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Nov.
2016
Yellow

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/ 9 Nov. 2016 (Wed.) 「きょう、窓があいた」

1969年、22歳のヒラリー・ローダム。

こちらも同年、ウェルズリー大学時代の一枚。

“This team has so much to be proud of. Whatever happens tonight, thank you for everything.” という、公式アカウントのツイートに添えられていた一枚。

取り留めなら、ちょっとないかもしれない。
それと先日来、『後藤明生コレクション1 前期Ⅰ』の影響はやはり大きくて、いまさらだけど、いやほんと、わたしの書くものなんざ、ねえ、という(後藤明生相手の!)引け目が余計に筆を進まなくさせてもいるけれども。
当日の、開票が進むにつれてのそのドラマはこのさい省くことにして、その入念な開票のおおよそ終わりつつあるいま時点の数字を先に示せば、総獲得票数でクリントン: 60,467,601票( 47.7%)、トランプ: 60,072,551票( 47.4%)というかなりな接戦。総獲得票数ではクリントンのほうが 39万票( 0.3%)ほど勝っているが、これがトランプの圧勝(とも見え、読める結果)になるのは選挙制度による。ただ、この選挙制度もこれはこれで〈なかなかよくできている〉仕組みではあるようで、まずもって「合衆国」=連邦政府であるところのアメリカは、行政的に独立している「州」がまずそれぞれに〈われわれにとっての大統領は誰か〉というのを択一で選び、それが「選挙人」の数──各州の選挙人が何人かというのは、国勢調査をもとに 10年ごとに見直しがされるらしい──をとおして全体に反映されるから、〈各州の代表性〉を無視した総獲得票数とのあいだに齟齬が生じてしまうのは制度上しょうがないとも言える。
予想していなかった結果だったというのはそのとおりだ。

15:55
けっきょくまた自分のタイムラインしか見ていなかった、というのを、より大きなサイズで体験させられたかたち。

というこのツイートに註のようなものを付けるならば、わたしの場合、タイムラインにはこれでもそれなりに、ちょっとどうなのかという意見(「ちょっと」の濃淡はさまざま)の持ち主を意図的に混ぜてもいるつもりなのだ。なぜわざわざそんな苦行を? という話だけれど、無理でない範囲においてなるべく、タイムラインはそのようにしておきたい1]とあるとき思って混ぜて以来、そのままになっている。

1:タイムラインはそのようにしておきたい

で、そのタイムラインとはべつに、しばらくツイッターを見ないでいた折など、ささっと確認したいとき用の「 rapidly」と名付けた非公開リストが作ってあって、友人・知人や、ほんとにツイートを読みたいひとなどをそこに入れている。この「 rapidly」のタイムラインの、なんと快適なことか。

そのように成り立ったわたしのタイムラインにおいてさえ、支持云々はべつとして、結果予測という点では「まあ、でも、クリントンだろう」というものだったわけで、だから「より大きなサイズで」であるのと同時に「より根底的なレベルで」でもそれを体験させられた感覚があって、リツイートしたこの方のこの感慨にそれは通底している。

@mizukawaseiwa: basically, there are at least two different countries within the US, the UK, and probably Japan (and probably other places, too).
2016年11月9日 13:58

このようにして可視化された〈むこう側〉をどのように捉えるか。いっぽうでは、この〈むこう側〉の人々は何も特別な人々ではないのだという説明がある。つまり、今回トランプに勝利をもたらした人々の中身は、2008年の選挙においてオバマに投票したひとたちなのだ(そのような浮動票の動きがなければ共和党のこのような勝利はありえない)という説明。ちなみに票の獲得率を有権者全体で見た場合には、

@bcrypt: 26.4% of eligible voters in the US voted for Trump
26.5% voted for Clinton
44.4% didn't vote

:(
2016年11月10日 11:18

であるわけで、その前述の説明が〈 2008年にオバマに投じたうちの一定数が今回は didn't voteにまわり、逆に didn't voteだった人たちのなかからトランプに投じる者が現れた可能性〉というのをどのくらい排除できる根拠をもっているのかということは素朴な疑問としてあるものの、とはいえ、少なくともある程度はそうなのだろうと思わせられる説明だ。
そのいっぽうで──というハナシはまたあとでするとしてだが、この、むこう側の世界にいるのはさほど特殊なわけではない〈われわれの半分〉なのだという捉え方は、やはり重要であるように思われる。それはつまり、これは比喩としてまったく外しているのを承知で書くのだけれど、かつて、

もし わしの みかたになれば
せかいの はんぶんを
(プレイヤーの名前) に やろう

という竜王の誘いにきっぱり「いいえ」を突きつけたわれわれなればこそ、究極的には、こっちの半分だけで幸せにやろうというのは、やっぱりだめだろうということである。

16:05
だから、めざすべきは〈こっちが勝つ〉ことじゃないのだ。きっと。

その意味でも、まずわれわれが懐疑的になるべきは〈択一〉というものにたいしてだろう。〈択一〉というものこそが、本来地続きであるはずのものに見せかけの断絶をもたらし、断絶されたそのむこう側への抑圧を生み出す。もちろんわれわれは、この 70億人からなる〈非真正な社会〉でのコミュニケーションを可能にするにあたって〈システム〉を必要とし、その〈システム〉が〈択一〉という手続きを必要とする局面はあるが、しかし〈択一〉を欲しているのはあくまで〈システム〉であって、けっしてわれわれが直接欲しているのではないということを思い起こす必要がある。〈択一〉を排し、「ここ」と「あそこ」が地続きであるとまず想像すること。たとえば「ナチス的なもの」は否定しなければならないが、その「ナチス的なもの」はけっしてわれわれと隔絶した異次元の〈悪〉ではなく、われわれと地続きの、われわれのなかから現れた/現れうる〈悪〉なのだということ。重要なのは抑圧することではなく、知ることである。
有権者の属性をいろいろとこまかに取り上げての分析はもちろん有用だが、そうしたアプローチや戦略が有用なのはあくまで社会における、非真正なコミュニケーションの層=システムの層においてである。われわれはその層を生きるのと同時に、もうひとつの層──〈顔〉のある関係のなかで生成する個の固有性・単独性・代替不可能性・比較不可能性に根ざした、真正な社会の層──を生きてもいる。このふたつの層の単純な区別が、あるいは「ポリコレ」云々をめぐる論議にも調停の途を指し示すかもしれない。といった関心からのつながりでふと「公共圏」と「親密圏」てやつのことを調べているなかで、大阪大学の法学部 4年生(執筆当時)による「親密圏の現代的意義」という懸賞論文に出くわし、ちょっと興味深く読んだりもした。

共約の難しい複雑なバックグラウンドを捨象することは、議論の単純明確化、とりわけ数値を利用した学問の成果には大きく貢献するだろうが、それによって析出された結果は、分かりやすくはあってもおよそ現実的ではない。本来的に含みあっている複数の生が織りなす複雑なコミュニケイションこそが社会の構成するのであり、政治を形成するのである。
常盤成紀「親密圏の現代的意義」、p.13

たとえば茨城では小中同級のI君がこんな迂闊な、ごまんと批判を呼び込みそうなことをつぶやいたりする。

@KEN472: あの人は大統領になったら意外とマジメに仕事するんじゃないかな。メチャクチャやったら暗殺されそうだし...
2016年11月9日 16:51

これが迂闊であることのひとつは、米大統領という非真正な〈システム〉上の存在を扱うにあたって、あたかも町内会長の顔を思い浮かべでもするかのような、真正な社会における〈想像の仕方〉を用いてしまっている点である。といって、もちろんI君は「あの人」をメディアをとおしてしか知らないはずだから、そこに〈顔〉のある関係など成り立つわけもなく、そもそもその〈想像〉自体が(想像の仕方というレベルにおいて)間違っているだろうことも当然指摘できる。真正な社会における〈想像の仕方〉は基本的にメトニミー的な隣接性による連想だが、I君がここで行っている想像はおそらくメタファー的な、類似による連想であるはずだ。
であるのと同時に、わたしとI君とのあいだでは〈顔〉のある関係が──いやまあ、もうずいぶん会っていないけれども──成り立ってもいて、「まあね、I君ならね、こんなことも言うよね」といった了解がなされたりするのだし、I君はI君で、「相馬なら書きそうだよ、こういうの。何言ってんだかぜんぜんわかんないけど」と了解していそうに思える。I君の言説を批判することと、I君を擁護することとはそれぞれべつの層で行われる(べつの層でしか行いえない)行為であって、わたしがI君を擁護するとすればそれは「I君の言説が論理的に正しいから」ではなく、単純に「I君だから」である。
と、たとえばそんなようなこと。
そして唐突だが、そんななかでもテニスのツアーはつづく。内藤(祐希)選手がワイルドカードをもらって本戦に出場している安藤証券オープン@有明。なにせねえ、ITFのプロサーキットの大会なので、ライブスコアおよびライブストリーミングがあるのだ!(ストリーミングはコートによっては無い。)
きょうはシングルスの一回戦。v. 二宮真琴( WTAランキング 394位)というのはワイルドカード同士の組み合わせだが、WTAランキングなどまだあってないようなもの( 1249位タイ)である内藤選手にとっては誰と当たろうが〈負けてあたりまえ〉であり、むしろ二宮選手にこそ〈ジュニアに負けてる場合じゃない〉というプレッシャーがかかるだろうその状況のなか、みごと内藤選手は接戦からチャンスをものにした。ストリーミングの調子があまりよくなかったのであれだが、思っていた以上にダイナミックなプレイスタイルに見え、ああ、ほんとに強いんじゃんと思う場面もしばしば。サーブも、磨けばちゃんと武器にできそうな雰囲気があるように見えた。ともあれ、何がチャンスと言って勝てばつぎ、二回戦の相手は奈良くるみなのである。貴重でずっしりくるだろう体験という意味でこれほどのチャンスがあろうか。とか言って、つづく奈良くるみの一回戦がフルセットにもつれこんだときには「おいおい」と心配になったが、そこはしかし無事くるみちゃんが勝ち上がり。

シングルス一回戦
Yuki NAITO (JPN) d. Makoto NINOMIYA (JPN) 7-5 7-6(3)

その内藤選手、どういう経緯でかはわからないが(ファンなのかな?)、ケイティ・ペリーのこのツイートに「いいね」していて、そのことにちょっと救われもした。

@katyperry: Do not sit still. Do not weep. MOVE. We are not a nation that will let HATE lead us.
2016年11月9日 17:15

じっと座っていてはだめ。泣いてはだめ。動こう。われわれは憎悪に導かれるような国ではない。

 ちなみに、内藤選手による「いいね」を経由して最初にこのツイートを見たときにはまだ、ケイティ・ペリーのプロフィール画像はふつうに肖像写真か何かだったと思うが、その後、引用したようにプロフィール画像とヘッダー画像とが黒一色に変わっていた。抗議なのだろう。
ともあれ、きょう、窓があいたのだ。

@iwatakeiji_bot: 二つの世界のあいだには壁がある。しかし、時としてーそれが時の誕生なのであるがーそこに対応という窓があくことがある。いや、実は、窓があいたとき、対応のところにおいて、二つの世界が互いに見えてくるのである。その時、その所において、むこうの世界が誕生し、こちらの世界が誕生するのである。
2016年11月9日 18:38

本日( 9日)の電力自給率:43.2%(発電量:9.9kWh/消費量:22.9kWh)

Walking: 3.3km • 4,567 steps • 45mins 9secs • 155 calories
Cycling: 1.3km • 8mins 27secs • 30 calories
Transport: 71.4km • 1hr 27mins 3secs
本日の参照画像
(2016年11月12日 05:10)

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