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/ 11 Mar. 2017 (Sat.) 「撤収の報に触れて」

ロビン。2008年8月。

けっきょく夜までかかってずっと、丸一日というわけでもないがそれにちかく、「教育勅語」についての日記( 8日付)を書いていた。鍵付きアカウントなのでツイートを引用はできないが、ある知人が、森友学園のニュースとその受容のされ方をめぐって、post-truth的なものにたやすく無効化されてしまう言葉の側の無力っぷり(への諦観)みたいなことをつぶやいていて、それに動かされたのだった。こりゃ、言葉を信じる者として──はたまた稀代の説明人として、ニッキストとして──、ちゃんと書いておかないといけないのではないかと。で、なんとか夜に更新。
午後には先週に引き続いての庭仕事もちょっとだけ。たいしたことはしていない。
「南スーダン派遣の陸自施設部隊 撤収へ」というその第一報が iPhoneのディスプレイに飛び込んできたのはきのう( 10日)、『ささやきの彼方』が終演して機内モードを解除したときだった。まずは何より、政府が撤収の機を見つけられたことに安堵したいが、もとより「これですべてが解決」となるわけではない。また、たんに安倍政権だけを批判して済む問題でもなく、その点で伊勢崎賢治さんの苛立ちと問題意識にもなるべく寄り添いたいと思っている。

@isezakikenji: 自衛隊の命を守れと?
安全じゃないから撤退せよと?
ふざけちゃいけません。
安全じゃなくて住民が犠牲になるからそれを守るために国連PKOがいるのです
:南スーダンの自衛隊を憂慮する皆様へ〜誰が彼らを追い詰めたのか? http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49799 #現代ビジネス
2017年3月12日 12:23

たとえばこれ。

「治安悪化原因でない」=安倍首相、南スーダンPKO撤収で
 安倍晋三首相は13日午後の参院予算委員会で、南スーダン国連平和維持活動(PKO)に派遣している陸上自衛隊部隊を5月末をめどに撤収させる決定について、「治安悪化が原因ではない。一定の区切りを付けることができるという政策的判断だ」と述べた。共産党の山下芳生氏への答弁。
 稲田朋美防衛相も「PKO参加5原則は維持されている」と従来の政府見解を繰り返した。(2017/03/13-15:46)
「治安悪化原因でない」=安倍首相、南スーダンPKO撤収で:時事ドットコム

この、「治安悪化が原因ではない」という発言を安易に批判することはできないとわたしは受け止める。もちろんこの発言にはふたつの意味=メッセージの側面があって、そのひとつ、おもに日本国内にむけた「南スーダンの治安は悪化していない」というメッセージ(後段の防衛相の発言ともつながる)については大嘘だし、まだそれを言うのかよって話である。しかしいっぽうで、「(治安は悪化したが、)治安が悪化したから撤収するのではない」というメッセージについては、国際社会にむけたタテマエとして、それはそう言わなければならないということがあるのだ。なぜなら、南スーダンにおける国連 PKOの現在の筆頭任務が「住民保護」だからである(その意味で、防衛相の「PKO参加5原則は維持されている」こそは二重に嘘であり、批判されなければならない)
要は、PKOはもはやかつての(自らは交戦主体とならない)PKOではないということなのだが、その〈変化〉が PKOにもたらされたのは、2011年に当時の民主党連立政権で野田内閣が南スーダンへの自衛隊派遣を閣議決定するよりもはるか前、1999年のことである。そもそも PKOというものが生み出されたのは「内戦」という新たな戦争の形態に対応するためで、内戦においては旧来の「国家」対「国家」の戦争ではなく、その国の政権と反政府勢力との衝突になるため、その国の政権が「自国民」に──かつ、えてして無辜の住民に──牙を剥くという構図になる。「内政不干渉」を原則とする国連にとってそれは対応しづらい事態だったが、その内戦が国家間の戦争と同等の(ときにそれ以上の)被害を生む状況がつづくなか、「内政不干渉」と「人道主義」の双方に配慮するものとして編み出されたのが当初の PKOだった。それはあくまで中立的立場──自らが交戦主体=紛争当事者とはならない立場──を維持しつつ活動していたのだが、そのさなか、1994年の「ルワンダ虐殺」が起きてしまう。
虐殺の発生する前までルワンダの内戦は「停戦」の状態にあり、国連 PKOは、紛争の当事者である政権と反政府ゲリラの両者の同意のもとに、停戦を見守るという任務を帯びて同国に入った。しかしその停戦が破れ、政権側とそれに同調して暴徒化した多数派の部族住民が、対立する少数派の部族住民を虐殺する事態になる。PKOの部隊がそこで少数派部族を守れば、すなわち国連が交戦主体となって政権側と戦うことになってしまうため、彼らはそのとき何もできず(ニューヨークの国連本部がそれをさせず)、見守るうちに状況は手のつけられないところまで悪化して、各国の部隊は次々と撤退。結果として、約 100日間のうちにおよそ 80万人から 100万人が殺害されたとされるジェノサイドが起きた。こうして国連 PKOは、まさにその発生時に現場に居合わせたにもかかわらず、住民を〈見殺し〉にする経験をする。このルワンダのトラウマを経て、そして同様の悲劇を生む可能性の高い内戦が各地でつづくなかで、国連はついに、「住民の保護を任務とするため、交戦主体となることもいとわない」という大きな方針転換をするのだ。それが 1999年のことであり、アナン国連事務総長(当時)の告示としてはっきり宣布されている。
日本政府の言ういわゆる「 PKO参加 5原則」とは、

(1)紛争当事者間の停戦合意の成立(2)紛争当事者の受け入れ同意(3)中立性の厳守(4)上記の原則が満たされない場合の撤収(5)武器の使用は必要最小限
PKO参加5原則とは - コトバンク

だが、停戦が破れたまさにそのときこそ、そこにとどまり、住民を保護するために戦うことを決意しているのが現在の PKOであり、おもには(3)と(4)において、そもそもの原則がそぐわなくなっているのが 1999年以降の PKOなのである。南スーダンの状況下においてこの 5原則が守られているかどうかの話ではなく、1999年以降、PKOそのものの変質によって、原則自体が成り立たなくなっているのだ。PKO活動のなかに「後方」なる安全空間があるかのように語るのも日本でのみ通用するレトリックであり、前提としてもちろん、自衛隊は国連多国籍軍に「一体化」するのだから。
だから、もちろんこのまま自衛隊を派遣しつづけることはできなかった1]ものの、いっぽうで撤収の「機」を見ることは必要だった。むろん本来的には軍隊=自衛隊を送ることだけが国際社会への貢献ではないものの、いま・ここの(すでに派遣してしまっている)状況においては、国際社会にむけた何らかの撤収のタテマエがなければ、平和主義であったはずの「 9条」が「人道主義」と競合してしまうのである。

1:自衛隊を派遣しつづけることはできなかった

国連と現地国とが結ぶ「地位協定」によって、国連部隊は現地法から訴追免除されており、その国連部隊が国際人道法違反の行為を犯したときには、各部隊派遣国の国内法廷で裁くことになる。この国内法廷というのは一般には軍事法廷を指すが、「交戦しない」前提の日本には軍事的な過失を扱う法体系がなく、適用させるなら刑法しかないのだが、さらには刑法の「国外犯規定」により「業務上過失致死傷」などをあてはめることができないため、たとえば自衛隊員が過って住民を殺害してしまった場合などには「たんなる個人が行った殺人事件」としてしか裁けないことになる。この状況は派遣される自衛隊員にとっても、そして現地国のひとたちにとっても絶大に理不尽である。つまり厳密に言うならば、1999年の国連事務総長による告示以降、国内に軍法を持たない日本は PKOに参加する資格をそもそももたないのである。詳しくはたとえば「日本はずっと昔に自衛隊PKO派遣の『資格』を失っていた!(伊勢崎 賢治)」を参照。

と、ここまででこんなに字数を費やしてしまったが、ほかにも多岐にわたり、指摘すべき問題はある。朝日新聞のこの記事の後半、伊勢崎賢治さんからの聞き取り記事が多岐にわたる問題それぞれにかなり目配せよく、コンパクトに言及しているので、(そうは言ってもクリックしてくれないんだろうけどさ、)できればお読みいただきたい。有料記事のためログインしないと読めないのだが、無料登録すれば( 1日1本まで)読めるので、ま、できれば、はい。

Walking: 14 meters • 28 steps • 18secs • 1 calories
本日の参照画像
(2017年3月17日 13:23)

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