として関わることのできる仕事に転じてみよう。そう考えていた岩波の目の前で、神保町の古書街が火の海に包まれた。個人の思いと事件とが交差したとき、新たな一歩が踏み出されることになった。
第1章「古書店からの出発」、p.34

 いやいや、笑いごっちゃないですけどね(笑ってないですか?)、ここ(第1章の締め括りにあたる)はさすがにぐっとくる。
でまあ、俄然、第3章で扱われている阿部次郎の『三太郎の日記』が読みたくなるのだった。もちろん紅野さんの切り取り方と読みとが抜群なのだと思うが、それにしても〈日記書き〉としてこれはやはり読んでおくべき、あるいはそれこそ教養として容れておくべき一冊なんじゃないかと思わずにいられない、その「メタ」ぶりであり「倒錯」ぶりである。

漱石の『三四郎』ばりの「青田三太郎」という平凡すぎる名前を与えたこの虚構人物を設定することにより、著者と日記の書き手に一線を画し、さらにその日記の書き手に、時差をおいて三年前の日記に対面させ、非連続な自己に立ち会わせる。さらに、あらためて日記を書き出し、みずからの内なる言葉を書きつけようとするのだが、それもぴたり重なることはなく、日記と内面の反映関係はないと言う。こうした二重三重の否定的な距離化の操作をへて獲得されるのは、そのような語り自体の真実性である。これは嘘だと言い続ける書き手を用意することで成立するメタレベルの「真実」の表象を目指したのである。
第3章「『知識』から『教養』へ」、p.88

〔略〕『三太郎の日記』は、創作であると同時に評論・エッセイであり、そのような混淆したジャンルを生み出したことによって読者を得た。複数の自己を抱え、さまざまな想像力を働かせながら、たえず思索しつづけること。たえず更新しなければならない「内面生活」という課題こそ、「教養」の前提である。
同、p.90

うふふ。かくして「教養」をめぐる旅はつづく。

21:02
すっかり忘れてたんで、いま見て自分で笑っちゃった。スーパーマンレッセブン第11話

「スーパーマンレッセブン」はもう 20年も前に作ったページ(ページデザインというか HTMLは 10年くらい前に一度整えているけど、中身は 20年前のまま)。ふと覗いたアクセス解析で珍しくここへのアクセスがあって、つられて自分で見に行ったら全然記憶になく、新鮮に笑ってしまった。笑ってしまったが、これ、いったい「面白い」のかどうかはわからない。
円谷ウルトラシリーズのパロディで、「ぽい」シナリオをそこそこちゃんと書いている回と、あらすじだけのまるきりふざけた回とを交互に配するかたちで全11話を作った(あ、だからツイートのリンクにあるやつが最後/最新の回なのね)第1話第3話第9話(形式的には)ちゃんとしている回である。
夜は「 HIRA」というカレー屋のカレー。さのみ足繁く通っているわけでもないと思うのだがマネージャーといった感じの人に顔を覚えられており、一ヶ月ぶりぐらいの今日は「ずっとお待ちしておりました」と声をかけられる。おいしい。
帰宅するとオリンピックが開幕していて、開会宣言の少し手前あたりから見る。とおりいっぺんのことをしていると言えばそうなのだが、それでも少しく感銘を受けたのは、なんとも〈健全〉なナショナリズムの発露がそこにあった気がしたからだった。

Walking: 3.5km • 5,019 steps • 53mins 7secs • 164 calories
Cycling: 3.8km • 13mins 55secs • 80 calories
Transport: 70.2km • 1hr 34mins 31secs
本日の参照画像
(2018年2月10日 23:09)

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